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2019年04月24日
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カテゴリ:市川團十郎 歴史

多くの人は単純に、「市川団十郎の初祖は市川大門に関係ある」と思っているのではないか。三珠町に近接する市川大門町と団十郎の関係事績や伝承はないのである。さらに言えば武田信玄の能の師匠に堀越十郎家宣という人物が居たことも史料には見えない。また一条信龍の家臣だったとの記述も論拠を持たない説。

 
 『俳優世々の接木』による市川團十郎は
 本国 甲斐
傳ニ曰、先祖は甲斐市川村ノ産にて其子重蔵ハ下総國佐倉領幡谷村の郷士と成苗代をつぐ。農堀越氏といふ。 (『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)
 この記載のように甲斐の市川の出自としたほうが史実のように聞こえるがいかがなものであろうか。団十郎が記載されている著書は多く見られる。
『明和伎鑑』…… 明和六年(1769)

元祖市川團十郎、三ケ津立役の開山。才牛。下総國佐倉の住人。幡谷村(一本成田)。堀越某カ男、幼名海老蔵。(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

「團十郎の家紋、三升」
 市川團十郎の定紋。米を計る升の大・中・小三個を入れ子にして、上から見た形を図案 化したものである。一説に、初代團十郎が不破伴左衛門の役の衣装に使った稲妻の模様から転じたとも伝える。(『役者名物袖日記』)

また、團十郎の祖先は甲斐國東山梨郡市川村の出身とする説を踏まえ、この地方の升は「甲州の大升」といわれ、一升が普通に升の三升に相当するほどの大きさからヒントを得たという説もある。正確な由来はわからない。(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)  

 
ここで、市川家家系について記述し本人も談洲桜と名乗って、団十郎と無二の親友であった烏亭焉馬について調べてみた。
市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬 
  『江戸時代おもしろ人物百科』 
寛保三年(1743)に生まれる。

本名は中村利貞。字は英祝。通称和泉屋和助。別号立川焉馬。談洲桜。桃栗山人柿発斎。本所に住む大工の棟梁だったので、狂名は鑿 言墨金という狂歌師であり、洒落本、黄表紙、合巻などの戯作もあり、五代目市川団十郎と義兄弟になって戯作にも手を染めた。落語は彼の余戯であったが、天明六年(1786)四月十二日、大田南畝、鹿都部真顔の協力をえて、向島武蔵屋方で噺の会を開いた事が契機となり、以後も文人達の協力で再三噺の会をひらき、噺本も刊行して、鹿野武左衛門以後絶えていた江戸落語中興の祖という役割を果たした。主な著は演劇史『歌舞伎年代記』、洒落本『客者評判記』、噺本『喜美談話』『詞葉の花』『無事志有意』など。文政五年(1822)六月二日に没した。享年八十歳。

市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬
   『江戸文人おもしろ史話』杉田幸三氏著
年80歳。江戸出身。寛保三(1743)~文政五(1822)
本所の相生町にいた大工の棟梁和泉屋和助が通称である。五世団十郎と仲がよく、団十郎の名をもじって「談洲楼」という号がある。
父の職を継ぎ大工の棟梁となった。が、どういうものか自宅では木綿製の足袋を売っていた。大工の棟梁からきた狂号を「鑿言墨金」と称した。
相生町の家は、上り口から六尺四方の三升(三升とは紋所の名。大・中・小三個の升を入れ子にし、上から見た形を図案化したもの。団十郎の家紋として有名)形。上部には、五世団十郎が男之助に扮した時の上下でつくった揚幕を垂らしていた。さらに二階に二室あったが、畳に三升の模様を織り出し、一室の天井は同様、三升形の網代天井とし、障子の骨まで三升だった。また襖や畳の縁を見ると、団十郎の十八番の暫に着た柿色の素袍を使っていた。それでいて、洒落本、草双本、笑話作家なのである。云々
市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬 
  『歌舞伎の世界』「象引考證」服部幸雄氏著

烏亭焉馬が熱烈な五代目団十郎の贔屓で知られ、義兄弟の契りを交して、談洲楼(だんじゅうろう)と名乗ったほどであったことを、改めて言うに及ぶまい。馬(焉馬)の守護神である猿(五代目は俳名の文字を白猿と改めた)の民族についての知識も、両者の関係の親密さを物語るもののように思う。焉馬は「花江都歌舞伎年代記」を編纂する一方、天明九年(1789)刊の「江戸客気団十郎贔屓」を端緒として、寛政四年(1792)刊の「御江都錺蝦」から文政元年(1818)刊の「以代美満寿」に至る、いわゆる「白猿七部集」を次々と編集し、出版した。これらの書を検すると、焉馬が早い時期から、市川団十郎代々の当り芸を抜き出して紹介しようという意識を抱いていたことがはっきり見てとれる。云々

『明和伎鑑』……「筑波大学図書館所蔵」
  『市川団十郎』内掲載。西山松之助氏著  市川家
  元祖市川團十郎三ケ津立役の開山
  才牛。下総佐倉の住人。幡谷村(一本、成田)
  堀越某の男。幼名海老蔵。居宅、深川木場。
 
 さて市川家と甲斐の関係が見える資料に次の著がる。
甲府の芝居と亀屋座(四)…               … 小沢柳涯著 『甲斐』第四號所収
寛政五年(1793)六月、市川蝦蔵(五代目團十郎)来る、狂言は「御前戀相撲曽我」に「鏡山」。 局岩藤。工藤祐經(蝦蔵)、お初(富三郎)これは江戸河原崎座の於ける狂言にて、市山富三郎は瀬川菊之丞なりと。
此年秋八月、お馴染みの坂東彦三郎、瀬川菊之丞と共に来り、「假名手本忠臣蔵」を演じ、彦三の由良之助と菊之丞の顔見尤も好評あり。
同七年六月、又々蝦蔵一座、亀屋座に来る。狂言は「碁盤太平記白石噺」、大切浄瑠璃の作事「積變雪 關扉」にて、初代男女蔵初めて登場。男女蔵は白猿門下の秀才にて此時歳漸く十五。
同九年六月、重ねて市川蝦蔵来る。白猿一世一代の触込にて、乗込み前より夥しき人気なり。外題「菅原傳授手習鑑」。
役割は、源蔵女房千代(佐野川市松)。菅丞相、武部源蔵(坂東三津五郎)、松王丸 (蝦蔵)
蝦蔵は前年(寛政八年)十一月、江戸の都座にて「大當源氏」に碓井貞光「暫」に修業者實は相馬太郎、二番目に山姥の分身を勤め、之を一世一代として舞臺を退き、成田屋七左衛門と改名して江東向島に閑居せりとある故、甲府へはお名残の為時に出演せりと思はる。
さて市川団十郎と言えば成田山新勝寺との関係が深い。その成田山と団十郎の関係については次の著がある。
 
成田山新勝寺
……『郷土資料辞典』「千葉県・刊行と旅」
  (前文略)

寺は中世に入ると衰退したが永禄九年(1566)成田古薬師に移転され、近世初期、佐倉藩の祈願所として復興された。元禄十三年(1700)香取郡医王院から入山した昭範上人は寺の再興を図り、宝永二年(1715)寺基を現在地に移して諸堂塔を造営、寺観を整えるとともに、不動尊の霊験を世に広く宣伝し、多くの信者を集めて、今日の隆盛の基礎をつくった。昭範上人が中興第一世とされている。

江戸の市民たちの、信仰とレクリエ-ションを兼ねた「成田詣で」が盛んになったのもこのころからで、その要因の一つとして、江戸出開帳と、歌舞伎役者の初代市川団十郎があげられる。
江戸出開帳とは不動明王本尊と二童子像を厨子に納め、佐倉街道を経て江戸に出向くことをいい、第一回は元禄十六年におこなわれ、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院も参拝したという。以後明治31年最後の深川出開帳まで十五回を数え、江戸市民と成田山の接触を深めた。
初代市川団十郎は今の成田市幡谷の出身で、団十郎の屋号を成田屋と呼ぶのも、これによる。子宝に恵まれなかったが、ひたすら不動尊に念じて一子九蔵、後の二代目団十郎を授けられてから不動尊を取り入れた芝居、いわゆる荒事芸を演ずるようになった。これが当たって、市川団十郎とともに成田不動の名を、江戸市民に深く印象づけることとなった。七代目団十郎も成田山の授り子といわれ、天保十三年(1842)、老中水野忠邦による天保改革の奢侈禁止令に触れて江戸を追われたとき、成田屋七左衛門と名を改め、暫く成田山内の延命院に身を寄せている。
山東京伝の『近世奇跡考』の「元祖團十郎傳并肖像」には
江戸の俳優初代市川團十郎は、堀越重蔵といふ者の子なり。慶安四年辛卯、江戸に生る。重蔵は下総国成田の産、(或云、佐倉播谷村の産、役者大全に云ふ市川村」なり)江戸にうつり住。曾て任侠を好み、幡随院長兵衛、唐犬十左衛門と友たり。團十郎生れて七夜にあたる日、唐犬十左衛門、彼が幼名を海老蔵となづけたるよし、(今の白猿ものがたりぬ)初名を段十郎とよび、後に圃十郎に更む。曾て俳諧を好み、奮徳翁才麿の門人となり俳號を才牛といふ。延寳のはじめ、和泉太夫金平人形のはたらきを見て、荒事といふことをおもひつきたるよし、(『侠客傳』に見ゆ。)延寳三年五月、木挽町山村座、凱歌合曽我といふ狂言に、曽我五郎の役を始めてつとむ。(時に二十五才。)延寳八年不破伴左衛門の役を始めてつとむ。(時に三十才。)衣裳の模様、雲に稲妻のものずきは、
 稲妻のはしまで見たり不破の関

といふ句にもとづきたるよし、『江戸著文集』に見ゆ。貞享元年、鳴神上人の役を始めてつとむ。(鳴神を堕落さする女の名を、雲の絶間なづけしは、團十郎おもひつきたるよし、これらを以て其才の秀でたるをはかり知るべし。)元禄七年、京にのぼり、同十年に江戸に下れり。

 
また栗原東随舎著の「劇場役者市川團十郎家侍の事思出書舐」には、
寛文年中、両国橋より三里東に、葛飾郡市川村といふ所に、薦の十蔵といふ者有。元は武家より出て虚無僧となり。其以後、商人となりて、市川村に住居なしたり。依て異名を俗称の如く薦の十蔵といふ。勝れて大酒を呑けり。一子小三郎といふは、勝れて敏達にして、更に群兒の類ひに非ず。弁舌能く発明なり。
然るに、彼十三歳の頃、市川村へ田舎廻りの歌舞伎乏店来り。十日餘逗留なすうち、種々の狂言仕組の節、彼小三郎好みて毎日見物に来り。能覚へて芝居を始めざる前に、此小三郎、仕組のまねをして、人々に見せける故、芝居の者も迷惑に思ひながら感心しけるとぞ。此事、芝居頭取見て、何卒、此子を貰ひ藝を仕込なぱ、後々は能役者にも成べきと、人を頼み十蔵方へ申遣しければ、もとより貧家の小商人の事、はかゆかざるをかこちぬる自分なれば、草速遣すべしと貰ひ請の相談調ひぬ。夫より所々田舎を連歩行、藝を仕込けるに、段々上手に成て、廿七歳の頃は市川團十郎と改め、田舎芝居の立物とは成りぬ。
 
さらに甲斐の「桝」に由緒を持つと三珠町歌舞伎会館資料(『風流日誌』)の言う、「三升紋」についても、
團十郎も宿所にかへりけるに、頃は九月上旬故、栗商人、田舎よりきたれたるを呼入て、栗を買んと立出てみるに、大ひなるが升に入て、其中に一升と五合と一合と升を入子に、して有るを、つくづくと考へ見るに、目出度升を組入たり。禁を見増の嘉瑞なり。今迄の定紋三階一松なれど、向後は三升をつけべしと、粟三升を買ひ、此時より定一紋を三升に改めたり。
表徳は才牛といふ。宝井其角が門に入りて誹道に達せり。段々評判は能、評判記の位ひづけ極上々吉と成、給金八百両迄に登りぬ。
然に一年、堺町追残らず類焼故、芝居も小屋懸にて狂言興行なす。役者ども告々、所々へ離散して、夫より通ひて座を勤めける。云々
とあり、三珠町歌舞伎会館の案内内容とは異なっている。
団十郎が俳諧の師と仰ぐ其角は、これも甲斐出身とされている山口素堂に最も近い人物であるが、素堂側の資料からは才牛との接触は見えない。
 
『歴史人物大事典』角川書店刊の「市川團十郎」には、

江戸時代前期以来の歌舞伎役者。本姓は堀越。屋号は成田屋。万治三年五~宝永元年二月十九日(1660~1704)。重蔵の子。幼名は海老蔵。祖先は甲斐の武士で、父は江戸に出て侠客と交際があった。延宝元年(1673)中村座『四天王稚立』で初舞台を踏み、市川段十郎の名で荒事芸を創始する。

三升屋兵庫の筆名で『参会名護屋』(元禄十年)『源平雷伝記』(同十一年)『成田屋分身不動』(同十六年)など十六編絵入り狂言本を残す。市村座で『移徒(ワタマシ)十二段』出演中、一座の生島半六(?)に刺殺された。俳名は才牛。
さらに『人物大事典』「市川團十郎」には、

江戸の俳優にして三ケ津荒事の開山なり。俳名才牛と曰ふ。堀越十蔵の忰にして万治三庚子年の誕生にて、幼名を海老蔵といふ。其の頃江戸の侠客に唐犬重右衛門といふ人あり。海老蔵といふ名は此重右衛門が付けしといふ。重右衛門より贈りし絹地に海老を畫ける掛物世々市川段十郎の家に所持して秘蔵せり。稚きより伎藝を好み劇場に入る。云々

 
  続けて初代団十郎の記載のある書著を列挙してみる。
団十郎の系譜 『歴史への招待』藤田洋氏著 

初代の事蹟はよくわからない。先祖は甲州の武士堀越十郎、武田家滅亡ののち下総埴生郡幡谷村に移り、その子孫の重蔵が江戸に出て男子を設けたのが、初代団十郎だったという事になっている。異説もある。市川姓は生まれた葛飾郡市川村からとったともいう。

 
初代市川團十郎 『江戸時代人物百科』
 
  万治三年(1660)江戸和泉町に生まれた。父は下総國埴生郡幡谷村の農民だったが、江戸に出て地子総代を勤めた堀越重蔵(十蔵ともいう)延宝元年(1673)十四才の初舞台に坂田金時の役で「荒事」を創始したと伝えられる。
 
  さて市川団十郎や歌舞伎のことについて最もその著が多い服部幸雄氏編の『市川団十郎代々』団十郎家の先祖には団十郎の祖については言及を避けている。
 

  初代市川團十郎の先祖は謎に包まれていて、よくわからない。烏亭焉馬の『市川家家譜』によると、代々甲州の武士で、永世年間(1504~21)に北条氏康の家臣になり、天正にいたって小田原没落後、下総國埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、重蔵の代になって市川に移って郷士となり、江戸初期の慶安、承応(1648~55)のころ江戸に出たという。

 
 
 
  別に奥州「坪の碑」の近くにある市川村から出たという説(『松屋筆記』巻四)、葛飾郡市川村から出たとする説(後述)などもある。このころの芸能者の出自が明白であるのはむしろ不自然というべきで、後代になってからもっともらしく創作された可能性が濃い。通説に従えば、初代團十郎は万治三年(1660)江戸の和泉町で生まれ、幼名を海老蔵と言った。享保十五年(1730)に作られた初代の追善句集『父の恩』の記事によると、父親は堀越重蔵(十蔵とも)と言い、幡谷村の土地を弟に譲って江戸に出たのだとのことである。人望厚く地子惣代を努めるほどの顔役だった。侠客と交際もあり、「菰(こも)の重蔵」とも、また顔に疵があることから「面疵の重蔵」ともあだ名されていた。著名な侠客唐犬十右衛門と親交があり、初代團十郎の幼名海老蔵の命名者は十右衛門だという伝説も語られていた。
記に述べた團十郎の家の出自にまつわる数々の伝承は、正確であるという保証はないが、初期の一歌舞伎役者の素姓に関する何らかの真実を伝えているように思われるし、のちに荒事の宗家となる市川團十郎の故郷としてもふさわしい。だがここにはなお隠された真実があるようにも思われる。
さて団十郎の初祖についての諸著の記述を比べてみると、その内容は大きく食い違っている。烏亭焉馬の『市川家譜』によると、
代々甲州の武士で、永正年間(1504~20)に北条氏康の家臣になり、天正にいたって小田原没落後、下総國埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、重蔵の代になって市川に移って郷士となり、江戸初期の慶安、承応(1648~55)のころ江戸に出たという。 
 『山梨県人物博物館』には

この初代団十郎の父が堀越重蔵、祖父の重左衛門、曾祖父の十郎家宣は共に甲斐武田家の一門、一条信龍の家臣であった。堀越十郎については、永禄十二年(1569)の相州三益峠の法条氏との戦いで手柄を挙げたことが感状(戦功を賞した文書)として残されている。

堀越一族は天正十年(1569)三月、主家の滅亡後、相模に逃れ、さらに下総国旙谷村(千葉)に逃れた。 
 
三珠町の「歌舞伎会館資料」は、
この地は武田信玄の異母兄弟一条信龍が富士川沿いに攻めてくる敵を迎え撃つために上野の地に城を築いた。その家臣に武田信玄の能の師匠をしていた堀越十郎家宣がいた。武田勝頼公が織田・徳川の連合軍に敗れ、勝頼公が自刃、一条信龍も自害する。そして堀越十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。





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最終更新日  2021年04月24日 06時37分01秒
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