カテゴリ:著名人紹介
甲斐出身の杉本茂十郎 その2
茂十郎と三橋会所
彼が、まず持出したのは、「三橋会所」の設置であった。そのために積立てを行うことを申し出た。こうしたことから、幕府も一応条件はつけたものの、橋の修理維持の費用が助かるため、心よくこれを許し、彼を才覚ある人間として認めたようであった。彼は表向き幕府を喜ばせ、当局に恩を売った形をとりながら、更にこれを利用、大きな彼の野心の達成に手を打った。それは、この橋の改架、修理、維持のための「三橋会所」の設立だった。 菱垣廻船の船頭や水主たちの出金を積んでおいて、将来、永代橋、新大橋、大川橋の三橋のうち、改架を必要とした時にはこの金を使い、また積んだ金の利子は橋の修理推持に使う。そのためには事務を処理する会所、三橋会所の設置が必要であることを申し出た。杉本茂十郎はこの会所を足場にして、仲間の金融機関にしようとする考えであったという。 幕府がこれを許可すると、彼は更に十組問屋仲間に働きかけ、冥加金を幕府に上納することを申し出た。幕府もこれを「殊勝なり」として受入れることにした。これはもちろん彼の何かこれによって特権を得ようとする工作だった。文化6年(1809)には18組の問屋仲間の人々が賛同して冥加金を出すに至り、七年から次第に数を増し、冥加金が1万2OO両に達したという。茂十郎はこの1万2OO両を基にして、毎年1万2OO両を献金上納するから、冥加金を出したものに問屋の株を認めてくれるよう、公認を願い出、冥加金上納者に株を認める証拠として鑑札の下付を願い出、これが許可されることになった。 十組問屋の株数は1995株で、65組に分け、菱垣廻船積仲間と称して、何とか他を排除して独占という形に持っていこうとした。 茂十郎の工作運動は成功を見て、文化10年(1813)には株数をこれだけに限定、以後新規加入を認めないということになった。これは茂十郎の大成功というべき事で、「独占」という形の上にあぐらをかいていられることになった訳である。 どうも、これは町年寄の樽が一枚加わっていて、茂十郎はしっかり樽をつかみ、食いこみ、樽を何かにつけて「うしろだて」として、いろいろ工作していた事は否定できないようである。幕府も、株数限定、新規加入を認めずということに神経を使ったのか、町年寄の樽に命じて、充分これを管理するように命じている。茂十郎が樽をかついで、何かやるに好都合な「御膳だて」がうまく出来上った。 そこで茂十郎は樽を通して、年額1万2OO両の冥加金を、自分の設立した「三橋会所」の運転資金として借りることにも成功、この金を土台にして、いろいろのプランを建てて事業を行う事を計画、まず貧乏旗本などの貰うサラリーの米と町方の売り米としての米との米価の調節といったことを理由に、日本橋伊勢町に米会所の設立を願い出これもうまく働きかけて許可されるに至った。 文字通り行く所可ならざるなしといった工合で、杉本茂十郎は江戸の商業界になくてならない人物となっていった。こうしたことから幕府も彼の努力を賞して町方御用達に任命、飛ぶ鳥をおとす勢いであった。 しかし、彼が余りにどんどん幕府の「為になる」計画をたて、その度に許可となるといった状態は、敵をつくらずにはいなか った。僅かのうちにとんとん拍子にのし上った彼に対し、事あらばと彼に目をそそぐ人々も多くなっていった。そのうち、彼が三僑会所の金、毎年1万2OO両という問屋や船頭・水主たちの出す金を借りて、自分の金かのように、いろいろに費うことに批判が出て、三橋会所の資金運用にはどうも不正があるという噂がたち、彼のやり方に対し「三橋怪所」と呼ぶ人もあり、町年寄の樽の保護も及ばず、遂に種々の取調べが行われて、勝手に会所の金を私的に利用したということで遂に咎をうけ、茂十郎は失脚するの止むなきに至った。余りに何でも幕府の当事者を動かしては許可をとり「怪物」といわれた彼も、憎まれ失脚を望む人々によって、引きずり降されてしまった。 文政2年(1819)六月三橋会所はついに廃止された。25日杉本茂十郎の町奉行付用達と十組問屋頭取を罷めさせ、同時に米会所も廃止し、永代橋・新大橋・大川橋の請負をやめさせ、三橋会所をも解散させるに至った。 理由は明確ではないが『重宝録』によると、十組問屋よりの冥加金1万2OO両を五カ年年延を願い「十組の組々へ割戻すべきところを、三橋会所の借金が嵩み、返済に差支えるとして、三橋会所の方へ廻し、十組へ割戻さず、不正な取扱いをし、室町の十組拝領屋敷の地代金を行事へも組々へも割戻すことなく、会所の金の千々の支払い、など行事達の取計に任せっきりで、頭取としての役目を果たしてない。特別に「町奉行付御用達十組頭取放」だけですましてやるという申し渡しが彼に下ったという。伊勢町米会所についても、6月25日に限月売買をやめさせ「古米会所ならびに延売買とも早々相止、右場所取払」、という命令が出た。その外三橋会所もやめさせ、これは、「以来町年寄共取扱」とし、毎年修復諸入用共、冥加金1万2OO両のうちで、今後賄なってゆくようにと令して、十組に対しては一万二OO両の冥加金はすべて町年寄三人の取扱いとし、毎年11月に必ず町年寄役所へ納入するようにと命令、茂十郎への下金の返納残金一万両は十組全体で引請けて、是迄の通り利金を上納するようにと命じ、また水油問屋には、大坂より海上積出しの水油に、30日・60日の延売買取引を1年千両冥加金上納ということで許可していたが、冥加金上納をやめ、延売買の立会いを直ちに止める様に命じて、これで一件落着に及んだ。 日本橋の怪物などと渾名された杉本茂十郎が華々しい経済の舞台で活躍したのはこれまでで、あとは全く鳴かず飛ばずで、一応幕をとじたといえる。 しかし、杉本茂十郎のやった事業、どう考えてもそんなに幕府側に打撃を与えたとは思えない。立派なものである。 幕藩体制下、彼のような飛び離れたすご腕の事業家が、喜ばれなかったことは当然で、多くの敵をつくり、そのためにほうむり去られたというべきかも知れない。
参考資料……塚原美村『行商入の生活』 ……小林剛『甲州財閥』 ……石井孝『甲州屋文書』 ……伊東弥之助『杉本茂十郎の研究』他参照。 (むらかみ・ただし=法政大学教授) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月23日 18時46分53秒
コメント(0) | コメントを書く
[著名人紹介] カテゴリの最新記事
|
|