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2019年04月29日
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中込源吉の句碑

『甲州の文学碑』奥山正則氏著 一部加
 韮崎市の次第窪にある
 茎立や阿留日俄耳山お路し 松寿
 この句碑は韮崎市穴山町次第窪の道路端にある。
「くきたちやあるひにわかにやまおろし」
と読む。伊藤紀元氏のご案内を頂く。
 裏面に 
「翁通称は源書、中込氏。明治二年十一月本村に生まる。壮年にして俳諧を嗜み、雅号を松寿と言ひ、半古庵倍之の門に入り千秋居と号す。多年初等教育に従事し穴山小学校長として令名あり。勲八等に叙せらる。後神職となり郷社穂見神社宮司その他に奉仕す。晩年、宮村居の号にて「雲母」の俳句を研む。天民・斉木逸造書
 と刻まれている。

 いま、中村良一編「生更のふるさと」に

○源吉翁は明治二年十一月十一日生まれ、昭和十年十二月二十五日没、六十七歳。伊藤勘左衛門の三男で、明治二十三年六月、穴山村(現穴山町)石水、中込栄枝の養子となる。勘左衛門は松逕半古庵倍之と号し、俳句をよくし、門弟後進の育成をした。
○源吉翁は伊藤生更(歌誌「美知思波 みちしば」創刊、主宰)と同じ穴山村伊藤窪に生まれ、生更の厳父・友重と親しい間柄であり、生更は小学校時代、源吉翁の教え子であった。
○建碑賛成者六十七名の中に、伊藤基胤の名前があるが、これが伊藤生更で、その歌集「柴山」に
「君が句碑道の傍に建てられて裏に我が名も刻まれたりき」
(昭和十九年の作)の一首も出ている。
○碑の裏面に「昭和六年四月五日、主催城北吟社」とあるが、城北は新府城か能見城の北部という意であろう。句碑は源吉翁の自筆、石工は穴山駅前 の八代善次。
 さて、源吉翁の長男・栄男君は大正六年十二月山梨師範(現山梨大学)在学中病死したというが、句意は
「強い茎が嵐に急に折れて終ったように、伸びざかりの青春の子が、ふいっと病死して終ったのは、実に慟哭のきわみである」 
であろうか。子を亡くした親の切ない悲痛を詠んだ名句といえようか。





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最終更新日  2021年04月23日 06時09分46秒
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