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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月29日
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韮崎市の偉人歌田靭雄 (うただゆきえ)

『郷土にかがやく人々』財団法人 青少年育成山梨県民会議 坂本徳一氏著
一部加筆

略歴

 
安政元年(一八五四)北巨摩郡下円井宇波戸神社・神官・歌田昌保の長男として生まれた。生年月日は不明。
通称靱雄、少年のころ徳太郎とも呼ばれた。のちに稔と改名する。諱は有誠または兵部。
文久三年(一八六三)、九歳の靭雄、武芸・神道・国学・和漢の修学のため今の甲府市の御崎神社の宮司で心形刀流剣法指南の水上貞道に預けられる。
倒幕、王政復古の機運高まり世情騒然となる。
慶応四年(一八六八)三月三日、東山道軍先鋒参謀板垣退助以下土州・因州の官軍六百人余りが入甲。同月八日、水上神官のあっせんで十五歳の靱雄、官軍に入隊、神官、郷土で結成した断金隊に参加して江戸へ向けて出発、奥州征伐に加わって会津城攻略の最前線で戦う。
落城とともに江戸に帰り、
翌明治二年二月、任務を終えたあと神田大和町の井上頼圀の門下に入り、さらに弘道館に学ぶ。二年間の学習を終えて故郷に帰り、
明治六年九月、門井学校の訓導に任ぜられ、ついで校長になる。
翌年宇波刀神社四十七代の神官、八幡社神官および学務委員となる。
 明治九年三月、在家塚村(現白根町)の斎藤さいと結婚、
同年十月、山梨県庁第二謙一等付属に任官、藤村紫朗知事に仕える。
同九年八月、静岡裁判所甲府支庁書記局員を兼務する。養蚕振興を目指す県は執雄を商品評会審査委員に命じ、各郡市を回って優良繭生産を督促した。
 明治二十年五月、県庁を辞した靭雄は、円野、清哲、神山連合の戸長(准判任十等、年俸百四十円)に任命され、
二十二年二月、円野村の初代村長に任命された。
ついで二十六年六月、北巨摩郡選出の郡会議員となる。
断金隊の最年少の隊士だった靱雄は、帰郷後村から一歩もでることなく、ふるさとの子弟の教育に努め、質実剛健の気風をもたらした。本名を稔と改めた壮年期をへて、三男二女の父となったが、
明治三十一年、長女朝が二十二歳で病歿してから稔は気力を失い、
同三十五年四月十五日、甲府市泉町の自宅でロク膜炎を患い、数え年四十九歳で病撤した。神式によりおくり名を鏡足可美珍彦命(ニヒタラシウマシウズヒコノミコト)とし、甲府市愛宕町の長禅寺に埋葬した。下円井の歌田家の畑地にも墓がある。

偽勅使事件 小沢雅楽助(うたのすけ)

 天領の甲州に住む人たちの多くは、はげしく移り変わる幕末の動乱期をどうとらえていたのだろうか。
 官軍とは、どういう組織でなんのために幕軍と戦うのか…その意味をのみ込んでいた甲州人は、ごく限られた有識者だけだった。
 貧乏にあきあきしていたから世の中がひっくり返るような大事件が起きればいい…と世直し大明神に願をかけたとたんに官軍が攻め込んでくるという情報が町から村へ流れ込んできた。
(いよいよいくさが始まるぞ-)
 緊迫した空気が甲府の城下町に漂ったのは慶応四年の新年を迎えてからである。殊に甲府城の甲府勤番支配の佐藤駿河守信崇(ただ)以下勤番士とその家族に狼狽ぶりは目に余るものがあった。
 同じく徳川三百年の余慶にあずかってきた甲府の町人と職人、近郷の名主級の支配者たちである。逆に官軍の蜂起に欣喜雀躍したのは菊のご紋をいただく神官たちである。
 慶応四年二月一日、官軍の先発隊として信州・諏訪口から甲州の台ケ原に到着したのは勅使高松皇太后宮少進(実村)の後見役小沢雅楽助(うたのすけ)以下二十人であった。
 黒ラシャの詰め襟の上衣に金モールつきのズボン、金びかの陣羽織に白い兵子帯をしめて大小の刀をはさんだ隊長格の小沢は栗毛の馬に乗り、白布に「鎮撫」と善かれた肩章をつけていた。年のころ二十七、八歳の精かんな壮士であった。

出迎えた近郷の名主、神官らに対し

一、甲斐国中武田信玄公ノ旧政ヲ復古シ一国別制ヲ免許ノ事
 一、大小切卜唱候金納免許ノ事
一、甲金二十万四両追々廃絶ノ所、今度吹替通用免許ノ事
 一、武田浪士ノ儀ハ此度勤皇相励ミ、就而ハ向後其住所ニ於テ石高下サレ北
面ノ武士同様オ取立ノ事
 このほか
・「金銀桝秤講座免許」
・「名主、長百姓諸役免許」
・「コノ年二限り年貢米ハ半収納ニテ、半納ノ分米ハ百姓・共へ下シ置カレ候事」
など十カ条の恩典を書いた条目を示し、金沢宿から甲府に至る宿々に対し、人足五人と宿駕龍一挺の調達を命じ、その日の夕方、韮崎本陣に着いた。
 武田滅亡以来、徳川の圧政に苦しんできた甲州人を味方にするため、武田信玄の旧政を復古し、官軍に加わった浪人、神官には官軍と同等の資格を与えるという好条件の十ケ条に乗せられて武川筋の白須村若宮八幡、折居村の八幡宮、下条中割村の丸林神明宮の神官を除くすべての神官が集まって韮崎宿の本陣に訪ねて甲府へ同行することを願い出た。その中に下円井村の宇波刀神社の神官歌田昌保がいた。靱雄の父である。
 二月三日、小沢雅楽助一行が甲府に入り、尊体寺に着陣、甲府勤番支配の佐藤駿河守を呼びつけて甲府城明け渡しを申し入れた。佐藤は「私一存では返答申しかねる。暫時、江戸の指示を仰ぐまでお待ち下され」と、急使を江戸へ送り、その間、勅使二打を厚くもてなした。一週間後、江戸から大目付の棚錠之助…行三人が入甲、「戦火を交えず
穏やかに取り計らうようお願い申す」と上意を伝えた。
同じ日の二月十日、東海道鎮撫総督府所属の肥州藩の林恵右衛門、土州藩の黒岩治部之助ら三人が入甲、勤番支配、甲府町奉行らと会い、「われわれこそ本物の甲斐鎮撫の使者・小沢なる者は偽物でござろう」と激怒した。そこで翌十一日、幕府大目付、甲府代官立会いのもとに林、黒岩ら三人の鎖撫隊員と小沢らと対面し論争した結果、小沢らを偽勅使と断定した。
 この日、高松実村は甲府宿所の教安寺に到着したが、京都の中山前大納言から引返也との命令書が届けられて十三日早朝、実村、小沢一行は、旅装をととのえて甲州街道を西下した。怒り狂ったのは甲府の民衆である。雅楽助こと彫刻師小沢一仙とわかって引き返す一行に石を投げ、罵声を浴びせた。
小沢一仙は二月十八日、韮崎宿で逮捕され、一行に加わった神官の歌田昌保らに逮捕状が出た。昌保らは捕吏の目をかすめて山林に逃げ込み、身を隠した。
 官軍の朝敵征伐の道具に使われた小沢一仙は三月十一日、山崎の刑場で首を刎ねられ、その首は三日間荒川の河原に曝らされた。それとは裏腹に高松実村は「維新のさい、大いに功あり」として明治十七年、華族に列し子爵を授けられた。
 この偽勅使事件のあった翌月の三月四日、東山道軍先鋒支隊の土州軍大隊司令の板垣退助(旧姓乾退助)が約一千五百人の官軍を統率して甲府城に無血入城した。

靱雄、十五歳で官軍入隊

この物語の主人公の歌田靱雄は、板垣退助の甲府入城に始まる。父昌保が偽勅使事件に巻き込まれて捕らわれる身であることを知ったのは二月十九日、その時、靱雄は甲府・御崎明神社の神官水上中務貞造の塾生として道場に住んでいた。数え年十五歳であった。
 靱雄の家は代々白川神祇伯家、卜部神道管領家に仕え、公卿の日野家とも縁故が深く、いまの山梨市歌田の領地を有していたことから歌田の姓を名乗り、諏訪大明神兼武神官として、いまの韮崎市円野町下門井の宇波刀神社の神官を継ぎ、靭雄は四十七代目を継ぐ神官として水上道場で文武両道の修行を重ねて五年目の春を迎えていた。
 靱雄は恩師の水上貞道に伴われて甲府城に駐とんとする板垣退助と会い、
官軍入隊を許されたのは三月八日、筋骨隆々として背丈も大きい靭雄は、どこからみても十七、八歳の若者にみえた。
この日、退助は官軍志願の靱雄に「何歳になる?」と聴いた。靱雄はためらわず「十八歳です」と答えた。恩師とは事前に打ち合せていた偽りの年齢である。三つ年上の十八歳と答えても退助は、すこしも疑念を抱かなかった。靱雄の家柄については先生から詳しく紹介し、「人物は保証する」と申し添えた。
退助と貞造は、かつて江戸お玉ケ他の千葉道場で剣の道を学んだ同期生で道場では腕を競い合った旧知の間柄であった。退助の入甲と同時に甲府城に参上して退助と会い、旧交を温めた。
官軍入隊を即座に認められた靭雄は、忠誠を誓う血判をして城を出た。その日、甲府から約二十キロ離れた鳳凰山麓の下円井の実家に向けて足を急がせた。正月の帰省以来三カ月ぶりの帰郷である。
 逮捕を免れた父昌保と母の伊登、それに妹や弟たちに暇乞いするための帰郷であった。
 (これが最後の帰郷になるかもしれない)
 敏雄は漠然と、死を考えながら足を早めた。
官軍入隊と聴いて両親は複雑な面持ちで靭雄を出迎えた。ことの経緯を聴いた父昌保は「父の分までご奉公してくれ」と励ましたが、まだ十五歳の若輩の身、果たして戦場で役に立つのか…といった一抹の不安がよぎった。
その夜は家族水入らずで別れの宴を開き、叛雄は早目に床に就いたが、息子の出陣を前に夜遅くまで旅支度の縫いものをしている母の息づかいが伝わってきてなかなか寝つかれなかった。
九日の朝、ゆっくり体を休めて午後、家族や近所の人たちの見送りを背にして家を出た。
「武運を祈る」とひと言、秋雄を励まして奥座敷に消えた父の姿がいつまでも執雄の脳裡に焼きついて離れなかった。
甲府の上水道場についたのは夕暮れどき、靭雄の晴れの首途を祝い、門↑生も加わって壮行会が開かれた。水上夫人は、出陣する靭雄のために衣服、陣羽織、武者わらじを撃えていた。
 十日丑の刻(午前二時)、貞道は靱雄を自室に招き、免許皆伝の目録を渡した。十五歳の年少者に皆伝の目録を伝授したのは後にも先にも靱雄ただ一人であった。余程帥には見込まれていたものと思われる。
午前五時、身を清め旅装を整えた靭雄は、五年の間世話になった水上家の人たちに厚く礼を述べた。貞道は出陣する靱雄に「もし、強敵と渡り合うときは、落ち着いて鍔元で敵を斬れ」と教え、道中、必要な印寵、矢立てに多額な旅費を添えて渡した。感涙する靭雄は即興の歌を声をからして吟詠した。
帥の君の教えのわざを御いくさの
場(にわ)に試めさん時は来にけり

断金隊に参加して出兵

 柏手と「万歳」の声に送られて水上道場を出た靱雄は、その足で甲府城に出頭、大目付役の大石弥太郎に謁見して入隊の手続きを済ませた。そのまま城内にとどまり、官軍に志願する神官、武田の浪士が集まってくるのを待った。城内で一夜を明かした執雄は巨摩郡小尾村の神官小尾宗義から「同行しなさい」といわれ、数人の浪人たちと一緒に城を出て、岩窪村の武田信玄公廟所に案内された。集まった浪士、神官は靭雄を加えて十三名だった。いずれも靭雄よりずっと年上の青壮年で父昌保の友人である初老の赤岡真常(まさつね)、蔦木盛政も加わっていた。
「われわれは武田浪士と兼武神官。これより浪士隊を結成し、板垣参謀の土州藩に所属して朝敵征伐に参加する」
小尾宗義のかん高い声が要害山にこだました。土州藩大隊が出発する前日のことであった。「断金隊」に参加した十三人の隊員の多くは北巨摩地方の神官と武田旧臣の郷士であった。その住所・役職・年齢は次のとおりである。
甲斐国巨摩郡小尾村神官 嚮導   小尾修理進源宗義 三十五歳
同国同郡大蔵村(須玉)神主 嚮導 赤岡五三太藤原宗長 
同国同郡五三太の父・神主 輜重衛 赤岡式部藤原真常 五十六歳
同国同郡浅尾村(明野)神主    赤岡兵部藤原光文 三十八歳
同国同郡上神取村(明野)神主   赤岡保丸藤原正高 二十三歳
同国同郡下円井村(韮崎)神主   歌田靱雄藤原有誠 十五歳
同国同郡牧野原村(武川)浪人   蔦木総四郎源盛政 五十八歳
同国山梨郡小河原村浪人      山下又吉源光茂 二十八歳
同国巨摩郡上円井村(韮崎)浪人  内藤幾右衛門源義成 三十八歳
同国同郡宮脇村(武川)旧臣    米倉善八源則重 二十九歳
                   米倉幸七源昌幸 三十六歳
同国同郡上石田村         中込巾郎左衛門澱重次 二十九歳
                   山川次郎源盛行 十九歳

「断金隊出陣日記」

 断金陽一行は
*三月十二日朝、土州藩大隊のあとに従って江戸に向けて出発した。同夜は石和泊まり。
*十三日は笹子峠を越えて黒野田泊まり、
*十四日は猿橋泊まり、
*十五日は小仏峠を越えて八王子泊まり。江戸の内藤新宿に到着したのは十六日の夕方であった。新宿で断金隊の命名は、尾州邸にいた東山道総督岩倉具視公がつけた。
*一泊して翌十七日、市ヶ谷の尾州邸に入った。ここで正式に断金隊が結成されたのである。
 歌田執雄が参加する断金隊の隊士たちに肩章、上着マンテル、下着ズボン、小銃が渡され、月三両の手当を与えられることになった。土州本陣となった尾州邸で疲れを休める暇もなく、非常召集がかかり、米倉幸七、内藤義成、歌
田の三人は旗本の彰義隊が攻めてくるという情報に基づき、奥州街道の探索を命ぜられた。
*十八日には靭雄ら三人は小山に到着した。この辺には彰義隊三百人ばりが布陣し、結城城を焼き打ちしたことがわかった。
 確実な状況をつかんだ三人は、そのまま引き返し、翌日、関宿から夜舟で下り、
*十一日、ようやく市ヶ谷の尾州邸に帰って上司に彰義隊の動きをつぶさに報告した。
 本隊に復帰した三人は、断金隊に属し、二十二日から五日間、邸内で小銃の撃ち方など近代戦法の心得えを実地に訓練を受けた。
 *三月二十七日、土州大目付役の美正貫一郎が断金隊長に命ぜられ、同時に執雄は隊長付使役を任命された。奥州街道の小山まで探索に出かけて冷静な判断で敵情を報告した秋雄の行動をみていた美正隊長は「信頼に値する若者」と見抜き、腹心の伝令役を命じたのである。
 *翌二十八日。断金隊に大砲隊が加わり、隊士たちは江戸市中の見回りと不審な行動を探索する任務に就いた。
 *四月九日、断金隊に八代郡中川村浪人小山田主水源昌則、二十四歳が新たに入隊を許可されて仲間に加わった。このほか使役として巨摩郡宮脇村の米倉丹三(二十一歳)が採用された。のちに丹三は七月、欧州棚倉の戦いで軍功をたて正隊士に編入された。
 *四月十一日、江戸城明け渡しが行われ、官軍入城、徳川慶喜は水戸へ退去した。だが、武士の面目にかけて官軍に徹底抗戦を続ける幕臣がいた。房総の結城にたてこもる幕軍に先発の長州軍の官軍が手を焼き、土州軍に援軍を求めてきた。
 *日、断金隊は土州軍に従って尾州邸の本陣を出発十五里(約六十キロ)の道を強行軍して栗橋に到着、敗走してきた長州軍を援けてその夜、古河城下にたどり着いたと同時に官軍が彦根藩兵との戦いで官軍が敗走したとい
ぅ情報を聴いた。しかも古河城主の土居利則を官軍への帰順をこばんでいると聴いた土州軍の村田牛郎は十九日、因州の宮木代歳、それに若輩の歌田靭雄を随い、古河城に乗り込んで城主に帰順を説得して従わせた。つぎに土州の浜田良作に従った秋雄は下野壬生城主鳥居忠宝の家老を説いて帰順させ、その夜は壬生城に泊まった。
 十九日、彰義隊は宇都宮城を占拠し、四日後の二十二日、因州勢の官軍が攻めて敗走させた。ここで土州軍が彰義隊と衝突、断金隊も彰義隊と戦った。土州軍は苦戦のすえ、敵を敗走させたが、この戦闘で土州隊長の大石利左衛門が戦死した。
 断金隊は奮戦の末、小銃十五挺を分捕った。宇都宮城の攻防戦で幕軍の戦死者百五十人、味方の死傷者は合せて二十一人だった、と靭雄は記録している。勒雄は、もっぱら隊長付で本部にいた。時折、上司から授かったドイツ製の双眼鏡を携えて敵陣近くしのび込み、敵の動きを刻明に調べて本部に引き返して上層部に報告する斥候の任務を勤めた。
 直接、敵と白刃を交えることはなかったが、敵小深く帝人する依令役は危険が伴う任務であった。いつ敵の流れ弾が飛んでくるか予測もつかないし、出合いがしらに敵と遭遇する危機をはらんだ忍者もどきの軍務であった。
 四月朔日、日光東照宮」に籠る幕府軍との対戦に参加した断金隊は最前線日光山に討ち入り敵とわたり合って敗走させた。この戦いで、のちに断金隊に入隊した臼井清左衛門が戦死した。この日断金隊は今市に宿営して千本木口を固めた。
 二十一日、今市の南関門の宇都宮街道から幕軍が改めてきた。約五時問応戦の末、辛うじて敵を破り、小銃十三挺、毛布七枚、刀七本、脇差五本を押収した。
 五月五日の節句は、靱雄が生涯で最も危機に曝された日であった。











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最終更新日  2021年04月23日 06時27分40秒
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