カテゴリ:白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室
白州町 見所(みどころ)拠所(よりどころ)
■清泰寺のカヤ(県指定) 所在地花水1405-1 管理者高木高雄 指定年月日昭和43年2月8日
清泰寺の石段をのぼりつめた総門の南東側に立つカヤの巨樹である。根本は西が低く、東はそれより0.3メートル高い。露出根元の廻り10.5メートルあり、高地面で測った根元の廻り7.7メートル、そこから1.5メートルの目通り幹廻りは5.4メートル、地上約5メートルで多くの枝を分けその枝長は東西17.9メートル、南北19.5メートルの規模をもち、樹高は28メートルに達している。樹勢は極めて旺盛。樹齢約600年と言われる。
■諏訪神社社叢(県指定) 所在地大武川98の1 管理者大武川区 指定年月日平成6年11月7日
諏訪神社の地帯は大量の石灰岩地質で、その影響で地質特有の貴重な植物が群生している。先に指定した「トチの木」とは種類を異にするので社叢林として別に指定された。主な植物は、ワニグチソウ、ヤマブキソウ、カタクリなどである。
■北原家住宅(県指定)
所在地台ヶ原2283 管理者北原兵庫 指定年月日平成12年10月12日
北原家は、旧甲州街道台ヶ原宿のほぼ中央北側にある。酒造業を営む当家の母屋は、16問×10問の切妻平入りの大型住宅である。文化・天保・嘉永・慶応の家相図があり、現在の建物は嘉永の建築と推定される。明治13年に明治天皇が巡幸された際、行在所として西側の座敷三室が使用され、戦前までは文部省により史跡指定されていた。
■山口諏訪神社本殿並びに拝殿(町指定) 所在地上教来石202 管理者氏子総代 指定年月日昭和48年12月1日 この社の祭神は建御名方命で、創立年月は不詳である。本殿は一間社流造で、様式手法の上から江戸初期の建造と推定される。屋根は檜皮ぶき、建物全体に朱色が施されている。拝殿は問口9.3メートル、奥行6.5メートルで明治初年の建築であるが、廻り舞台の構があり、かつて村芝居が盛んに行なわれたころの名残をとどめ、全県的にも数少ないものである。
■山口諏訪神社の鰐口(町指定) 所在地上教来石202 管理者氏子総代 指定年月日昭和48年12月1日
当社の所蔵する鰐口は、面径18.8センチメートルの青銅製である。作者名は刻んでないが桃山時代の作風を示し、工芸品としての価値も高い。鰐口は、社殿や仏堂の軒下につるす金属製の用具で、平たく丸く中空で下方に横長の口がある。布であんだ綱で打ち鳴らす。
■ 山口関所跡(町指定)
所在地上教来石1359 管理者白州町長 指定年月日昭和48年12月1日 甲州24ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文10年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は2名で近隣の下番の者2名ほどを使っていた。当時の番士は二宮勘右衡門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永2年(1705)に本栖の口留番所から移って来た。この番所の記録に残る大きな出来事に、天保7年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ番士が「扶持召し上げられ」の処分を受けたことである。番士のうち二宮氏は再び職に戻り、明治2年番所が廃せられるまで勤め、明治6年に設けられた台ヶ原屯所の初代屯所長に起用されている。今は蔵1つ残すのみで他の建物は残っておらず、地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股、六尺棒などの道具が荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取氏宅に保存されている。
■台原家住宅(町指定)
所在地台ヶ原2294 管理者台原信 指定年月日平成10年3月13日
台原家は旧甲州街道台ヶ原宿の上宿にある。当家所蔵の系図に「元禄13年(1700)八左衛門与屋敷ヲ替ル家作出ル」とあり、また建築の諸特徴からもこの時の建立と考えられる。年代のはっきりした代表的古建築である。荒尾神社の社家として建てられた当住宅は、問口15.5メートル、奥行9メートルの規模をもつが、切妻板ぶき屋根平入りで、甲州街道沿いの宿場の一般形態と同じである。
■北原家住宅(県指定) 所在地台ヶ原2283 管理者北原兵庫 指定年月日平成12年10月12日
北原家は、旧甲州街道台ヶ原宿のほぼ中央北側にある。酒造業を営む当家の母屋は、16間×10問の切妻平入りの大型住宅である。文化・天保・嘉永・慶応の家相図があり、現在の建物は嘉永の建築と推定される。明治13年に明治天皇が巡幸された際、行在所として西側の座敷三室が使用され、戦前までは文部省により史跡指定されていた。
■山口諏訪神社本殿並びに拝殿(町指定) 所在地上教来石202 管理者氏子総代 指定年月日昭和48年12月1日
この社の祭神は建御名方命で、創立年月は不詳である。本殿は一問社流造で、様式手法の上から江戸初期の建造と推定される。屋根は檜皮ぶき、建物全体に朱色が施されている。拝殿は問口9.3メートル、奥行6.5メートルで明治初年の建築であるが、回舞台の構があり、かつて村芝居が盛んに行なわれたころの名残をとどめ、全県的にも数少ないものである。
■山口諏訪神社の鰐口(町指定)
所在地上教来石202 管理者氏子総代 指定年月日昭和48年12月1日 当社の所蔵する鰐口は、面径18.8センチメートルの青銅製である。作者名は刻んでないが桃山時代の作風を示し、工芸品としての価値も高い。鰐口は、社殿や仏堂の軒下につるす金属製の用具で、平たく丸く中空で下方に横長の口がある。布であんだ綱で打ち鳴らす。
■山口関所跡(町指定)
所在地上教来石1359 管理者白州町長 指定年月日昭和48年12月1日
甲州24ヶ所の口留番所の1つで、信州口を見張った国境の口留番所である。ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文10年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は2名で近隣の下番の者2名ほどを使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永2年(1705)に本栖の口留番所から移って来た。この番所の記録に残る大きな出来事に、天保7年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ番士が「扶持召し上げられ」の処分を受けたことである。番士のうち二宮氏は再び職に戻り、明治2年番所が廃せられるまで勤め、明治6年に設けられた台ヶ原屯所の初代屯所長に起用されている。今は蔵1つ残すのみで他の建物は残っておらず、地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股、六尺棒などの道具が荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取氏宅に保存されている。
■清泰寺のカヤ(県指定) 所在地花水1405-1 管理者 指定年月日昭和43年2月8日
清泰寺の石段をのぼりつめた総門の南東側に立つカヤの巨樹である。根本は西が低く、東はそれより0.3メートル高い。露出根元の廻りユ0.5メートルあり、高地面で測った根元の廻り7.7メートル、そこから1.5メートルの目通り幹廻りは5.4メー'トル、地上約5メートルで多くの枝を分けその枝長は東西17.9メートル、南北19.5メートルの規模をもち、樹高は28メートルに達している。樹勢は極めて旺盛。樹齢約600年と言われる。
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最終更新日
2021年04月25日 06時47分05秒
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