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2019年04月29日
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カテゴリ:山縣大弐

山県大弐の歴史 それぞれの結末

 

明和事件は多くの人を死に迫いやり、獄に送りました。余分なことのようですが、大弐の偉大さを知るためにも、事件に関係した主な人物の結末について、簡単に述べてみたいと思います。

 まず、大弐塾に居候していた藤井右門ですが、逃げる途中捕らえられ奉行所に閉じ込められました。右門は京都か正親町三条家の家来という触れ込みでしたから、はじめは幕府も遠慮していましたか、大弐逮捕と同時に捕縛され、厳重な取り調べの後獄門の刑に処せられたあと、死後鈴カ森に晒し首にされたのでした。

 つぎに竹内式部です。式部も宮家に関係のある人でした式部は大弐より罪が軽いため遠島を申しつかり、明和四年十一月二十口、八丈島に送られましたが、途中食べ物による中毒を起こし病気になり、やむなく三宅島に上陸させられ、治療を受けていましたが、十日ほど患っただけで亡くなりました。五十六識でした。

 そして兄の山県昌樹です。瞰王新町の酉姓の跡を継ぎ、市郎左衛門を襲名して百姓に姿を変えていましたが、大弐の事件に巻き込まれ逮捕されました。罪状には、人別帳には百姓市郎左衛門と届けなから、外に出るときは山県斎宮(いつき)を名乗り、刀を差して歩くなどは不届きである。また、大弐に便宜を学えたことについても宜しくないと書かれています。

晶樹は、所払いによって、竜王新町を去り、駿河に移って渡辺正庵を頼っていましたが、後に清水に移り、学者として多くの門弟を育てていました。

また、安永二年八月、大弐の七年忌を機会に、大弐の墓を甲斐の国篠原村金剛寺に移しました。

 昌樹は生涯独身で過したと伝えられています。斎宮と号した昌樹は、七十九歳まで生きて、寛政十一一年四月七日、駿府にて病没しました。遺骸は、駿河の丸子駅在といいますから、静岡市赤目ケ谷の辺りでしょう。長源寺に埋葬されました。

 しかし、その後篠原村の住職が、長源寺から分骨し、金剛寺に移して野沢家の墓に祀りました。









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最終更新日  2021年04月23日 12時25分43秒
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