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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月20日
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〔地蔵講〕

 

(台ヶ原)

六・七・八・九組で行っている。六組では、午前一一時頃、子供を連れて集まり、宿で用意した甘酒で飲食する。対象はエイラクヤ(永楽屋)の前の地蔵さんである。会費は四〇〇円と米五合である。帰りは子供にみやげを持たせる。戦時中は一時すたれたが、国道開通後、子供の交通安全を祈って行われている。七組では、彼岸に行い、一〇時頃細田正雄氏宅内のお地蔵さんへ米を持って行く。トウヤ(宿)は輪番制で、すし・ダソス(団子)を作り用意する。地蔵前で鉦(かね)をたたきながら真言を唱え、トウヤで飲食する。オシソメ(紙幣)は細田氏が切る。八組では、春・秋の彼岸に午後一時半頃から集まり、オブッコを作り、一本のオシンメを切り、線香を持って石塔のところへ行く。オシソメは二個の灯篭に縄を張り、さげる。供物は菓子類であるため、一〇〇円ずつ集める。その後、オブッコをさげていただく。伏見文雄氏宅の前にある地蔵一一基に参る。九組では、以前は春と秋の彼岸に行っていたが、二年前から春の彼岸の一回だけになっている。米を洗い乾かして、粉にしたものを湯でこね、それをふかして団子を作り、伏見文雄氏宅の前にある地蔵に午後から出かけて行き、作った団子ニ○個ぐらいと線香を供える。そしてその団子は近くの子供たちに歯が痛くならないようにと配る。

(上教来石)

四月二〇目にオコワを炊いて祀る。

 

〔伊勢講〕

 

(大武川)

「オイセサン」しと称し、一月ニ八日に行っている。戦前は一・二・三組が一同に集まり、そして四組と五綿とに三つに分かれて行っていた。現在は四組が盛んであり、全員が講員で、輪番制で行っている。当番は三戸一組であるが、宿はそのうち一戸で、そのつぎに当番にあたる時、前回宿を提供した家ではない、二戸のうち一戸が宿(当番)になるしくみである。トウヤ(当番)宅では料理をつくり、酒代は各戸が持ち寄り、夕方五時頃からはじまる。掛軸をかけ拝み、油揚げ・豆腐・タコなどを飲食し、一〇時頃散会する。また代参も行われ、一〇年に一度は全員で行くことになっている。代参しない年は札を郵送により取り寄せる。

 

〔成田講〕

 

(台ヶ原)

大正まで代参をしていたが、戦前になくなった。上・申・下組の各組で行い、四月頃観光旅行を兼ねて二名がくじ引きで決められ代参した。

 

(白須下)

戦前行っていた。代参者は二名で輪番制であった。費用は積み立てておき、それで講員の札を買ってきた。ただ、代参者のうち、不幸があった場合は代わってもらった。

 

(上教来石)

以前代表を区別に行っていた。そして中コウチ・下コウチ・それに山口からそれぞれ一名ずつ代参を行っていた。

 

〔戸隠講〕

農神さんとされ、信州の北部、越後に接する戸隠山への代参である。以前は多く行われたが、現在は代参が行われていないのがほとんどである。

 

(白須上)

約十人ぐらいの講員で、一二月・一月・二月・三月に各一回集まった。代参は毎年四月末から五月にかけて行った。代参者は希望者であった。現在代参は行われていないが、神社の方から、「戸隠神社御礼薦之霊」と書かれた札と、「戸隠神社種兆」と書かれたおみくじが送られてくる。

 

(松原)

五月半ば一泊して行く。代参者が帰ってから公会堂で共同飲食をする」これを「ゾウジ」と呼んでいる。講費は年三〇〇〇円ぐらいである。

 

〔三峰講〕

奥秩父の三峰山に鎮座する三峰神社への代参である。

 

(白須下)

二五年前ごろまで行っていた。前沢では、大正時代になくなった。竹宇では、六〇年前まで行われていた。盗難よけの神といわれていた。代参者は二名で、代参に行く前に当番の家に集まって、オタテブルマイをした。代参は秋の農作物が終わってから行った。

 

(松原)

現在代参は行っておらず、現金を送って札を郵送してもらっている。現在加入しているのは、荒田で二名、松原で一名、計三名である。

 

〔榛名山講〕

群馬県の榛名山への代参である。

 

(台ヶ原)

八組で行っている。「アレビの神さん」で台風が来て、米がころんだりしないように拝んだ。百姓の神さんでもある。講日は九月三〇日で、夜行われる。戦前は代参も行っていたが、現在は宿で拝むのみである。代参が行われた当時は代参者が二名で輪番制であった。また宿をトウヤと称し、トウヤは代参者の二戸がひきうけていた。現在費用は会費制で、全戸で菓子を買って供え、その後帰ると春もらって帰る。掛軸もあったが、戦時中.一時休んだときなくしてしまい、瑛在はオンビ(穏便)にすますようにと線香を立てて拝むのみである。

 

〔自山講〕

花水の白山神社への代参講ある。

 

(白須下)

以前四月一八日・一九日であったが、現在ぼ四月一八日に行っている。しかし、宿を決めて飲食することはせず、ただ代参にいって札をもらって、配るだけで、そのあと納金を集めるぐらいである。

 

〔駒ク岳講〕

 

(台ヶ原)

明治の終り頃重で、年に一度行っていた。

 

(白須上)

大正末期重で輪番制で行われ、掛軸と剣を飾った。また、前宮でば法座が開かれていた。

 

(前沢)

五・六年前まで行われていた。講目は一月一〇日、輸番制で行う。講員は百五○円と米一合をもちより、当番はこれで料理を作り、経をあげた後飲食する。駒ヶ岳神社への代参経路は二通りあり、横浜の講社の代参のときは横浜↓木馨↓信州↓駒ヶ岳神社という経緯をとり、信州講社の代参のときは信州↓小淵沢↓前沢(鳥居)↓駒ヶ岳神社へという経路をとる。

 

(竹宇)

以前宿持ちの当番制で行っていたが、五〇年前より伊藤千秋氏宅で行っていた。これは講員が五〇戸もあったのに対し、徐々に戸数が減り、そのたてなおしの意味を含めて、駒ヶ岳神社の教会長でもある伊藤氏宅で行われている。講日は一月二五日で当日は神社にお参りに行き、伊藤千秋氏が中心になって心経をあげる。その後直会を行う。また占いなども行われ、これは行者が経をあげて神がその人にのり移って作物の豊凶を占うものである。

 

(大武川)

上・下組から一名ずつ、四月二〇日に代参を行った。札と御神酒をもらってきた。代参は輸番制で行われた。

 

〔身延山のオトウ〕

 

(島原)

年に四回、一月・三月・六月・九月の一二日に輸番制で行っている。掛軸をかけ、ダソスを必ず供える。戦前は一四・一五戸ぐらい参加していたが年々減っている。

 

〔甲子講〕

(前沢)

以前六〇日に一回ぐらいの割合で行っていたが、現在は年に二回行っている。宿は輪番制で、供物は御神酒・おでん・団子・天ぷらなどである。掛軸をかけ題目をとなえる。

 

(大武川)

「キノエネサソ」といって祀っている組もある。

 

〔二十二夜講〕

白須下では、上・下組で行っており、旧一〇月あるいは一一月の二二日の夜、結婚前の女性が集まった。宿は決まっていない。団子を作り、月に供える。よい結婚運を願った。

(竹宇)

二日待(にやまち)といった。女性だけでまつり、団子を食べた。

 

 






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最終更新日  2021年04月25日 06時44分52秒
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