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2019年04月25日
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飯山城と黄金一万両のわいろ

 

  山梨 泉昌彦氏著 一部加筆

 長篠の戦いに疲れきっているとは申せ、景勝にとって武田軍を相手にまでしては勝算がない。

そこで景勝はありあまる黄金を一万両とそれに越後の要害城である飯山城、

上州西を勝順にわいろとして買収したのだ。

 長篠の戦で大敗した勝頼は、再軍備に金が欲しかった。

武田たのみの諸金山は、天正五年ごろから急に不況となり、重税を課して躍起となっていた。

 勝頼は故に目が暗み、あっさり北条氏を裏切って軍を返してしまった。

このため氏秀は自殺し、氏秀側へついた重臣ことごとく戦い破れて禄を失しなった。

飯山城主桜井伊豆守義孝は、五月十七日城を枕に討死し、

生きのこった氏秀側の上倉、小林といった重臣は勝順側へついて、ことはおさまった。

 

上杉と武田の和はこのときに結ばれた。景勝の室はすでに信玄の女甲斐御前がおさまっていた。

 さてこの相続争いのとき、桜井義孝が謙信より預かっていた莫大な黄金の処置に窮して、

飯山城本丸下に埋めた。というのが石垣の目じるし「→」である。

誰も掘ったわけではないからなんとも言えぬが、「→印」は堰止の犬枠であるから、

眼前の千曲川にも関係がありそうだが、ここでは本丸下の定説に従うことにしよう。

 

定説となっているものに、無欲の謙信か「黄金は戦いのもと」と、

余分の黄金は穴を掘って隠匿しておいたという点から、

飯山城の石垣石印から本丸説を生んだのだろう。

 飯山城は「謙盾の冬籠り城」とよばれている。

これは雪の深い越後からにわかに出陣できないので、武田軍のときこと風のごとき、

冬の出撃に対して、飯山城で冬ごもりしていたからである。

当然、武田に使えて城内に大兵を養っておいたので、

莫大の軍資金を安全のところへ埋蔵しておいたと考えるのは常識だ。

 

武田説

 

 信玄が信州南佐久北牧村の諏訪社にささげた願文では、

奥信濃路の亀蔵城(上倉)が十日以内におちたら越軍に思う存分勝てるとある点で、

飯山城をさしているものだ。

この飯山城は天正六年九月二十三日の定書では、勝頼の手に帰し、

天正十年三月、「武田亡ぶ」の報に、武田旧臣はその帰属に迷ったが、

多くは上杉方について華々しい反逆戦を随所で展開した。

これも景勝の民心把握の力がモノを言って、

織田軍の統将森勝三長可の大軍が深窓城、諏訪、

南佐久の武田軍を殲滅して海津城へ入ったときと大激戦を交えた。

このとき飯田城、長沼城には(上水内郡)松本房繁、牧之島城(上水内郡信州新町)には、

上倉下総守、尾崎十右衛門、小林縫殿励、芋川親正などが頑張っていた。

ことに芋川の卒いる一揆は勢いすさまじく長沼城付近で戦ったが、長可軍には抗せず、

上倉の古城(上水内鳥居)で、腿可軍に敗れ、女性は不遇な目に遭い、

処罰された婦女子は三千名といわれる。

景勝側は人質を差出して和を結び、長可は北信四郡(更科、高井、水内、埴科)十万石を与えられた。

信長記では、このとき芋川親正は討ちとられたとあるが、生存しているので一族であろう。

 この武田滅亡の際に、飯山城へ埋めたという軍資金説はあやしい。

まもなく信長が本能寺で討たれると、景勝が信濃四郡を奪回し、

一時武田の臣となっていた旧上杉はすべて景勝のもとに戻り、弥津常安は徳川の随身し、

その子信正一万石が与えられているなどの例からだ。

それよりもはるかに武田説で有望なのが牧之高城二つの埋蔵金説である。

ここはいまも掘る人があるのだから、好事家にとっては見落せない。






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最終更新日  2021年04月24日 06時31分06秒
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