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2019年04月29日
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韮崎市穴山の偉人 伊藤生更(いとう・せいこう)

『山梨の文学』山梨日日新聞社刊
一八八四(明治17年)生まれ。一九七二(昭和47年)歿。

-「物事の真相」 日常の中に歌う

さぼてんの鉢を日なたに移しやる心ゆとりもはかなかるもの(1936
うなづきて寝ねたる妻の安やすと眠るを見れば我もねむれり(1936
蕎麦を待つ部屋の某庭かげり来てまた陽が当る山百合の花 (1936
耳遠き母との話ちぐはぐに時には声を立てて笑ヘり    (1939
 
 何気ない日常の一情景をとらえながら、家族や身のまわりのものにあまねくゆったりと向けられた視点を感じとることができる。これらの歌は、伊藤生更が作歌について説いた文章とよく合致している。
 生更は、
「『ものゝ真相をとらへる』といふことは作歌の上に実に重大なことである」
と、しながら
「この真相を捉へる事が甚だむづかしい。而も『ものゝ真相は』何処にでもざらに転がってゐるのである。
それでゐてなぜ難しいか。目に心になれ切って居るためである注意せないからである」(「作歌道(二)」
「美知思波 みちしば」一九三五年五月)
と述べている。そのうえで、
「第一にもの事によく注意せねばならぬ。よく注意すればはっきりと目に心にうつゝて来る」
「実際に手に取って見る。やって見る。さうすれば一層異相は明瞭になる。だから実行は注意よりも一層必要になる」
としている。
 生更のこれらのことばは、どんなに繰り返され、見慣らされた日常風景にあっても、細心の注意を払い物事の真相をとらえようと努めることで、歌の世界へと集約するものであることを示唆している。

略歴

 生更は、一八八四 (明治十七)年に北巨摩郡穴山村(現韮崎市穴山町)に生まれた。
山梨師範学校を卒業し、小学校に勤務、校長、視学を歴任する。
一九二〇(大正九)年、三十六歳の時、チフスを患い死線をさまよう。生更は当時の心境を「死を見つめながら引戻された自分に人生への別の道が開かれるのは当然である。名利も、地位ももう私の前には魅力ではなかつた。それなら拾った命をどうまもっていくか」(「作歌道(四)」「美知思波」一九三五年七月)と、再び引き戻された生への煩悶を回想する。

アララギ

そういった中で出会ったのが正岡子規の歌であり、斎藤茂吉の歌であった。一九二五年、四十二歳で「アララギ」に入会、茂吉による選を熱望し、その意を手紙に認め七首の歌とともに送り、茂吉から快く選を引き受けるという返事と送った歌に添書されたものを受けとる。
「やはり十年ぐらゐ続ける方よろしく候はんか」
と、いう茂吉のことばを信念としい一途に作歌に没頭して、自身の生命を歌へと注ぎ込んでいった。
 握りめし二つを持ちてひねもすを河原に釣れば心は足らふ
 
 その時に送ったこの歌を茂吉は「平凡なれどもよろし」と評したという。この歌とともに、第一歌集『草谷』に並べられた次の歌は、先に述べた物事を注意深くとらえようとする視点から生まれている。
  握りめしこつに割れば真中と思ふ処に梅干があり
 
一九三五(昭和十)年に歌誌「美知思波」を創刊、戦禍が高じた一時期の休刊を経て、一九六八年に主宰を譲るまで山梨の短歌界に活力を注ぎ続け、七二年、享年八十八歳で逝去した。
 生更に育まれた「美知思波」は現在も山梨の地に脈々と引き継がれ、たくさんの歌人が集う場となっている。                                   (中野)
 

伊藤生更の歌碑

『甲斐の文学碑』<著者奥山正則氏>一部加筆
 

甲府の夢見山中腹にある

 北の方より駒鳳凰農烏と我が目を移す雪の高山 生更

 この歌碑は昭和三十八年六月十六日、甲府の夢見山の中他に建立され、同日除幕式が行われた。裏面に
「歌詞美知恵波発刊三十同年と山梨県文化功労者伊藤生更生誕八十年を慶び門流一同これを建つ。美知思波短歌会 昭和三十八年六月」
 除幕式は雨のため、甲府市立春日小学校講堂に移され、「美知思波」会員のほか、来賓として、知事代理山中県開発部長、中村星湖、許山茂隆氏等が見えられ、中村星湖氏は手づくりの杖に
「手づくりのあららぎの杖ささげまつる八十瀬を越ゆるうた人君に」
 の一首をそえて生更翁に贈られ、しみじみとした場面もあった。「方」は 「かた」と読む。
 さて、生更翁は昭和元年短歌結社「アララギ」に入会、斎藤茂吉が昭和二十八年に亡くなるまで、茂吉を絶対の帥と仰ぎ、万葉を宗とする。真実一路の作歌道に終始した。昭和十年、短歌誌「美知思波」を主宰創刊し、その詠風は、荘重・枯淡・純素、県内外の六百五十名に及ぶ後進の育成に努められ、今日、全国の知歌誌でも十七、八位の会員を擁する結社の鵜基礎づくりをしたのである。
 この一首は、生更翁が散策のコースとして、こよなく愛した夢見山から、甲府盆地の北西に聳える駒ケ岳、鳳凰山、農烏岳を眺望しての自然詠で、見たまま、感じたままを、平明率直に詠じて、雪の高山の荘重、峻厳美を表出し、作者の心の姿勢までもうかがえる。生更翁は生前「我が目を移す」とした所に現実感があるのだ」と申され、その著「茂吉秀歌の鑑賞」・「作歌道」などで、「客観は主観に即(つ)く」という歌論、芸術論を唱道されたが、これらを裏づける作品といえる。翁は歌集「草谷」・「柴山」「山雲」・「甲斐の国」を残し、昭和四十七年七月二十七日、八十八歳で他界される。





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最終更新日  2021年04月23日 06時21分11秒
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