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2019年04月29日
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カテゴリ:山縣大弐

山県大弐の歴史 処刑後の遺骸

 

大弐の処刑されたのは明和四年の八月二十二日でした。

捕えられてからー年が過ぎていました。一般では、鈴カ森で処刑されたといわれていますが、実際に死刑が行われたのは伝馬町の獄舎の庭でした。鈴カ森に獄門されたのは、大弐ではなく藤井右門の方でした。

 大弐が死罪になるのを待って、弟子の小泉養老が遺体を引き取りました、養老は、役人に小銭を与えて大弐の遺骸を貰い受けると、駕籠屋を雇って四ツ谷の全徳寺に運んで埋葬しました。頚を運んだのは、尾張の医師渡辺松庵と弟の亮庵、それに、小泉百が加わりました。みんな大弐の弟子たちでした。風とともに雷雨が吹き荒れる夜、番所役人に金五両を与え、大弐の首を買い受けました。三人は駕籠を雇って、常陸の国筑波山の麓に埋めました。

 やがて大弐の首は、やはり大弐の弟子だった、地元根小屋の郷士ヽ園部文之進により、文之進の菩提寺である泰寧寺に葬られました。

  栄良雄居士

 文之進が、住職に頼んでつけた大弐の戒名です‘

それからしばらく過ぎたある年の日、この泰寧寺に、旅の母子二人か訪れてきました。大弐の別れた妻多可と、その息子の長蔵でした。一人は、大弐の墓に線香を立て、花を供えてから住職に永大供養を納め、大弐の供養を依頼しました。そしてその日に江戸に向い全徳寺を探しましたが、やっと見つけた寺はすでに廃寺になっていました。大弐の墓は、近くの全勝寺に移されていたのです。そこは、大弐の妹夫婦の墓のある斉藤家の菩提寺でした。多可は、墓前に長蔵を立たせ、父の偉大さを語り聞かせ、これからの心構えをさとしたといわれています。

  俊昌院卓英良雄居士

 全勝寺にある大弐の戒名です。病死した大弐の先の妻の墓も並んでいました。

 多可は、長蔵を連れて大弐と一緒に過ごした永沢町にいき、大弐塾があった高林寺にもお参りしました。それから、わずかな間でしたが、大弐と暮らした安兵衛長屋にも長藏を連れて行き、家主に再会し、世話になったお礼をいいました。









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最終更新日  2021年04月23日 18時24分57秒
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