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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月23日
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天正元年長篠の戦
 信玄が逝去したのは、天正元年(1573)四月十二日であったが、六月になると家事は長篠城を攻めた。そこで勝頼は、三河・遠州へ兵を出した。長篠城の救援軍は、武田信豊・馬場信房・小山田信茂であった。

 この時
〇馬場信房は、長篠城東方約二キロの地点、ニツ山に陣取り、その他の者は城の周辺、医王寺山・大通寺山・君ケ伏床(ふしど)・姥ケ懐(うばがふところ)に陣取った。
●徳川勢は大風の夜、大量の松葉に火をつけて、陣払いと見せかけ、兵を伏せて武田軍が押しよせて来るのを待った。
〇信房は煙の色を見て、陣払いではないと判断して、徳川方の策に乗らなかった。長篠城は遂に落ちて、徳川家康の手に帰した。

武田勝頼
 信玄の死後の勝頼は消極的で、徳川家康が長篠城を攻めても、援軍は出したが自らは動かなかった。
ところが天正二年になると急に活発になり、二月には自ら兵を率いて美濃に入って明智城を落し、四月には三河の足助城を落し、五月十五日には遠州の高天神城を落した。
 高天神城は、父信玄でも落とせなかった程、堅固な山城であった。家康は頻りに信長の救援を求めたが援軍が浜名湖の入口、今切れ附近に着いた頃、城主小笠原長息は遂に城をあけ渡してしまった。

天正三年長篠の戦
 長篠城は、三方を豊川の本流・支流の河谷で囲まれた要害の地に築かれ、今も残る殿井と呼ぶ泉の水は豊富で、水道を断たれる心配は絶対にない城である。
 天正三年二月、徳川家康は奥平貞昌(後の信昌)を城主とし、急ぎ防備を固めさせた。城兵は三河勢五百である。五月、武田勢、一万五千は、長篠城を包囲した。この時の馬場信房は、城に一番近い大通寺山に陣取った。武田軍は、五月八日から攻撃をはじめた。
●連日連夜の猛攻に、城兵は堪えきれず、遂に外堀の線まで追いつめられた。残るのは本丸・帯郭・野牛郭だけで、周囲は五百メートルに過ぎない。兵糧も大分取られ、援軍は何時来るともわからない。そこで鳥居強右衛門が、救援の使命を帯びて城を脱出する。五月十四日の夜半であった。
●強右衛門は、武田勢が城兵の脱出防止のためにつくった網を切り破って、約四キロ程川を下り、寒峰山に登って脱出成功の合図の狼煙をあげて岡崎に走り、城内の頷様を報告した。
●信長は既に岡崎に着いていた。 救援の大任を果した強右衛門は、直ちに引き返して、再び寒峰山で、援軍来る、の合図の狼煙をあげた。寒狭川べりまで来た強右衛門は、人夫にまぎれて城内に入ろうとして捕えられ、利を以て誘われ、援軍は来ぬと呼ばれと強要されたが、彼は城に向って、援軍は来るぞと、ほんとうのことを叫んだので遂に磔にされてしまった。
〇この時「強右衛門は雑兵とは言え立派な人物である。彼一人を殺すよりも、寧ろ城に帰してやった方が、御家の為にもなりましょう」と、馬場信房が主張したと書いたものもある程、信房という人物を尊敬する人が多かった。
●五月十八日、織田・徳川連合軍は設楽原の連吾川に沿って三重の柵を結い、陣地を築きはじめた。
〇五月十九日、武田軍は医王寺山で軍議を開いた。信房を始め、信玄以来の宿将達は、敵は大軍であるから、決戦は避けるべきであると主張したが、勝頼は跡部勝資等の主戦論を正しいとし、遂に設楽原で雌雄を決することに踏み切ってしまった。
◆日本職史長篠役の本文では、宿将遠の意見に反対して設楽原で決戦する事を主張したのは跡部勝資になっている。
(注)西軍=織田・徳川連合軍。東軍=武田軍
〇五月十九日勝頼諸将士を会し、両軍を攻撃する方略を示して曰く、敵兵方さに設楽原の両に陣す。宜しく往て之を掃討すべし。長篠城の監視は鳶ケ巣以下諸塁の兵にして足れり。其他は悉く川(滝川)を越え進み、一大決戦を為すべしと。
〇馬場信房・内藤昌豊・山県昌景・小山田信茂・原昌胤等之を不可とし、諌めて曰く、織田・徳川各々全力を挙げて来る。衆寡敵し難し。兵を収めて帰るに如かず。敵若し追囁(ついしょう)せば、之を信濃の険に要して殴殺すべきのみ。
〇要臣、跡部勝資曰く、武田氏は新諸公以来未だ嘗て敵を避けず。今戦はずして軍を班へし、敵に冑後を見せしむるは祖先を翁かしむる者なり。
〇信房曰く、然らは先づ疾く攻て城を陥れ、而して後退く可し。顧ふに城中所有の銃は五百に過ぎす。縦ひ其第一の射撃悉く命中するも、我兵の死傷五百を越ゆ可からず。第二発以後の乱射に叉五百人を損ずるも前後一千人を失はむのみ。城を屠りて而して去らば、我武維れ揚るに非ずや。
〇勝資之を非として曰く、前に大敵を控へ徒らに千人を攻城に失ふ、不利焉(これ)より甚しきは無し。
〇信春叉曰く、若し退却を好まざれば城を抜くの後、主将及公族之に拠り、山県・内藤・及某等川を渡り、敵軍と対峙すべし。然るときは我は糧運の便あり。以て持久す可く、敵は江濃及畿内の兵多し。必ず噴日弥久に耐へず、自ら退却せんこと疑なし。是れ深根因帯の策なり。
〇勝資曰く、信長英武敏捷を以て聞こゆ。何ぞ空く軍を班さん。彼若し急に来り戦はば則ち如何ん。
〇信春曰く殊死決戦せんのみ。
〇勝資冷笑して曰く、己かを得ずして戦ふと、我より進んで戦うと戦ふは則ち一なり。寧ろ先んじて人を制するに如かずと。
〇勝頼大に之を善とし、宝器(義光以来嫡々相伝ふる白旗と無楯の鎧)に誓ひ(武田の家法一たび此誓を為すときは、復た非議を改めず)進撃に決す。
(日本戦史長篠役第二編第二章其一)
〇信房以下の宿将は御旗標無(みはたたてなし)に誓った以上、命令に従う外はなかった。寒狭川を渡って文字通り背水の陣を布き、前面に織田・徳川の大軍をひかえては、武田家の運命も最早是までと、馬場・山県・内藤・土屋の諸将は大通寺山の泉に集まって、今生の暇乞いに、馬柄杓を以て別れの水盃を交わした。翌二十日、各部将思い思いに寒狭川を渡り、設楽原の遅吾川の敵陣に向って軍を進めた。
●織田信長は、武田軍が河を渡って進撃するのを見とどけて、五月二十日の夜、極楽寺山に将士を集めて軍議を開いた。
 明くれば五月二十一日(太陽暦七月九日)の未明、酒井恵次の一隊が、舟遊山を迂回して、武田軍の鳶ケ巣山砦を背後から衝いたのを合図に、設楽原の戦闘がはじまった。
〇東軍右翼隊の馬場隊は、西軍左溜桶外の佐久間隊を衝く。佐久間隊佯(いつわり)敗れて走る。馬場隊追ふて之を破り、其屯せし岡阜(俗に丸山と称す)を奪ふや、其隊を勒して此に停止し、敢て桐前に進まず。織田兵大に望を失ふ
〇馬場信房人をして真田信綱・土屋昌次等に告げしめて曰く、予思ふ所あり。暫く此に駐止せんとす。卿等且つ前進して功を建てよと。真田隊・土屋隊等乃ち交互奮進し木柵に逼る。織田兵の銃火斉しく発し死傷算なし。
●東軍屈せず将さに掴を破らんとす。西軍柴田隊・羽柴隊等、其北(森長村)より迂回して之を側撃す。
〇真田信綱兄弟(弟は昌輝)及目次苦戦退却し、相先後して死す。
〇東軍総予備隊武田信友父子、望月信雅及勝頼麾下の士も中央及両翼の諸隊に腫き進み奮闘したりと雖も大勢已に支へ難く、皆後方に退却す。
是より先き、東軍の左翼隊に於いては、山県昌景飛丸に斃れ、其の外の諸隊も過半死傷し、足に至りて跡部隊先づ走る。
●此の時西軍佐々成政、信長に告げて曰く、敵の旅旗漸く勤揺す。宜しく全軍をして之に乗ぜしむべしと。
●信長之に従ひ総攻撃を命ず。足に於いて軍悉く柵を出、織田兵は正面より、徳川兵は敵の左側より一斉に進撃す。
 (日本戦史長篠役第二編第四章其二)
 武田の左翼山県隊は、逓吾川の下流を渡って、西京の柵の背後に廻ろうとしたが、下流は谷が深くて渡りにくい上に、大久保隊にねばられて、山県昌影は遂に戦死した。武田軍の敗色が濃くなると、西京は一斉に柵を出て攻勢に移った。
 信房は人を遣わして勝頓に退却をすすめ、自らは織田・徳川の大軍が潮のように押しよせるのを一手に引き受け、勝頓の退却を掩護して約四キロ、最も困難な殿戦をつとめ、勝頼の姿が、寒狭川の左岸に消え去るのを見とどけて、猿橋附近より引きかえし、織田方に首を授け、六十二歳の最期を閉じた。
 
 川井三十郎槍ヲ持向フ。五にハ美濃ナリ介錯セヨト、ジットシテ居テ首ヲ取ラスル。美濃ハ(此跡六十二才、一生手疵不負僣神君ト美濃許リト串侯)一生兎ノ毛ヲ突タ程ノ手疵ヲモ不負也(柏崎物語引用、日本戦史長篠役、補伝)
 馬場をば信長泉原田備中守(当時は塙九郎左衛門真皮)内河井三十郎と申者討取けると聞沁し (松平記引用、日本戦史長篠役、補伝)
 武家家伝ニ収ムル感状ニ拠レハ、馬場ノ首ヲ獲シハ岡三郎左衛門ナリ。其文二曰ク今度於長篠表武田家一戦之副、馬場美濃守討捕之事無比類働也。為褒美太刀一腰(国主)馬一匹(鹿毛)遺之。詑尚可加恩賞之状
 七月廿日 信長 岡三郎左衛門とのへ(日本職史長篠役、補伝)
 
のように、馬場信房の首級を得た人が、二人もあったかの如く書かれているのは、何故だろうか。
モの原因について、次の通りの推定をしてみた。
 長篠の戦の戦死者名の中にヽ馬場姓は馬場美濃守信孝と馬場彦五郎勝行の二人である乙(m匹作史長篠役
 信孝は信房のことで、注記に更級郡牧ノ島城主六十二才とあるが、勝行には注記がない。所が参州長篠戦記には彦五郎勝行を「美濃が伯父」としてある。逗子の馬場氏の系図には、信房の四男と五男が討死したと記してあるが、モの事実があったとしても、親子だから識別は容易であろう。
 従って、二説が生れた原因は、美濃守信春(信房)と彦五郎勝行との、人物の混同によるものではなかろうか。





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最終更新日  2021年04月24日 07時27分03秒
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