カテゴリ:山縣大弐
山県大弐の歴史 明和の事件 大弐逮捕
明和の事件は、明和四年に大弐が逮捕されたことにより起こった事件ですが、 それより八年前に,公卿家の臣と称する藤井右門や、 竹内式部らの起こした宝暦の事件と無縁ではありません。 幼い桃園天皇に日本書紀を講じ、現状に不満を抱かせたことは恐れ多いと、 反論する関白一条道春は、藤井たちの唱える垂加神道を潰し、 藤井と竹内を逮捕した事件です。 そうした思想の持ち主の藤井右門が、大弐塾の仲間だったことは重大でした。 藤井の言動が大弐逮捕のきっかけになったことは疑うべくもありませんでした。 大弐の兵学は、甲州軍学を基本にした攻めの兵学でした。ですから、 軍学を講義する時には、図面を書いたり、 小道具を使って駒を動かすような図上講義を得意としていました。 現在自衛隊が用いている図上演習のようなものでした、 大弐は、甲府の与力をしていましたから、 主として甲府城を例にして講義していました。 世間でいわれる江戸城攻撃の講座などしたとは到底考えられません。 では、どうしてそういうことか噂になったのかといいますと、 小幡藩の藩士とともに塾生になっていた僧梅叟(ばいそう)が、 塾長代行をしていた藤井右門と議論をしたさい、 右門の口から江戸域攻撃の話がでたのです。 つまり、風の強い日に品川辺りから火を放てば、 民家はことごとく焼かれて江戸城も類焼し簡単に攻略できるなどと、 大弐が甲府城を例にして語った話を江戸城とすり替えたのでした。 梅叟右門は議論が好きで、つねに議論を繰り返していしたが、 弁舌の立つ右門にいつも負けてばかりいました、 ですから、右門の江戸城攻撃説を大弐の説に言い換えて、 小幡藩の内紛に利用したのでした。 このよう危険思想の持ち主である大弐と親交の熱い家老吉田玄番を、 早く始末しなければ幕府のおとがめを受けることになるでしょうと、 松原軍大夫は直接織田対馬守に申し上げたのでした。 それのみか、幕府にもことのしだいを報告してしまったのです。 「柳子新論」以後、幕府も大弐に警戒の目を向け、逮捕の機会を待っていましたから、 小幡藩の内紛をうまく利用し、大弐を逮捕することにきめたのでした。お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月23日 19時18分46秒
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