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2019年04月23日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室
甲斐古代の道
     甲斐古代 都への道
 
私は歴史に愛着を覚えてからもっとも興味があったのは甲斐の古道のことである。すでに定説らしきものがあり諸本に引用紹介されている。しかしその定説は資料に基づいたものではなく、歴史資料の書き間違いを根拠にしてさらに当時の地理的条件や天然現象さえ無視されている感さえする定説である。
 甲斐の古道については中央に早くから従属的な国政を展開していた甲斐と各時代の首都の首都を結ぶ道と生活道とを分けて考えてみる必要がある。甲斐の古道について語られている諸説をもとに検証しながら新たな提議をして見ることとする。
 
 (一)定説に近い説についての検証
 ここに『甲斐都留郡、古代の謎を解く』窪田薫氏著。
 
 八、古代の甲斐路について
 
 「甲斐路」については、昭和五一年六月二〇日、富士コミニュティセンタ-において、第二回郷土史研究会の講座が開催された際、「甲斐路(鎌倉往還)」と題して研究発表したが、六一年山梨国体が「甲斐路」の名称を冠することになり、また古代の甲斐路にそって「東富士道路」の建設が具体化したことや、本稿の内容とも関連のあることから、ここに再度、『甲斐都留郡の古代を探る』の「甲斐路」のなかから古代の部分を抜萃し、その後の関連事項を若干付記して述べることにした。
 
 (一)古代の甲斐路
 大化二年(六四六)一月、大化改新の詔勅が発せられ、大和政権は全国各地に国政をしき、その国々の中心に国府をおき、国府には国造(国司)が中央より派遣された。また今までの各地万の農民を支配していた首長(豪族)は、その地方の評造(郡司)の地位をあたえられた。権力集中の度合ははるかに弱く、豪族連合政権ともいわれているが、約四世紀にわたる日本国の統を維持してきたことが考えられることから、国家的交通施設「大和朝廷への道」があったのではなかろうか。
 日本が唐にならって駅制度を完備したのは八世紀後で、日本の駅制は、七世紀後半の律令国家の形成期に、その中央集権的支配を維持するための一つとして整備されたものであるから、七世紀後半ではまだ整っていなかったといわれている。
 律令国家が駅をおき、駅馬で連絡した道、つまり駅路は、当時日本全土の無数の道のなかで、都から放射状に延びて各地方の国府を連絡してゆく幹線道路のみである。幹線道路は、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道で、これら七道は、駅略であると同時に、地方区面の名称でもあった。(付図 、東海道七道駅略図参照)
 できるだけ迅速にという要求は、駅路の沿道の事情の許すかざり、直線に近づけようとする。その結果、当然駅路より離れた国府が発生する。そこで、駅路には幹線から分岐して、離れた国府に往復するための支線が必要になってくる。例を東海道にとれば、伊勢・志摩・甲斐・上総・安房の各国府への道は、いずれも支線へ支路)である。
 甲斐国府へは、東海道横走駅(御殿場)より支線(甲斐路)が設けられて連絡された。七道諸国の駅道名及び駅配属の駅馬数を列挙したものには、『延喜式(兵部省諸国駅伝馬の条)』がある。
 
 (二)甲斐路の駅路及び駅
 『延喜式(兵部省諸国駅伝馬の条)』に、「甲斐国駅馬水市・河口・加吉各五疋」とある。当時の甲斐路の駅路及び駅(水市・河口・加吉)の所在地については、数回にわたる年代のことなる富士の噴火による溶岩流と火山灰のため、また噴火による地形の変化により、現在文献上による確証がえられず、現地調査も困難なため、郷土研究家や新道の関係者の間で、甲斐路の駅略や駅の位置について意見が異っている。このことについて、諸説をあげて参考にすることにする。
 
 1 桂川七郎氏説
 
 桂川七郎氏は『総合郷土研究、山梨県へ昭和十一年十二月二十日発行匡のなかで、広瀬広一氏に直接指導をうけ、同氏の研究論文及び太田亮氏著『甲斐』を参考にして、甲斐路についてつぎのように述べている。
「甲斐路の経路は、
八代国衙-高家村-奈良原-鳥坂-芦川-大石峠-大石宿-河口湖-へ湖の東側を廻る)-下吉田-明見-忍野・山中湖畔-(湖の北より東に廻る)-平野-ヅナ坂峠-(三国峠の西)-横走駅(御殿場)-車返駅(沼津)-東海道
の順序で、都への日数は上り二十五日、下り十三日で、上りは調・庸の官物を携行するための日数の余裕をみるためである。と述べている。
 また、甲斐路の三駅については、○水市は奈良原付近、○河口駅については、貞観六年(八六四)紀(富士の噴火)のほかに、「河口湖周凡五里、湖北を河口村と為し、今尚駅馬の事を掌る」とあることや、また「河口村は名神大社浅間神社の神領だから、駅の設けられることは考えられないしとして、河口駅は今の河口湖町大石としている。
 その経路と駅の位置は、付図のようである。(略)
 
 2 磯貝正義氏説
 
 前山梨大学教授磯貝正義氏は、昭和五十年八月三十日、山中湖底調査団が研究会を甲府笹屋で開催した際、その席上「甲斐古駅略」について講議を開いたが、山梨日日新聞の紙上による報告によると、磯貝氏は『延喜式(巻二十八兵部省諸国駅伝馬条)』の「甲斐国駅馬、水市・河口・加吉各五疋」の項を根拠にして、「この一文は、甲斐に水市・河口・加吉の三駅があり、それぞれ駅馬五頭づつがおかれていたことを裏づけている。三駅が国中におかれた国府に近い側から記載されていると判断、東海道の支路としての甲斐路は現在の静岡県御殿場市御殿場町横走駅を起点に篭坂峠を越え、山中湖畔-河口湖畔-御坂峠を越えて国府につながっていた。」と述べ、「水市駅は現在の御坂町黒駒付近にあったとみるのが妥当、加吉駅は加古駅の書きちがいだ。『吾妻鏡』〔第二十五、承久三年(一二二一)七月十二日条〕に加古坂の文字があることからもそれは明らか、だから加古坂近くの山中湖畔に加古駅があったとみるのが順当であるとの見界を示している。その経路を示すと付図 のようである。(省略)
 
 3 小川孝徳氏説
 
 山中湖底調査団事務局長小川孝徳氏は、『歴史読本(昭和五十年十二月号)』につぎのような調査の中間報告を述べている。「甲斐路の経路については、延暦二十一年(八〇二)の噴火は、籠坂峠付近に相当の火山灰を降らせただろうから、三国山寄りのズナ坂峠を越すル-トだったと思われる。宝永(一七〇四-一七一二)の富士噴火の火山灰は、二七〇年ほどたった現在でも、籠坂峠では相当厚く残っている。そして延暦二十一年の噴火から、その半分の一三五年しか経っていない承平七年(九三七・山中湖に流出したといわれる鷹丸尾溶岩流の噴出した年だという)当時には、できるだけ火山灰の少ない所を選んで往来したのではないだろうか。
 従って延暦二十一年以降は経路を変更せざるをえなかったと考えられる。足柄路が一時にせよ廃止されたほど影響をうけたのなら、宝永の噴火の火山灰層の厚味から当然廃止されているはずだ。
 横走駅から別れて、富士スピ-ドウェイのある大御神から、ズナ坂峠に陵線を登り、山中湖畔の平野万面に下り、再び大窪山へ登り、忍野村内野の北側へと下り、新名床川沿いに進み、鳥居地峠を越し、富士吉田向原を経て呉地に至り、再び霜山北の鞍部に上り、イリノ沢沿いに下ったルートが用いられたのではないだろうか。」と述べている。小川氏は水市・河口・加吉の三駅の順序について、「都に近い横走駅の方から考えるべきであり、「加吉」が「加古」の誤りであるということについては、延喜式が本格的に編纂が始まったのが延喜十二年(九一二)で、草案が終ったのが延長二年(九二四)で、その後再三にわたる修正が行われ、実際に延喜式が施行されたのは康保四年(九六七)十月六日である。そのように長年月の修正を経てできあがったもので、鷹丸尾溶岩流が山中湖を塞さ止めたのは、誤ることはありえないことと述べている。その経路を示すと付図 の点線のようである。
 
 4 渡辺長義氏説
 
 富士ピジターセンタ-勤務渡辺長義氏は、『富士古文書(宮下文書)』をもとに、水市時代の再現をしようと試みている。昭和五〇年五月一五日より、山梨日日新聞に連載された「湖底のナゾ」のなかより、氏の関係した記事をあげると、甲斐国府に通ずる三駅の経路について、「東からいえば、横走駅(御殿場)を起点に、大御神村を経て大御神山の裏の加後坂(籠坂)峠を越え、当時の宇宙湖(山中湖)の東側平野の水市駅に出た。ここが甲斐の一駅で、そこから舟で加茂山峠(鳥居地峠)の南側に行くと富士古文書に書いてある。一方陸路は水没した水市駅から同湖の北岸を通り、現在のマウント富士の尾根を越える。この辺に長生村(長池)があった。この村落の北岸を通って加茂山(鳥居地)峠を越え、二つ目の明見の家基都(加吉)駅へと結ぶ。これより西に進み、剣丸尾を越えて太田川の南を通り、足和田山の南をぬけ、現在の鳴沢村ヒバリガ丘付近に河口駅があった。延暦一九年の噴火で甲斐の三駅は変りはてて地下に消滅した。甲斐の国府は『和名砂』にもあるように、八代郡に移った。東海道北廻りという道の問題と国府とは次元の違うもので、必ずしも人口の多いところ(国府)を北廻りは結んだ道ではない。」と述べている。その経路を示すと付図の点線のようである。
 横走-大御神村-加護坂-平野水市-加茂山-明見家基都-足和田山-鳴沢村河口
 
 (三)甲斐路の諸説に対する私見(窪田薫氏)
 
 以上四氏の甲斐路の駅略、三駅の位置などの諸説を紹介したのであるが、いずれの説を信とすべきか、現在ではまだ決断しかねる状況ではなかろうか。このことについて私見を述べたいと思う。
 
 1 駅の順序について
 甲斐路の三駅、水市・河口・加吉の順序(位置)について、磯貝氏は甲斐の国府に近い万から水市-河口-加吉(加古)とし、小川氏は都(大和朝廷)に近い方から水市-河口-加吉と考えている。
 『交通史(体系日本叢書)』によると、付図 の駅路図は延喜式の成立した一〇世紀のはじめの状況を示したものとし、「駅路の成立した七・八世紀のはじめの状況はこれと多少違うところがあったようであるが、資料がきわめて乏しい。違いの知られているうちで著名なのは、東海道の相模かち下総にいたる駅路である。この路は日本武尊の東征伝説に投影されているように、かつては旧利根川河口の低湿地帯をさげて、相模の水走(横須賀市)から上総へ渡った。海を渡るから東海道といったのであり、上総・下総の国名も駅路の順に名づけられたのである。」と述べている。
 これによると、東海道の七・八世紀頃の駅名は、郡に近い方を基準にして考えられていることが知られる。また、『延喜式(巻二八
・兵部省諸国伝馬条)』に記されている東海道の支線の各駅の順序については、
 伊勢国駅馬 鈴鹿廿疋。
   河曲。朝明。榎撫。各十疋。
   市村。飯高。度合。各八疋。
伝馬 朝明。河西。鈴鹿郡。各五疋。
 甲斐国駅馬 水市。河口。加吉。各五疋。
 武蔵国駅馬 店屋。小高。大井。豊島。各十疋。
 これらの東海道の支線のうち、武蔵及び伊勢国府に通ずる支線の駅の順序が、都に近い方から列記してあるか否かを調べてみることにする。
 宝亀二年(七七一)一〇月、武蔵が東山道から東海道へ地方区画の所属が変更になったのは、武蔵国府にいたる駅路としては、東海道の支線の方が便利になったからである。
 『東京都の歴史(県史シリ-ズ)』のなかで、武蔵国府に通ずる支線についてつぎのように述べている。
 「延喜式によると、 十世紀初頭の東海道は、相模の浜田駅より武蔵にはいり、店屋-小高-大井-豊島の四駅を通って、常陸に入っていたと考えられる。
 また下総駅馬の数から考えて、神護景雲二年(七八六)の紀広名の進言にみえる浮島・河西の二駅は、延喜の頃には東海道の幹線ではなく、支線に沿った駅となっていたことが考えられる。この武蔵国内の四駅については、店屋は町田市のあたり、小高は川崎市小田中、大井は品川区大井町であろうと、諸説がだいたい一致してきているが、ただ豊島駅の推定については、現在にいたるまで、諸説紛々として定まるところがない。要するに、この延喜式の武蔵四駅を、神護景雲二年の武蔵四駅に、いかに関係づけて推定するか、諸説のわかれるところであろう。
 一つの考え万としては、
武蔵府中-乗瀦-豊島-井上-河曲の路線を、古東海道の公定路線と考え、相模国夷参(あるいは浜田)-店屋-小高-大井-豊島-下総国井上-茜津-於賦
の路線を、新東海道の公定路線として考えようとする説も提案されている」と記してある。この新東海道の公定路線(『延書式』の施行された頃の一〇世紀初頭)の説からすると、武蔵国府にいたる『延書式』に記されている支線の駅名の順序へ位置)は、都に近い方から記されていることになる。(店屋-小高-大井-豊島-乗瀦-武蔵国府)
 その経路を示すと付図 のようである。
 また「伊勢志摩路」については、『三重県の歴史(県史シリ-ズ)』によると、東海道支線の伊勢・志摩の駅路については明記されていないが、同書の古代要図から判断すると、都に近い万から朝明、河曲、鈴鹿の順序になっているが、路線がこれらの駅をどのように結んでいたか不明である『延喜式』で、伊勢国駅馬のうち、鈴鹿が最初にあげられているのは、他の駅が駅馬十疋に対し二十疋のためである。
 また『延喜式』には出羽(山形県)の水駅が示されている。
最上郡から最上川沿いに庄内に入り、日本海沿いに秋田にいたる
最上駅-村山駅-野後駅(駅馬 0、伝馬三、舟五)-避翼駅(駅馬十二、伝馬一、舟六)-佐芸駅(駅馬一0、舟五)-飽海駅-遊佐駅
の駅路のうち、野後・避翼・佐芸のように舟のある駅を「水駅」ともよんでいる。
 して見れば、甲斐路の水市駅もおそらく、舟の浮かぶ湖なり、川なりにかかわりのある駅ではないかということも考えられる。
 山中湖をはじめ、富士五湖には古代漁業に使用した丸木舟が発見されている。
 また渡辺長義氏の説では、「舟で鳥居地峠の南側に渡る陸路のほか、水路のある」ことをあげている。
 以上述べたとおり、東海道及びその支線が、おおむね都に近い方から駅名が列記してあることから、甲斐路もこれにならっているのではないかということが考えられること、水市駅の駅名は、出羽の水駅の例のあることから、水に関係のある駅ではないかということも考えられる。
 
 2 甲斐路の経路について
 東海道をはじめ、支線(支路)は輸送のための時間短縮、経費の節約を計るため、駅路はできる限り直線的につくられている。
 したがって東海道の横走駅(御殿場)より、甲斐国府を結ぶ甲斐路も、支障のない限りその計画にそって開かれたことが考えられる。 勿論その間においても、縄文・弥生時代につくられた生活の道も利用しうるものは利用し、駅の条件に適した場所が選ばれたことは当然である。
 延暦年間の富士の噴火(付表二参照)以前は、有史以前といわれる噴火(猿橋溶岩流)以外、大きな噴火の記録もないので、これらのことを考えあわせると、甲斐路の開かれた最初の経路は、
東海道横走駅-加古坂峠付近-加吉駅または水市駅(山中湖、西南側)河口駅(河口湖東側)-御坂峠-水市駅または加吉駅-甲斐国府
 以上の経路が考えられる。
 その後、とくに延暦・貞観・承平・永保年間の噴火のため、セの海(西湖・精進湖)・宇宙湖(山中湖)は溶岩が流入して海は二分され、最初の甲斐路も溶岩におおわれて通行不能となり、延暦二十一年の富士の噴火以後は、当初の甲斐路より北方によった、おそらく左の経路が用いられたと考えられる。
 
東海道-大御神-ズナ坂峠-加吉駅または水市駅(山中湖湖畔北側、平野付近)-内野-明見-上暮地-河口駅-(河口湖湖畔東側)-御坂峠-水市駅または加吉駅(黒駒付近)-甲斐国府
 建久三年(一一九二)鎌倉幕府が開かれるや、「甲斐路」は東海道が鎌倉に連絡している関係でそのまま「鎌倉往還(街道)」として、また今までどおりに都に通ずる駅路として重要視された。
 『甲斐国志』に、
 「古ハ加古坂岐路ニシテ攀ヂガタカリシガ、宝永四年富士ノ噴火ノ時、砂礫吹キオロシテ谷ヲ埋メ、平地ノ如クナレリ、故ニ通路開ケテ往来自在ナリシヨリ、ズナ坂自ラ通行スル者ナシ」
 と記してある。
 すなわち宝永四年の噴火以前までは、鎌倉・室町時代の「鎌倉往還」が用いられた。宝永以後は『甲斐国志』に記してある、
   石和宿-黒駒宿-本村-駒木戸番所-御坂峠藤木-都留郡河口宿-上吉田村-
   国界番所-駿州駿東郡須走村
 以上の如く延暦年間の富士の噴火前の甲斐路の経路に近く往還することになった。現在は「旧鎌倉往還」と称して、国道三十七、八号線となっている。最近、中央道と東名高速道路を結ぶ、「東富士道路」の着工が決定し、富士北麓の発展は、古代甲斐路を投影して、大きく変貌しようとしている。
 
 私註…窪田先生の研究には本当に頭の下がる思いである。先生の研究本は何時も側において読ませていただいている。先生の研究は多岐にわたり、山梨県では不毛とも云える鉄の遺跡やその窒跡や地名語源のことなどは興味をそそる内容である。
 
  ▼水市駅▲
 一宮町市之蔵あるいは御坂町上黒駒付近との説も有るが、延暦19年の噴火で流出した溶岩流により出現した山中湖により、水没したとも云われている。
 
  ▽加古坂△
 東海道の横走駅から須走を経て加古坂を越えて甲斐国に入る国境の坂。足柄峠と同様に、大噴火のたびに噴出物で埋まり、通行不能となったようである。鎌倉時代は鎌倉往還として東山道に抜ける道として利用された。
 て東山道に抜ける道として利用された。
 
  ▽横走駅△
 静岡県御殿場市付近に比定されるが、時代によって移動が有ったらしい。
 初期の奈良時代以前は駿東郡小山町の大御神付近。甲斐へはヅナ坂峠を越えて水市に至る。
 下って平安時代は御殿場市付近(古沢あたりか)に、
 平安後期から鎌倉時代に成ると少し南下したらしい。御殿場市域の山神社辺りに横走御厨が置かれていたとされる。相対的にこの 一帯を称して横走と云っていたようである。
 初期の東海道は東に竹之下を経て足柄峠を越すルート、京へは富士山と愛鷹山のあいだの十里木道を通ったか、富士北麓を巻いて富 士川河口付近に至るルートを用いたと考えられる。平安時代の初め、富士の大噴火で北麓を迂回する事が困難となり、足柄路が一時 閉鎖となり箱根路が開かれたが、おそらくこの時に十里木道も開かれたのであろう。平安後期になると富士の南麓を通過する道「根 方道」(浮島ヶ原の湿地を避けるための)を通り、沼津市の北部に比定される車返を経て黄瀬川添いを遡り、永倉(長倉)をへて横 走に至ったようである。
 
  鎌倉街道・他(『甲斐国志 )
 
いまの黒駒御坂路なり。中世鎌倉往還にて此名あり。甲州道中の官駅を置かざる以前は坂東諸州の往来凡て此路に係れり。
延喜式曰、甲斐国駅馬、水市・河口・加吉、各五疋と本州は東海道に属す。駿河・甲斐・伊豆・相模とある順なり。観察使、駿州車返駅より国衙に至り、豆州三島へ出づ。又相州足柄嶺に係るれなり。
 古事記によれば、日本武尊此路を越え玉ふ。其文に曰亦平和山河荒神等而還上幸時到足柄・坂本於食御粮處云々。 即自其国越出甲斐坐酒折宮とあり。





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最終更新日  2021年04月24日 15時37分52秒
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