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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月29日
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北杜市の先人 河西素柳・河西儀七郎 白州町下教来石出身
『文学と歴史』弦間耕一氏著より 一部加筆
 
私は和算をこの『文学と歴史』に、執筆しはじめた昭和五十六年頃から機会ある度に、郷土史家の人達に算額を見たことはありませんかと、執拗に質問をしてきた。
しかし、期待はいつも裏切られていた。算額は現存しないと、諦めかけていたが、それでもと思い直して、法政大学の大学院を出られた安達満先生(高根町)に、お伺いしたところ
高根町西割の熱神社に、算額があるという話を、聞いたことがある」
と、教えてくれた。本当に算額があってくれればと祈るような気持で、昭和五十九年六月九日に車で熱那神社に向った。そこには正真正銘の算額があった。
 熱那神社は旧郷社の社格を持ち、村山西割、村山東割、村山北割、小池、蔵原、箕輪、同新町、堤、五丁田の総社として、広い地域に亘って氏子と崇敬者を有している。
 祭神は誉田別命、足長彦命、気長足姫命である。この神社は、熱那大神、神部神社、熱那総社、八幡社などの社号を持ち、かつては、北巨摩郡高根町村山東割にあったものを、現在地に遷座した。現鎮座地は高根町西割宮地一七一四番地である。
 甲斐源氏の総氏神して、逸見谷戸城にいた、清光が厚く崇敬し、当社より年々城内にあった八幡社へ、神事が出される。社殿造営や修復に武田氏があたり、当社の紋章は、そうした武田家の由緒により割菱を用いている。
 峡北きっての由緒を持つ、この熱那神社へ算額を奉納することは、氏子である坂本彦左衛門、深沢佐兵衛、植松正尚、小宮山貞清にとっては、大変な名誉であった。
 巨摩郡教来石村の河西儀七郎にとっても、異論のないところであったであろう。
 算額を奉納した明治三年には、熱那神社八幡宮という社号でよばれていた。
 

河西儀七郎 白州町下教来石(高根町西割「熱那神社」の算額の項)

 ―甲州の和和算家
『文学と歴史』弦間耕一氏著 昭和60年 文学と歴史の会発行
(抜粋 一部加筆)
算額を奉納するに当って、世話役をした人物はおそらく河西儀七郎だと思われる。この儀七郎は、甲州道中教来石(白州町)の本陣で問屋を兼帯した河西家一族の一人である。儀七郎の教来石村は、明治二十年の火災で一村が羅災し豪農の河西家も焼失している。
 河西家は焼失前に明治天皇が立寄られた所として、「山梨県聖蹟」の指定を受けたが、羅災後は、長野県小県郡県村大字田中百十六番地に、一時転移した。それに河西家の蔦木(長野県富士見町)にある菩提寺も焼け、古い過去帳はない。そんな経過の中で、白州町役場の戸籍係の人に、除籍簿で儀七郎を調べてもらったが判然としない。
河西家は、大家という屋号で呼ばれ、全盛期は村中の面倒を見たと伝えられる。この河西家を北巨摩郡教育会の『北巨摩郡勢一班』で見ると。

河西九郎須

鳳来村教来石に河西九郎須といふ武田浪士があった。代々の主人通称を九
郎須と唱へたが数代前の九郎須、江戸深川に居り材木商を営み巨万の富を致し、江戸の長者番付に載録せられた。
右にみるように、江戸の長老番付に名前が載る程の富を手にした。その財力を物語るものに、河西家の屋敷神や屋敷墓が旧跡に残っている。私と教来石へ調査に同行した郷土史家の中村良一氏
「こんな豪壮な屋敷神は、見たことがない」(現存しない)
と、驚嘆のことばをもらした。その石宮には、寛政九年(1797)江戸店とか、安永九年(1780)河西氏再建之と記録されている。
 屋敷墓地は、およそ広さは三十坪程ある。そこには、立派な墓石が二十数基並んでいる。なんと下男・下女の墓碑もある。河西家一族の俗名には、六郎・宮八・九郎須など、郎の付く名前が多い。儀七郎とある墓石を発見することはできなかったが、六郎の次に儀七郎・富八・九郎と続く感じがした。

河西素柳 『北巨摩郡勢一班』

 儀七郎の学問的背景であるが、河西一族からは、俳人の素柳が出ている。
 幼少より和漢の学を修め茶道、活花、謡曲等風流の余技を学んで何れも奥秘を究め、俳諧は外の酒落を慕ふて従遷し四方の文士と交遊した。嘉永二年(1849)八月、三十四歳を一期として遠逝した。
曙の動き初めや梅の花 鴬の疎まるゝ日はなかりけり
葉の影をすみて日の照る清水哉
嵐外恩師の五七日に、
夏来ても何をか露の忍ぶ草
居るほどの窪たみ持ちて冬の鳥
等が世に伝わる吟詠である。
これは『北巨摩郡勢一班』に載る俳人、素柳である。
 儀七郎は、河西家の家督を相続した素柳の弟に当たる人物であろう。

河西家は『県政総覧』

によると「河西私塾 下教来石の人 河西文五郎とか、河西九郎須、文化年中より明治に至るまで、御家流の教授をなした」
と、ある。
 幕末から明治期にかけて、峡北きっての豪農でしかも私塾を経営した河西家から、儀七郎のような人物が輩出するのは、不思議ではない。それに街道で本陣を勤め、問屋であったから、算額は、お手のものであった。お手のものと書いたが、算額は日常的、実用性を離れているので、儀七郎にも和算の師匠がいたであろうが、その点は明らかでない。
 信濃は和算の盛んな所であったから、信濃関係を探ったが、儀七郎は出てこなかった。和算の研究に一生を捧げ『信濃の和算』を出版された赤羽千鶴先生にも照会したが、峡北地方、特に教来石村は、信濃と近接しているが、和算の交流はないとの御返事であった。
 ただし、諏訪の和算家伊藤定太へ、明治十一年一月巨摩郡豊村斎藤重松が入門していることが判明した。
 算額を奉納した人達がだれに、和算を学んだかについては、今後の課題である。





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最終更新日  2021年04月23日 06時32分55秒
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