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2019年04月29日
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カテゴリ:著名人紹介

甲斐出身の杉本茂十郎 その3  

 

杉本茂十郎 『江戸時代おもしろ人物百科』

 

 生没年不詳。甲斐八代郡夏目原村の百姓次左衛門の子。

 17、8歳のころまで農業に携わったが、江戸に出稼ぎに出て、寛政10年(1798)、万町の定飛脚問屋大阪屋茂兵衛の養子となり、家業をつぐ。

 才人で弁舌にすぐれた覇気があり、定飛脚問屋仲間を牛耳った。文化5年(1808)江戸の十組問屋仲間に呼びかけ、隅田川の永代橋・新大橋・大川橋の改修修理を請け負う三橋会所を設立し、十組問屋の頭取となり、また幕府の町方御用達となるなど政商として活躍した。

 文化10年(1813)には菱垣廻船問屋中間という独占団体を結成し、その頭取となり、江戸の流通界に権威を持った。

 しかしその横暴の所業が仲間から排撃され、上納金の不正を咎められ、文政2年(1818)失脚して、失意のうちに没した。

 

  杉本茂十郎 『山梨県知名辞典』

 

 江戸商人として活躍した杉本茂十郎は寛政10年(1798)に飛脚問屋大阪屋茂兵衛の養子になり、文化期には江戸町年寄次席、三橋会所会頭を勤め十組問屋再建などで江戸経済を支配したが、幕府の米価調製で多額の赤字を出し失脚した。

 

  甲州商人

 

 (『平松春哉家文書』)『歴史公論8』「甲州商人」村上直氏著 

 (前文略)甲州出身の商人のなかには、生国甲斐にとどまらず、他国に出て各地で活躍した者が多くいた。こうした気風や伝統はすでに武田信玄や大久保長安のなかにみることができるが、江戸時代になるといっそう顕著になってくる。やがて幕末・維新期を迎えると横浜開港をめぐって大きな動きとなっていくが、明治以降に現われる甲州財閥はこのような商人のなかからもちろん生まれていくのである。

 江戸時代に相模国高座郡の相模野台地の東北部に上矢部新田があった(現神奈川県相模原市)。現在の国鉄横浜線の矢部駅の付近である。かつての土地は高燥で地味もよくなく、水利の便も悪く、農耕や居住にあまり適さない土地柄であった。この上矢部新田を開発したのは、寛文末から延宝期にかけて、江戸の商人相模屋助右衛門という人物である。したがって、上矢部新田は町人請負新田である。この助右衛門について、『相模原市史』第二巻によると土地の古老たちはつぎのようなことをいい伝えている。

 助右衛門は甲州の出身であり、江戸に出て成功して豪商になったという。

 人格識見ともにすぐれており、新田開発にはみずから陣羽織を着て先頭に立って、農民たちを指揮したという。やがて、開発が終わり江戸に戻るにあたっては、〃立つ鳥跡を濁さず〃との例のように、新田はすべて開発した小作農にただ同様の安値で譲り、立ち去ったといわれている。

 この助右衛門はおそらく郡内地方の出身と思われる。現在の相模原市の北部の旧家には武田氏の旧臣が多くいたことから、それが縁で開発に打ち込むことになったと考えられる。しかし生産力の低い大地を何故に開発したのかは疑問が残る。

これはむしろ商業上の必要から、宿場を設けるための開発ではなかったかとも思われる。それは助右衛門が江戸に住みながら「相模屋」の屋号を用いていることでよくわかる。つまり相模国の沿岸の塩魚や干鰯甲斐の郡内地方に運ぶため中継地を設けようとしたからではなかろうか。甲州出身の商人助右衛門が、相模国を対象に商売をもくろんでいることは興味深い。もし助右衛門が生国甲斐と江戸と相模を結ぶことを考えていたとしたら、いかにも甲州出身の商人らしい、きわめてスケールの大きい発想ではなかろうか。

 

甲斐出身の杉本茂十郎 その4

 

  杉本茂十郎

 

 江戸時代後期、天下の大都市江戸を活躍の場としておおいに手腕をふるった甲州出身の大商人に杉本茂十郎がいる。文化年間に江戸や大坂の町人で茂十郎の名を知らないものは、まずいなかったといわれるから、彼の商才と敏腕は全国的に鳴りひびいていたのである。

 杉本茂十郎は甲斐国八代郡夏目原村(山梨県東八代郡御坂町)の百姓次左衛門の末子に生まれている。八、九歳のころ江戸に出て、やがて定飛脚問屋の大坂屋茂兵衛の養子となって家業を継ぐことになった。

茂十郎は破産寸前であった大坂屋の立て直しに手腕を発揮し、さらに江戸十組問屋に発言権を強めることによって、その再建にも乗り出した。

 文化6年(1809)になると菱垣廻船の再建や問屋仲間の扶助をするため、江戸の下町を流れる隅田川の永代橋・新大橋・大川橋の架け替えや修復工事を引き受ける三橋会所を設けて、その頭取になっている。そして同10年(1813)になると十組問屋を強力な独占団体にしていくために菱垣廻船積問屋仲間に再編成した。また江戸の町年寄次席・町方御用達として、町の実力者である町年寄樽屋与左衛門と手を結んで公金の貸し付けをおこない、問屋からの冥加金・御用金の取り立てに辣腕をふるった。

 こうして杉本茂十郎の名は江戸の財界を風靡し、町年寄をはるかに上回る実権を握ったといわれている。しかし、やがて全盛をきわめた茂十郎の身辺にも不幸がおとずれることになった。それは三橋会所の資金で伊勢町米立会所を設立し、これによって幕府の米価政策に協力したが、結果的にはかえって大穴をあけて仲間商人からおおいに怨みを買うことになったのである。

 そして文政2年(1819)に、三橋会所と伊勢町米立会所は、幕府によって廃止され、茂十郎は追放されることになったのである。茂十郎の方法は、幕府側の江戸市場を、江戸商人の資本を利用しながら掌握しようとするものである。しかし、幕府へ協力しながら追放の運命となった理由がはっきりしない。一説には信任されていた町奉行が代わったためともいわれる。茂十郎の失脚は、米価に関する経済的変動のためだけではなく、政治的な変化によるものであったというみかたもある。  

 

 ​​​​杉本茂十郎の最後はともかくとして、甲州の一農家に生まれ、やがて、わが国最大の政治都市である江戸の財界を一時とはいえ、掌握したというのは痛快なことであり、甲州出身の商人の面目躍如たるものがあるといえるのである。​​​​

 

 甲斐国は東山道養蚕地帯に属している。この養蚕地帯は幕末の開港によって、急激な変貌をとげていった。幕末維新期け甲府盆地は、おおまかにみて東部は養蚕地帯(東山梨・東八代郡)、中西部は綿作地帯(中巨摩・南巨摩郡北部)、北西部は米作地帯(北巨摩郡)と三つの経済的性格の果なる地域に分けられ、これに甲斐絹や郡内織物の東部の地域が接続している。

 安政6年(1859)の日米通商条約の締結にはじまる横浜の開港は、甲州商人に大きな影響を与えることになった。それは甲斐が横浜に割合に近いということもひとつの理由であるが、なんといっても貿易の中心が、外国商人の需要が多かった生糸や蚕種にあったことが、投機的冒険的な商人たちの動きをいっそう活発化していった。甲斐の山を越えて生糸を運ぶ甲州商人たちは、新しい時代への移り変わりを感じながら、草木がなびくように横浜へと向かったのである。

 ところで明治20年代末になると甲州財閥の名が浮かび上がってくる。これは甲州(山梨県)出身の一群の事業家を総称したものであり、三井・三菱・住友財閥などとはちがい、系統や系列はまったくない。甲斐はまさに一国天領であり、藩主のような中心的存在がなかったために、政治上の藩閥もつくられず、型破りの野武士のような経済的集団がつくりあげられていった。こうした郷党意識で結ばれた甲州財閥は、やがて明治から昭和にかけて財界で一大勢力を占めるような実業家を輩出した。その代表的な人物には若尾逸乎や雨宮敬次郎、根津嘉一郎らがあげられる。

 

 参考資料……塚原美村『行商入の生活』

 ……小林剛『甲州財閥』 

 ……石井孝『甲州屋文書』 

 ……伊東弥之助『杉本茂十郎の研究』他参照。

   (むらかみ・ただし=法政大学教授)






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最終更新日  2021年04月23日 18時46分31秒
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