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2019年04月29日
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カテゴリ:山縣大弐

山県大弐の歴史 もう一つの山県家

 明和事件は、平和な江戸に大きな波紋を広げ、やがては王政復古の大波をくねらせて、明治維新への道をたどるのですが、それにはまだ時間がかかりました、

 それはそれとして、多可と長蔵のことにもう少し触れてみましょう。

多可は、長蔵とともに大弐の墓参りをすませたあと、医師の今村重兵衛と子連れで再婚しました。今村という人は大変やさしい人で、長蔵を実子のように可愛がり、長順と改名させ自分の跡を継がせて伊勢崎藩の領主、酒井公の侍医に勤めさせました。

 長順は山県大弐の血を受けていましたから、まれに見る秀才で藩主の信望も厚かったといわれています。

やがて長順は結婚し何人かの子が生まれました。そのうち男の子が四人いましたが、揃って秀才で世間を羨まらしがらせました・わけても三男の亮と四男了庵は、医学、文学に優れ、父の後を継いで酒井家に仕えていました、

やがて、時代は動いて幕末になり、大弐の理想だった王政復古の嵐が吹き荒れるようになりました。吉田松陰は山県大弐の「柳子新論」に影響され、時代の動きに敏感でした。

そして徳川幕府は倒れ、明治維新を迎えることになりましたが、長順の子供たちは優れた学者でしたから、そのまま明治政府に召し抱えられ、それぞれの道に尽くしました。わけても三男の亮は、東京帝国大学が創設されると同時に、医学部の教授になりました。

やがて外務省の高官になり、外交問題の専門家としても活躍されました。

 亮は、自分が山県家の血を受けていることに誇りを感じ、明治十九年に四ツ谷の全勝寺に「山県柳荘之碑」を建立しました。

そればかりではなく、山県の姓に戻ることを念願にして、大弐の先妻の子で斎藤を名乗る好春の子孫を探し求め、ようやく探し当てた斉藤まさの許しを得て、孫の昌蔵に山県家の姓を名乗らせることにしました。

 「山県柳荘之碑」は、戦災で崩壊し現存しませんが、大弐の墓は全勝寺の斎藤家の墓に今も残っております。また、多加が受け継いだ山県家の血筋は現在でも栄えて保ちつづけています。









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最終更新日  2021年04月23日 18時25分29秒
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