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2019年04月29日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

明治に初めての山梨の工女スト

 明治から大正、昭和の戦前までは、工場で働く女子労働者は工女とか女工と呼ばれていた。戦時中には女子工員といわれたが、工女や女工という古い言葉はかなり蔑みの響きを持つものであった。多くは家が貧しいために働きに出た人びとで、今日の「職場の花」やオフィス・レディーにとっては、工女たちがかつてのわが国資本主義の中心に位置した繊維産業のにない手だったと聞いても、あまりピンと感じないであろう。
 繊維産業も明治のとろは、生糸をつくる製糸が主であり、足を使う足踏み練糸器の時代から動力製糸機の時代へ進んだとはいえ、結局は工女の手先の技術に頼る面が大きかった。生産量をあげ、良い品質の糸を出号フとすれば、幼稚な機械では頼みにならなかったのだ。
煮繭と練糸が分化したのは大正に入ってからで、元は狭い工場の中で一緒くたに作業が行なわれた。製糸工女は忍従の生活を強いられ、どこからも保護を受けることなく死にもの狂いで働かされた。親が受け取った五円か三円の前借を返す日をめざした者もあり、彼女たちは労働史上に無数の悲劇を残した。
 ところが、明治十八年(一八八五)八月に甲府の製糸工場で、工女が結束してストライキを起こした。当時の『山梨日日新聞』によれば、支配人が若い寡婦や顔の綺麗な工女には前借を承知しながら、亭主持ちや顔が悪い者が頼んでもよい返事をしないので、その不公平を怒った工女は誰いうともなき動議に賛成「お竹さんも、お松たちゃんも約束を破つてはいけませんよと、かたく約束を定め、その朝製糸工場の笛声あがるも誰一人よりつくものなし」
と、なった。権利闘争より前の争議であっても、これが新開にあらわれた最初の工女ストで、不況に襲われていた工場側が前借を引き締めたことに原因したようである。
 翌年は東京などの職人や紡績の男工が争議に走った中で、六月には甲府の雨宮製糸工場で百余人の工女が寺へ集まり、待遇改善のストを決行した。製糸業者が組合を設けて、工女の作業開始を午前四時三十分、終了時間を午後七時三十分とし、昼食時間三十分をはさむだけで十四時間の労働時間内は水一杯飲むことさえできなかったという過酷な条件に、娘やおばさんたちが反発したものである。このストは他の工場にも伝染して行き、業者側もストに加わった者は雇わないという組合の規制を強めたりして対抗の姿勢を示した。人はいくらでも欲しいといった時期を通りこすと、雇われる方が弱くなり、のちに起こった工女ストはたいてい工女側の惨敗に終わった。
 そして、大正、昭和の不況時になると、長野県の岡谷・諏訪地方に集中した製糸工場へ山梨県の22農村から働きに行った娘たちが、盆休みや正月休みにも帰りの旅費をもらっただけで帰郷するときもあった。
 そのような問題は、もはや再びは起こらないと見てよいが、お竹やお松という名で代表される工女の哀史は、働く同性の人びとに忘れられてはならないだろう。通信網の発達しない明治を思うと、日陰にあって已むに已まれぬ要求を出した工女の争議は、実際にはもっと多かったにちがいない。






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最終更新日  2021年04月23日 18時28分47秒
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