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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月23日
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カテゴリ:古代御牧資料室
甲斐の御牧の概要

 平安時代頃(或いはそれ以前より)に甲斐の国巨摩地方に在ったとされる天皇の勅旨牧(御牧)は今その面影を忍ぶものは歴史書物以外には何も残っていない。
 勅旨牧とは天皇の命令によって天皇のために置かれた牧のことで、『延喜式』によると甲斐には穂坂牧・柏前牧・真衣野牧の三牧、信濃国には望月牧を含めて十六牧、武蔵国には立野牧ほか三牧、上野牧には利刈牧ほか八牧が確認できる。ここで育てられた御馬は毎年定められた日時に「駒牽」の行事が行なわれる。天皇がご覧になり後に宮廷の人々に分けられる。
 甲斐の勅旨牧について県内では『甲斐国志』以来次のような内容が定説とされている。
 「甲斐にあった三牧は穂坂牧が現在の韮崎市穂坂町付近、真衣野(まいぬ)牧は武川村牧原付近とするのに異論なく、柏前(かしわざき)牧は勝沼町柏尾とする説があるものの高根町樫山に比定するのが通説となっている」(『山梨県郷土史研究入門』)
 しかしその根拠とするところは『国志』以来の漠然としたもので確かな根拠など無く、また遺跡や遺構によるものではない。柏前牧については『北巨摩郡勢』に柏前神社の存在を記しているがその真贋は解からない。
 県内の歴史研究も少ない資料から私論や推論に頼って『甲斐国志』の論をさらに発展させ定説化を進めているが、空白の部分が多く真実は紐解かれてはいない。
 歴史学ほど閉鎖的な学問はない。門外漢を寄せつけないし、自由に研究させる土壌も少なく人材も育ちにくい。歴史学は決して専門家の分野ではなく、多くの研究を志す人々の挑戦を正面から受け入れることが必要である。歴史は人々の共有財産なのである。
 これまで私は自力で峡北地方の歴史を様々な史料をもとに論じてきた。「誤伝山口素堂」・「宗良親王の事蹟」・「実証、馬場美濃守信房」・「新視点、甲斐源氏」等々である。
 歴史研究は史料の積み重ねであり、その史料の確実さと広範囲な調査が歴史真実に近づける道であり、どんな著名な研究者であっても一方的な資料からの判断や持論や推論の展開では真実には近づけない。また無理して定説を創ることは歴史を歪めることにもなる。   
 最近旧石器時代の石器をその発掘地に埋め発見する、いわゆる「捏造」事件が報道を賑わしているが、これは単に旧石器時代だけの事だけではなく古代の歴史から現在までの歴史にも言えることかも知れない。歴史は時の権力者により都合よく創り替えることはごく当たり前のことであり、そうした事例は枚挙に暇がなく、それは都合の悪い記事の削除や焚書行為にみられ、系譜や出自それに事蹟や経歴を創り替えることに時の権力者の力を誇示し保持する為の必要不可欠なことであったと思われる。
 通常私たち一般人の歴史認識は求めるものではなく与えられるものである。例えば史実と違っていてもその道の人が繰り返して話したり小説やドラマを見たり聞いたりしているとそれが史実のように記憶される。特に一般人が弱いのが著名人の言である。疑うことなく真実のようにとらえてしまうものである。だからこそ歴史に携わる人は軽はずみな私論・推論などを展開して人々を惑わしてはならない。

甲斐の古代駒

 さて甲斐の勅旨牧及び古代の馬について調査の一端を述べてみたい。山梨県内で馬に関して確認されている古墳は五世紀後半の「かんかん塚古墳」が本県最古の轡などの馬具が確認されている。関係する古墳を抜粋してみると次のようにんある。
•甲府千塚「加牟奈塚古墳」………馬形埴輪
•豊富村 「大塚古墳」  ……… 馬形埴輪
•八代町 「古柳塚古墳」・「樹塚古墳」・「蝙蝠塚古墳」…馬具や馬鈴
•八代町 「御崎塚古墳」 ………馬具の高級品の毛彫金具など
•    「考古博物館内古墳」………装飾馬具が多数確認

 さらに、山梨市・御坂町・一宮町・龍王町・甲西町・双葉町・春日居町・それに未確認では須玉町、長坂町の古墳からも小数の馬具が出土している。これらは五世紀から七世紀中葉にかけての古墳であるといわれている。また武川村の宮前田遺跡から「牧」の墨書土器が発見されたがこれが真衣野牧に関係あるかは不詳である。

 12月4日の山日新聞に「国内最古の馬具出土」の記事が掲載。それは四世紀初めの木製の鐙が奈良県の箸墓古墳から出土した旨の記事である。
 また国内最古の馬の骨や歯が甲府塩部遺跡や中道東山遺跡から出土した事を掲載している。
 甲斐の馬が文献上確認されるのは

 雄略天皇十三年(469)の

「ぬば玉の甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒」   (『日本書紀』)
 が初見であり、推古天皇六年(598)には現在の御坂町の神社仏閣と深い関わりのある聖徳太子の乗った甲斐の烏駒(くろこま)の記事が見え(『聖徳太子略傳』)その烏駒は甲斐穂坂の産(『見聞集』)とも伝わる。
 天武天皇元年(672)には壬申の乱に参戦した甲斐の勇者の戦いも騎馬戦であったが、甲斐の勇者の騎乗した馬が甲斐の産馬かは定かではない。
 天平三年(731)には甲斐の国司田辺広足が神馬を献上した。これは当時の朝廷で定めていた祥瑞にあたり(符瑞図で調べると神馬は河の精であるとあり、援神契には徳が山や岡の高きに達する時神馬が現れるとある。大瑞にあたる『続日本記』)
 甲斐国は数々の報奨や税の免除を受けた。山梨の歴史書にはこの事を甲斐のことだけのように特筆してあるが、当時は多方面にわたり祥瑞の物品貢上の事例があり、神馬にしても信濃国など数ケ国が散見でき、中には瑞祥の偽物を貢上して罰を受けた事例もある。(『続日本記』)
 続いて天平十年(738)には甲斐国から進上する馬の記事が駿河国正税帳に見えて、勅旨牧が設置される以前から甲斐国から御馬が養育、貢馬されていたことを示している。
 この時の御馬領使は山梨郡散事の小長谷部麻佐である。
 天平勝宝四年(741)には甲斐国巨麻郡青沼郷物部高嶋の名が正倉院文書に見え、巨麻郡の範囲が広域であることが理解できる。
 天平宝宇(762)には巨麻郡栗原郷もあり、当時巨麻郡の中心は甲府から山梨郡に隣接していた事が理解できる。この時代甲斐は災害も多発して

山梨県古代の災害
•天応 元年(781)には富士山噴火(『続日本記』)
•延暦 八年(789)には大洪水(『山梨県気象災害史』)
•延暦十九年(800)には再び富士山が噴火(『日本記略』)
•天長 二年(825)には白根山が大崩壊し国中一大湖水(『山梨県気象災害史』)
•翌天長三年(826)には富士山が噴火小富士が出現(?)する。

 富士山の噴火はさらに続き、
•貞観 六年(864)
•承平 二年(932)
•承平 七年(937)
•天暦 六年(952)
•長徳 四年(993)
•長保 元年(999)
•長保 五年(1003)

 が史料により確認できる(噴煙を含む)。
 富士山の噴火は甲斐の古道に大きく関わる災害で、『延喜式』は勿論、甲斐の定説も富士山の噴火と古道の関係を記していない。(別述)
 真衣野牧は一度だけ信濃望月の牧と共に駒牽の儀式に参列している。これは歌の前書に望月の牧と真衣の牧を引き違えた事が記されていることから判る。
 現在も残る武川村牧ノ原地名であるが、古代に於いて牧ノ原地名が存在したかは知る由もないことで、比定の曖昧さばかりが目につく。延喜式の「真衣野」を「まきの」と読んで比定しているが、古代では「まきぬ」であろう。また「真衣郷」が武川にあったとされる書が多いがこれも戴けない。地名比定の根拠が希薄であればそれは史実には繋がらない。
他にも現在の韮崎市甘利地域を「余戸郷」に比定しているがこれも史実とは重ならず、甘利地域は広大な土地であり、その後の歴史展開を見ても当時とても「余り地」とは思えない。双葉や韮崎の穂坂それに明野、須玉まで一望できさらに八ヶ岳山麓も視野に入る。この一帯が「真衣野」牧であっても何の不都合もない。武川村には大武川沿いの段丘上に古くからの集落がある。黒沢・山高・柳沢集落などであるが、その中に真原(さねはら)がある。これは何の史料も持たないが「真原」はその昔は「槙原」(まきはら)ではなかったのかと推論する人もいる。しかし遺跡や遺構などは見えない。地名比定優先である。なお「牧」も「まい」と読むという。
 また、当時の牧の殆どが火山周辺に設置されているが、真衣野牧が武川牧ノ原であったすれば、段丘上では可能であっても、取り巻く大河(釜無川・大武川)やウトロ川・小武川など中小の河川は自然の柵にはなるが、流路の定まらない古代の河川は移動や貢馬の通行には大きな妨げになる。地名比定だけでは牧の存在の確証はできない。

御牧の貢馬

 弘仁十四年(823)に文献上初の勅旨牧から貢馬が信濃のから始まる。(文献上初。牧名は不明)天長三年(826)には甲斐などの四カ国貢上の御馬付添騎士等の員数を定める。(『類聚楽三代格』)天長四年(827)甲斐の駒数は千余ともあり、同年十月に甲斐国に牧監を置き、天長六年(829)には甲斐国から初めての貢馬が文献(『日本記略』)に見えて、駒牽(天皇御覧)の行事が行なわれた。

 承和二年(835)には 甲斐国の空閑地巨麻郡馬相野五百町

式部卿葛原天親王に与えられる。この馬相野について山梨の歴史書は現在の白根町有野を比定し後に八田牧になったとしているが、『日本馬政史』ではこの地は後の真衣野牧の事とする。この時代にはこうした賜地の事例が多く見られ、空閑地はその後牧となった例もある。
•延暦二十三年(804)安芸国の野三百町を甘南備内親王に賜うて牧地となす。
•弘仁二年(811)上野国利根郡長野牧を三品葛原親王に賜う。(『日本後記』)
•承和八年(841)摂津国の地三百町を後院の牧となす。(『続日本記』)
 その他にも『続日本記』には記録がみえる。
 当時日本国内の牧は甲斐など四国の勅旨牧の他に近都牧や院牧もあり、甲斐国にあった小笠原牧などもこの院牧であった。こうした御牧の全てが甲斐の北巨摩地方に存在したという定説はあってもその根拠は希薄である。
 甲斐の貢馬や駒牽の記事は天長六年(829)初見以後、延喜四年(904)まで何故か空白であり、この間の貢馬の有無も文献資料からは不明である。(貢馬と駒牽それに年表については拙著を参照) 当時国司往来や貢上の道は定められていて甲斐は東海道に属し、東海道を通じて貢馬や貢ぎ物を献上していた。

貢馬の道
 甲斐の古道は国府から御坂-河口-籠坂を通り東海道に入ったとされる鎌倉街道説が定説になっているが、富士山の噴火を横に見ながら朝廷への大切な貢ぎ物を運ぶことは大変な困難と危険を伴う。駒牽の期日までに納める御馬であってはより確実で安全な道を選択する事は当然である。
 長野県『富士見町誌』には富士見町の山道に甲斐からの貢馬の道が通じていたとの記述もある。甲斐の古道についての定説は曖昧なもので『延喜式』には駅名を「水市-河口-加吉」とあるのに、著名な歴史家はこれは誤りで逆に記載してあり、本来は「加古-河口-水市」であり、「加吉」は「加古」の誤りで「籠坂」のことである。との無理な推論を展開している。驚いたことに山梨県ではこうした根拠のない仮説を定説として再研究することなく平気で引用している歴史紹介書が散乱している。定説と史実の差は大きい。

 『山梨県の歴史』には、
 甲斐路は駿河国横走駅(御殿場市)で東海道本路から分岐し、西北に進んで甲斐駿国境籠坂峠(もとは加古坂と書いた)を越えて甲斐に入った。最初の駅加吉駅は加古坂の北麓山中湖山中付近にあったと推定される。『延喜式』の加吉は恐らく加古の誤りであろう。次の河口駅は河口湖町河口で河口湖岸にあり、両駅とも駅設置の条件である水草の富んだところに位置している。水市駅の位置は不明であるが、通説の一宮市蔵説もそれほど有力な根拠はない。地理的には御坂町上黒駒あたりに比定するほうが妥当のように思う。」
 甲斐国へ赴任する役人の中には有名歌人が含まれて小野貞樹、凡川内弭恒、壬生忠岑などがいる。又甲斐の駒や御牧(勅旨牧)を詠んだ歌も多く見られる。特に『土佐日記』の著者紀貫之の詠んだ歌が甲斐の古代の勅旨牧解明に様々な憶測と混乱をおこしている。

  都までなつけてひくはをがさわらへみの御牧の駒にやあるらん (『紀貫之集』)  

をがさわらへみ(小笠原逸見)
 貫之がこの歌を詠んだ年代は定かではないが、貫之は生まれが貞観十年(868)で沒年は天慶八年(945)であるから、天慶八年以前での歌であることは明瞭である。
 『西宮記』に見る小笠原牧は応和元年(961)年の事なので、それ以前から小笠原逸見牧は存在したのである。『貫之集』の編纂年時や詠んだ年も不明であるが、貫之の認識の中に「をがさわらへみ」が歌枕として存在した事は間違いないといえる。なお紀貫之は『土佐日記』のなかで「甲斐の歌謡について述べている箇所があるが、これは甲斐の古代を開く上で大切な記述である。
 永承五年(1050)の能因法師の『能因歌枕』には甲斐の名所として「黒ごま山」(黒駒山)「かひの黒駒」が見え、仁安元年(1166)頃成立の『和歌初学抄』には甲斐の歌枕として、「くろごまの牧「「ほさかの牧」「をがさわらの牧」などが載せている。
 「美豆の御牧」について県内の多くの歴史学者は言及していない。和歌の世界では使牧のみを御牧と称していたのではない。「美豆の御牧」これは山城の近都牧であるが、和歌の世界では混乱して「小笠原美豆の御牧の」などと詠われていた為に、『甲斐国志』や後の甲斐の歴史研究者の中には「みず」を「三つ」として甲斐の三牧の総称として紹介している。さらに「穂坂の小野」も『国志』編纂時に双葉町に小野という地名があったと記述してあるが、中央歌人の歌枕に詠まれるほどの地名認識があったとは思われない。
 甲斐の歌枕とされる「塩の山」や「差出の磯」も「地名不詳」とする解説記述書もある。また残念ながら歌集からは真衣野牧や柏前牧の歌は見えず、『国志』の真衣野牧の項に見える歌は何ら関係のない歌である。
 甲斐の歴史書の中には甲斐に全く関係ない歌やその地に関係のない俳句を掲載する例が多く見られ、松尾芭蕉の句や各地の宗匠らによる芭蕉句碑建立などは混乱に輪をかける所業である。
  春草の穂坂のをのゝはなれ駒 秋は宮こへひかんとすらん (『夫木』)
  小笠原美豆の御牧にあるゝ駒 もとれはそ馴るこらが袖かも (『六帖』)

 これ等の歌はどう解釈すればよいのか。『西宮記』には応和元年(961)冷泉院小笠原牧御馬の貢上の記事が見える。穂坂牧は延喜四年(904)、真衣野牧・柏前牧は遅れて承平元年(931)が文献に現れる駒牽の初出である。貢馬定数は穂坂牧が三十疋、真衣野・柏前牧が合わせて三十疋と決められていた。甲斐の穂坂・柏前・真衣野牧からの貢馬は定数を欠く年次もあるが他国を圧倒する勢いで続く。不思議なこと穂坂牧・真衣野牧は単独でも貢馬しているが柏前牧は必ず真衣野牧とセットで行なわれている。真衣野・柏前牧は通年に於いて初の駒牽で八月七日、穂坂牧は八月十七日が天皇御覧の駒牽の期日である。先述した小笠原牧の御馬も駒牽があり、勅旨牧と同等の扱いがあったことが史料により確認できる。勅旨牧の穂坂・真衣野・柏前の三牧と院牧小笠原牧は併設されていた時期が存在したことが史料でわかる。これも今までの定説にはないことである。
 駒牽行事への貢馬は全てにわたって厳しく規定されていた。牧監・馬医・書生・占部・足工・騎士が六疋に一人付き添った。さらに沿道の駅では貢馬一疋に対して一人、牧監に三人、馬医・書生などの牧士二人に一人ずつの人夫を出し、さらに牧監に三疋、馬医・書生・牧士には一疋ずつの馬を提供した。また駅では一日一疋あたり一束の飼秣(まぐさ)も負担させられた。
 勅旨牧の貢馬にあたってはその立場を利用した引率者の横行も目立ち、それを諫める太政官符が何度となく発布されている。各国の貢ぎ物にあたる人々の難儀は絶句に値する内容である。往路は駅路の国でも官給を受けられるが帰りは悲惨な処遇で、道筋にはこうした人々の屍体が放置してあり、その片づけの太政官符も発令されていた。勅旨牧には様々な規定があり、違反についての太政官符が度々発せられている。
 勅使牧の牧士は百匹(一群)ごとに二人が配置され、馬は毎年母馬百疋に対して六十疋の割合で繁殖させるのが基準で、逆に損耗は百疋につき十疋を限度とした。飼育された馬は二才になった九月に国司と牧長が同席して「官」の焼印が押され、馬の特徴を記録した帳簿も作成した。牧帳(事務担当者)以下は地域の有力者が任命された。馬の飼料には細馬で一日に粟一升・稲三升・豆二升他に干草・青草・木の葉や塩二斤も与えられた。
 一群(百疋)の一年間の所用米(半糠米)は推定五百八十四石位になる。天平六年(734)の「出雲国計会帳」には駅馬帳・伝馬帳・種馬帳・飼馬帳などが進上されているので甲斐国でも同様な書類が作成されたいたことは間違いない。
 こうしてみると牧場は単に馬を放牧するだけの施設でなく、管理を徹底するために相当な規模の貯蔵庫や厩(うまや)、調教施設、飼育に関わる人々の居住施設などが必要である。
 また広大な牧田も存在したことは諸史料から明らかで、併せて比定地研究の課題となる。不明な部分が多いほど研究者の推量の余地は広がるもので、著名な研究者の言が大きな意味を持つ。遺構や遺跡、牧に関する遺物が発見されれば甲斐の勅旨牧の動向の有力な手がかりとなるのだが、開発の激しい山梨県では難しく不詳のまま後世に残る可能性が強く、真実は闇の中に封じ込められたままとなる。
 御牧の運営については、甲斐には牧監が置かれ、(信濃・上野とも、武蔵は別当)毎年四才以上の用に耐える馬を選んで調教した。調教した馬は翌年八月の期日に牧監らが引率して貢上した。甲斐からは六十疋(穂坂牧三十、真衣野・柏前で三十疋)。貢上した馬は天皇の前で駒牽の儀式が行なわれた。(真衣野・柏前-八月七日。穂坂-八月十七日)貢上に適さない馬は、駅馬や伝馬に充てられか売却された。馬は細場(上)・中馬(中)・駑馬(下)に区別され飼料も厳格に規定されていた。牧監の任期は六年として国司と同じく責任の重い要職であった。などなどが定められていた。

 さて甲斐の三勅旨牧のその所在地について比定史料が不足していることは理解していただけると思う。真衣野牧が何故武川牧ノ原周辺なのか。識者はその根拠を示さないまま定説にする。柏前牧の比定地の「樫山」と「柏前」は資料で結びつくのか。未だに謎の部分が九割位あり、現存地名比定をもって牧名を断定することは避けなければならない。どの牧がどの地域にあったかは永遠の謎である。
 現在甲斐に於ける勅旨牧の遺跡や遺構の研究は進まず、地名比定や研究者の私説や推説の展開が見られ、三勅旨牧所在地の比定をさらに混乱させている。「定説」は創るものではない。史料研究や発掘調査などのたゆまざる研究から生まれるもので、信濃の御牧や上野・武蔵御牧の研究も視野に入れて幅広い論証が必要になる。遺跡・遺構、勅旨牧の飼馬関連地名、馬飼場の適地、文献史料を読み直しも必要と思われる。
 歴史研究を志すとき最も必要なのは、通説や過去の著書などは参考程度にして出発することが大切で、結果的に研究と整合すればそれはより史実に近くなるし、過去の研究書の信憑性が増すことになる。一般の人は史実と小説やテレビドラマなどとの境が分からず、全てが歴史事実と誤認してしまうものである。市町村誌などは分厚く難しくてどれだけの人が紐解くか分からない。確かに重要事項も多々記載してあるが、一般人に読みやすく理解しやすいようには記されてはいない。古代部分などは専門用語の羅列でその道の人以外ほとんど見られることはない。また編纂者によっては市町村誌で自説を展開している方も多く、史実とかけ離れる原因ともなっている。
 信玄を記した『甲陽軍艦』や徐福が著したとされる『宮下文書』なども偽書扱いしながら部分的には引用している研究者もいる。特に信玄を語る上で欠かせない山本勘助は今でも歴史上の人物でないとする研究者も多い。江戸時代甲府にあったと記されている「山本勘助屋敷」はどう解釈すればよいのだろうか。
 帰化人の跋扈(ばっこ)した古代甲斐、甲斐の勅旨牧、甲斐源氏の素顔、白州山口の生まれとされた山口素堂、疑問の残る初代市川団十郎と甲斐との関係、当時「山流し」と嫌われた甲府勤番などなど史実とはかけ離れた記述や定説が一般化しているのが現状である。





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最終更新日  2021年04月24日 07時24分45秒
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