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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月29日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲斐市の偉人 禰津精春氏(旧双葉町宇津谷)

報徳碑建立について

禰津忠則氏 『徽典會』会報第3号掲載記事 一部加筆
 


 
昨年末亡き父の十回忌を期して門下生並びに友人その他の関係者の方々のご好意により父の報徳碑を建立していただき私ども遺族は心より深く感謝しています。
今回徴典会誌の発行に当り、報徳碑建立の状況と父の人間像の一面をしのぶ文章を求められましたので、ここに拙い筆をとりました。
父は病没して既に十年になるが今なお私ども遺族の心の中に何かと生き続けているのですが、特に建碑の後はその愛が強くなりました。それだけに、父の人間像を客観的に書くことは私にとってきわめて困難ですし、なお、独断的記述に陥ってもなりませんので、初めに父の生前の思い出の一旦を述べ、その後に碑文、除幕式の折の条文及び式辞の一部、並びに昭和十四年父の退職の際の謝恩会の折の鈴木利平校長先生の祝辞の一部を掲載し、それ等を通して、父の人間像の一端を知っていただき私の責を果したいと思います。
 
父は信念の固い人というか何事にも公務優先で、しかも、頑固一徹で几帳面の所があったようです。ある朝母が養蚕で多忙のため朝食の用意が遅れた所、「人と蚕とどちらがだいじか、蚕など捨ててしまえ。」と大声で叱り、せっかく炊いたご飯を裏庭へあけてしまったこと、自分は背広は着ないと一生詰襟と
軍服で通したこと、終戦後紙幣の切替えの時まで一銭一厘も違わぬ家計簿をつけ通したこと、税金その他の領収証をきちんと整理して新聞紙の綴りに一々丁寧に貼付しておいたこと、家庭内で村の人と「内証だがね」と言いながら外まで聞えるような大声で話しをしていたこと、学校内外到る所で生徒の服装の乱れなどに注意を与え、しかも、自校他校の区別なく一般の青年男女までも注意を与え、バスの待合の時など父の姿が見えると待つ人々の列がひとりでに真直になったこと、終戦後米穀の供出が不公平だというので不自由な右膝を引きずって村中の潤畑の測量をして土地台帳の修正を行なった時など、ある人から「あの曲った脚をひっ挫け」などと言われたが平然として測量の手を休めなかったことなどが印象深い思い出であります。
しかし、外面は厳格そのもののようでしたが、案外やさしい面もあったようです。「自分の正しいと思うことはどこまでも実行するが、自分がするからと
いってその実施を他人にまで同様に要求してはならない」とは口癖のような言葉でした。
また、孫にはずいぶんやさしく、二人の孫の名前をつけるのに自分の一字をとって忠春・文春とした時には非常に喜びましたが、特に長男を「坊、坊」と高校入学の時まで呼んで、かえって長男に嫌がられたことなども忘れられぬひとこまです。以上思い出すままに書いてみました。

○碑文

文部大臣中村梅吉題 山梨県知事天野久撰
 
従六位勲六等功五級禰津精春先生は明治十四年三月二十五日山梨県北巨摩郡塩崎村宇津谷の名門頑津家に喜代盛翁の嫡男として生まれた。長じて山梨県立甲府中学校を卒業ののち明治三十七八年戦役には陸軍歩兵中尉として出征し赫赫たる武勲をたてた。明治三十九年四月から山梨県師範学校教官となり体操科教練を担任するとともに寄宿舎舎監として子弟の教育に挺身すること三十有三年門下生は実に四千の多きに及んでいる。昭和十四年四月山梨県嘱託となり大東亜戦争下の青年教育に尺挿した。同二十年終戦とともに職を辞したのち村農地委員同選挙管理委員等に推され郷土の再建に貢献したが昭和三十一年十二月二
十七日七十五歳をもって病歿した。
 先生は資性謹厳廉直で責任感強くまれにみる愛国の士であった。大東亜戦争の危急に臨んでは老躯を挺して志願入隊しその赤誠に人びとを感動させた。教育者としては子弟の慣性に即し情愛を尽くして教導し慈父のようであった。先生の威あって猛からざる温容と身をもって諭された幾多の教訓とは門下生を通
じて、永く国民教育の指標となり輝かしい光彩を放つことと信ずる。
 ここに、先生の十回忌をむかえ門下生相はかって建碑の議成り予に文を需たのでその実拳に感じ撰文する所以である。
 昭和四十年十二月二十七日 門下生渡辺保書
 

○除幕式 祭文(門下生代表 向井房恵)

 惟れ時昭和四十年十二月二十七日乙巳の歳まさに暮れなんとするの日、故に恩師禰津精春先生報徳碑除幕の式に当り祭主向井房恵謹んで先生威霊の広前に斎戒薦沐恭しく申し上げます。
 先生が神去りまして故に十年今日はその斎目でもあります。往時を追懐して眼を閉ずれば在りし日の潤達観爽たる英姿は彷彿として瞼に浮かんで参ります。誠に慕わしく懐かしい極みであります。先生は明治十四年に欄津
家の嫡男として生を享けられました。禰津家の遠つ祖は信濃の国禰津郷の豪族で中世の末頃招かれて武田氏に仕え、主家滅亡の後は節を守って二君に見えず北山宇津谷の里に隠れたと国志に見えています。先生は夙に名族の
裔の自覚のもとに文武の道に励まれ、山梨県立甲府中学校を卒えられて後、日露の役には士官として出征武勲をたて、一旦育英の道に入られては斯道のために畢生の僧熱を傾けられ子弟の責陶に尽瘁されること三十三年、先生の徳夙に育つ教え草の数は実に四千の多きに達し県下到る処に先生の遺訓を奉じて教育に勤んでいるのであります。今歳先生の十年祭を迎えるに当り去る頃門下生笠井恵祐君友人小林定雄君ら先生を慕う有志の者が相集って先生の恩徳に報いたくかの普通羊祐が峴山の堕涙の碑の例に倣い建碑の議を決し然るべき各位を嘱して実行委員会を組織し趣意書を普く発しました処遠近老若の門下生響の声に応ずるが如く轟然として賛するもの一千に及び喜捨の浄財また目標額をはるかに超ゆるの盛況を見るに至りました。
剰さえ此の碑の篆額を文教の府に仰ぐや文部大臣中村梅吉先生には国務鞅掌の寸暇を割いて豊麗の筆を揮われ又撰文を牧民の府に請うや山梨県知事天野久先生は庁務黙劇を顧みず欣然として橡大の筆を執られ共々に両津先生の偉績を讃えられました。これひとり先生の余栄のみに止まらずご遺族は固より建碑関係者一同の光栄これに過ぐるものほありません。
 古い諺に積善の家必ず余慶ありと申しますが先生神去りましてここに十年欄津家のご家運は益々繁栄の一途を辿っていられます。先生の成雲上に在って行末永く加護を垂れさせ給え。
 ここに除幕の典にあたり海山種々の幸を広前に供えまつり祭文を捧げて神霊を慰めまつる。冀(こいねがわ)くば先生の神霊彷彿として来り享けられんことを。祭主房恵かしこみ謹みて白(もう)す。
  昭和四十年十二月二十七日

○除幕式式辞の一部(友人代表小林定雄)

(前略
 硝津先生は単なる軍国主義者ではなく、立派な一教師であり、学級主任であり、舎監であり、生徒訓育主任であり、教育熱愛の仁でありました。それが募金目標の突破の実績となって現われました。この報徳碑は私共幾千
の県内外の人々の教師が斯くありたい斯くあるべきだという心の現われであります。詰襟服で遠い道を歩いて、一分一秒の遅刻もなく通勤して時間の尊さを率先垂範、事に当って謹厳寡黙、無欲悟淡、生徒の個性尊重と豊か  な愛情は、時に叱り、時に語る。この人こそ真の教育者の典型であります。……(後略)

○謝恩会の祝辞の一部

    (昭和十五年十一月二十四日)
     元山梨県師範学校長 鈴木利平
(前略)
 欄津先生は日露戦役に於いて抜群の功を立てられ、まさに勢力盛んな時当時の森山校長に見出されて本校教練科担任として就職されたのであると思われる。私はその次の西村校長の時に採用されて初めて涌津先生を知ったのである。私は前任地でも教務をやって相手もあったが先生のような方には逢わなかった。前任地では殆ど皆私がやらねばならぬようになったのでしたが、ここでは殆ど先生にお任せするようになった。曰く、遊んで居れ私がやるからと皆進んで引き受けてくださった。その努力・択気・計画・技能‥私はただ印を捺せばよいようにとても楽をした。先生は謹直である。苛もせぬ。綿密であり撤密に計画を立てられ、しかも、それが早い。だから実施に当って混雑がない。まごつかない。すらすらと事が運んで予定の効果を挙げたのである。
 昭和の初め配属将校が置かれることになり我校には柄沢少佐が来られ、後三年にして鶴田少佐が代わられた。両将校とも禰津先生のお陰に楽をして好成績を挙げたと喜んで私に話されたことがある。当時教練査閲は四十九
聯隊管下で常に第一位であり模範であると称賛された。私共も鼻を高くしたものである。先生はどの校長にも配属将校にも皆にも同様の信用を受けておった。そして我が校になくてはならない柱石であると仰がれた。先生に
は依怙がなく、ただ学校のため生徒のため学校経営の掌に当たる校長を中心として協力命に従うのでなくてはならぬとは、先生の信念であった。意見がある時は忠告もする諌めもするが陰がない。ちょうど今新体制で協力翼
賛上意下達下意上達というが、これこそ先生の気持ちだったでしょう。故に安心であり確実であり信用せられたのであった。
 同様に生徒に対してもよい先生であった。生徒にも卒業生にも皆先生先生と仰がれた。先生は厳格であると同時に情愛に満ちていた。よく世話をしてくれた。誠に典型的性格を備えておられた。為さねばならぬ事は必ず
為さしめられた。涙をもってやらせる事さえもあったのを覚えている。「やれ‥やれ‥」という代りに「やろう‥やろう‥」であった。先生の健康、鍛練された健康、いつでも壮者を凌ぐ勢力を持って居られるのはどんな
妙薬を服用して居られるであろうか。三十余年問常に変らぬ禰津先生を私は見て居り、このような先生に訓練を受ける生徒はほんとに幸せであると思う。…(後略)

○故禰津精春略歴

明治一四年・ 三・二五  塩崎村宇津谷三七五九番地において出生
明治三三年・ 三・三〇  山梨県立甲府中学校卒業
九・ 一  小淵沢小学校代用教員
三七年・ 二・二五  任陸軍歩兵少尉同年出征
明治三八年・ 八・三一  任陸軍歩兵中尉同年帰還
明治三九年・ 一・一二  県立農林学校体操科教員
明治三九年・ 四・ 一  明治三十七八年戦役の功により功五級金鵄勲章
       四・ 四  山梨県師範学校体操科教官
大正 二年・一〇・ 八  山梨県師範学校教諭心得
大正一二年・ 七・一三  山梨県師範学校教諭
昭和 九年・ 七・一六  叙正七位(宮内大臣)
昭和一三年・ 五・ 二  高等官五等待遇(内閣)
昭和一三年・ 五・一六  叙従六位(宮内大臣)
昭和一四年・ 三・三一  願により山梨県師範学校教諭を退職
昭和一四年・ 四・ 一  山梨県学務課勤務
昭和二〇年・ 八・一五  志願により歩兵第三聯隊入隊、同日終戦によれ除隊
昭和二一年・ 四・ 一  村農業調整委員・地力調査委員・一筆調査委員長
昭和二四年・一二・ 一  塩崎村選挙管理委員長
昭和三一年・一〇・二七  病没





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最終更新日  2021年04月23日 06時08分38秒
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