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2019年04月29日
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芭蕉は甲斐に何時何処へ来たのか その時素堂は

 

文献の紹介 『俳聖芭蕉』 野田要吉先生(野田別天楼)昭和十九年発行

文中引用資料

◆『枯尾華』 

◆成美の『随斎諧話』 

◆成美の『随斎諧話』 

◆湖中の『略伝』 

◆『蓑虫庵小集』 

◆「素堂文集」

◆『枯尾華』 

◆『続深川』  

◆『赤双紙』

 

〔芭蕉の甲斐落ち〕

  天和時代の芭蕉

 《前文略》

其角の枯尾花に芭蕉庵急火に依り、芭蕉は潮にひたり苫をかつぎて煙のうちを逃げ延び「是ぞ玉の緒のはかなぎ初也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して」と云ってみるが、芭蕉はこれより前に、俳頂禅師に参じて悟道の修行をしていたのだから。世蕉庵の焼失に遇ひて、始めて「猶火宅モの変を悟り、無所住の心を発して」といふ譯でもあるまい。しかし芭蕪庵の焼失は芭蕉に「無常迅速生死事大」の念を一層深からしめたに違いなかろう。芭蕉庵焼失を十二月廿八日の大火の時とすれば、やがて年も暮れ果てゝ佗しいうちに天和三年を迎へた事であろう。杉風、卜尺など物質的に芭蕉を援護していた門人達の家も多く類焼したのだろうから、芭蕉は真に身を措くに処なき思いであったろう。されば焼野の原となった江戸を逃れて、甲州落となったのである。

 《芭蕉庵の甲州落》

後年のことであるが、金沢の北枝が火災に遭った見舞状の中にも、

「池魚の災承り、我も甲斐の山里に引うつり、さまざまの苦労いたし候へば、御難儀の程察し申候」と芭蕉がいっている。

 

◆ 『枯尾華』に

  「其次の年夏の半に、甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければ」

といっているが、其角は芭蕉庵焼失を天和三年としているから、その次の年は貞享元年となるわけだが、これも誤りであって、芭蕉の甲州行は天和二年(?)の事である。

 

◆成美の『随斎諧話』

  芭蕉深川の庵池魚の災いにかゝりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平というものをあるじとす。六祖は彼ものゝあだ名なり。五平かって禅法をふかく信じて、仏頂和尚に参学す。彼もの一文字だに知らず、故に人呼んで六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしと見えたり。……

 とあり、

◆湖中の『略伝』には

 深川の草庵急火に、かこまれ殆あやぶかりしが(中略)その次の年佛頂和尚(江戸臨川寺住職)の奴六祖五平と云(甲州の産にして、仏頂和尚竹に仕へ大悟したるものものゝ情にて甲斐に至り、かの六祖が家に冬より翌年の夏まで遊されしとぞといひ、

 一説に、甲州の郡内谷村と初雁村とに久敷足をととゞめられし事あり。初雁村の等力村萬福寺と云う寺に、翁の書れし物多くあり。又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後かの姉の許へ杉風より添書など持れて行れしなるべしと、云う。……

とも云っている。

これ等の説悉くは信ぜられないが、芭蕉が参禅の師仏頂和尚の奴六祖五兵衛といふもの甲斐に国に居り、彼をたよりて甲斐の国に暫く杖を曳かれたといふ事は信じてよいようだ。五兵衛のことはよく分らぬが、眠に一字なきにも拘はらず、禅道の悟深かりし故六祖といふあだ名を得ていたものらしい。

六祖はいふまでなく、慧能大鑑禅師のことで、眼に文字無かりしも、菩提本非樹、明鏡亦非臺、本来無一物、何処惹塵埃。の一偈によりて五祖弘忍禅師嗣法の大徳となった。六祖の渾名を得ていた五兵衛と同門の囚みに依って、芭蕉は甲斐の国に暫く衣食の念を救われたのであった。

 

◆『略伝』

甲斐の国には芭蕉門下の杉風の姉が住んでいたといふ『略伝』の説が事実とすれば、一層好都合であったろう。なお甲斐の国は芭蕉の俳友素堂の郷国であるらしい、素堂が何ら後援をして、芭蕉を甲斐の国に一時安住の地を得しめたのではないかと、私は臆測を逞うするのであるが、単に臆測に止りて、之を実証するに足る文献の発見されないのは遺憾とする所である。

甲斐の国に芭蕉の居ったのは約半年位のことゝ思はれる。

 

◆『蓑虫庵小集』

その間芭蕪は高山麋塒、芳賀一唱等と三吟歌仙二巻を残して桐雨の『蓑虫庵小集』に採録している。

夏馬の遅行我を絵に見る心かな    芭蕉

  変手ぬるる瀧凋む瀧         麋塒

蕗のに葉に酒灑の宿黴て       一唱    

 

◆芭蕉庵再建(「芭蕉庵再建勧化簿」)

甲斐に佗しい日々を迭っていた芭蕉は、天和三年の夏五月に江戸に帰った。江戸にいた門人等の懇請に依ったものであろう。大火後の江戸の跡始末も一片付した頃である。芭蕉は江戸に帰りはしたが、芭蕉庵は焼失していたし、門人の家などで厄介になっていたかも知れぬ。芭蕉の境遇に門人達はけ大いに同情したであろう。そこで有志の物が協力して芭蕉庵を再興することになった。その勧進帳の趣旨書は山口素堂(信章)が筆を執った。

成美の『随斎諧話』に

上野館林松倉九皐が家に、芭蕉庵再建勧化簿の序、素堂老人の真蹟を蔵す。所々虫ばめるまゝをこゝにうつす。九皐は松倉嵐蘭が姪係なりとぞとして次の文を載せている。

 

芭蕉庵庵烈れて蕉俺を求ム。(力)を二三子にたのまんや、めぐみを数十生に侍らんや。廣くもとむるはかへつて其おもひやすからんと也。甲をこのます、乙を恥ル事なかれ。各志の有所に任スとしかいふ。これを清貧とせんや、はた狂貧とせんや。翁みづからいふ、たゞ貧也と、貧のまたひん、許子之貧、それすら一瓢一軒のもとめ有。雨をさゝへ風をふせぐ備えなくば、鳥にだも及ばす。誰かしのびざるの心なからむ。是草堂建立のより出る所也。

  天和三年秋九月竊汲願主之旨

 濺筆於敗荷之下 山 素 堂

 

「素堂文集」の文とは多少の異同がある。かやうにして芭蕉庵再建の奉加帳が廻されたので、知己門葉々分に応じて志を寄せた。

その詳細が『随斎諧話』に載っている。やゝ煩わしいことではあるが、転載して当時を偲ぶよすがとする。

協力者名

五匁 柳興

三匁 四郎次  

捨五匁 楓興

四匁 長叮

四匁  伊勢 勝延  

四匁  茂右衛門

三匁  傳四郎

四匁  以貞 赤土  

壹匁  小兵衛

五分 七之助

二匁  永原 愚心  

五分  弥三郎

五匁  ゆき

五匁  五兵衛  

二匁  九兵衛

四匁  六兵衛

三匁  八兵衛  

五分  伊兵衛

二匁  不嵐

一匁  秋少

二匁  不外

一匁  泉興  

一匁  不卜

一匁  升直

五匁  洗口  

五分  中楽

五分  川村半右衛門

一銀一両  鳥居文隣  

五匁  挙白

五分  川村田市郎兵衛

三匁  羽生 調鶴  

五分  暮雨

 

 次叙不等

二朱  嵐雪

一銀一両  嵐調  

一銭め 雪叢

三匁  源之進

一銭め  重延  

よし簀一把  嵐虎

一銭め  正安

五分  疑門  

一銭め 幽竹

五分  武良

二匁  嵐柯  

一匁  親信

 (不明) 嵐竹 五匁 (不明)  

破扇 一柄 嵐蘭

大瓠 一壺 北鯤之

 

◆『枯尾華』 

かやうな喜捨によって、芭蕉庵は元の位置に再建された。再建の落 成は冬に入ってからのことであたろう。『枯尾華』に、

 「それより、三月下人無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしばし、人々うれしくて、焼原の舊艸にに庵をむすび、しばしも心とゞまる詠にもとて、一かぶの芭蕉を植たり」

   雨中吟

芭蕉野分してに盥を雨を聞夜哉   (盥=たらい)

と佗られしに堪閑の友しげくかよひて、をのづから芭蕉翁とよぶことになむ成ぬ。……

と云っている。再建の芭蕉庵にも芭蕉を植えたことは当然と思はれるが、「芭蕉野分して」の句は焼失前の作であること既に述べた通りであり、芭蕉翁と呼んだのも焼失前であった。

◆『続深川』によれば、

ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて

   あられきくやこの身はもとのふる柏

  といふ芭蕉の句がある。再建入庵後程なき頃の吟であろう句意は解すみまでも無かろう。

 芭蕉は約半歳ほど甲斐の山家に起臥していたのだが、その間の句が余り聞えていない。芭蕉庵俵鏡失といふ非常事件に遭遇し「猶火宅の変を悟り、無所住の心を発して」とまで云はれているのだから、悟発の句といふやうな優れた作があるべきだと思はれるのだが、それらしいものが傳っていない。前に奉げた麋塒、一唱と三吟歌仙の立向

夏馬の遅行我を絵に見る心かな    芭蕉 

は甲斐に行く途中吟と云はれている。夏の馬に乗って徐行してみる自分を畫中の趣と感じたので、旅路を楽しむゆとりの見える作ではあるが「夏馬の遅行」はふつゝかな言葉である。この句は風国の『泊船集』に「枯野哉」と誤っている。叉松慧の◆『水の友』に「画賛」として、

  「かさ着て馬に乗たる坊主は、いづれの境より出て、何をむさぼりありくにや。このぬしのいへる、是は予が旅のすがたを写せりとかや。さればこそ、三界流浪のもゝ尻、おちてあやまちすることなかれ」

馬ほくほく我をゑに見る夏野哉

となっている。これは後年に至りて芭蕉が自ら改作したものであろう。

◆土方の『赤双紙』に

はじめは

夏馬ほくほく我を絵に見る心かな

といっている。兎に角改作したもので、

馬ほくほく我は絵に見る夏野哉

は蕉風の句である。

  勢ひあり氷えては瀧津魚   芭蕉

この句は麦水の『新虚栗』に出ている。何丸の『句解参考』には

 「甲斐郡内といふ瀧にて」と前書があり

  勢ひありや氷杜化しては瀧の魚

  勢ひある山部も春の瀧つ魚

 を挙げて、初案であろうといっている。瀧が涸れて氷柱になり瀧壺も氷に閉ざされていたが、春暖の候になりて氷も消え、瀧登りする魚も勢ひづいたといふのであろう。語勢の緊張した、豪宕な句ではあるが、どことなく談林の調子の脱けきらない、寂撓りの整はない句である。

◆『虚栗集』

芭蕉が甲斐の山家から江戸に帰ったのは、天和三年五月であったが、程もなく其角撰著の『虚栗』が板行された。

芭蕪の政の終りに「天和三癸亥仲夏日」とあるから、五月の筆である。六七月頃に板行したのであろう。其角二十三歳の時である。その早熟驚くべきである。云々






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最終更新日  2021年04月23日 18時26分19秒
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