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2019年04月29日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室
山梨県に於ける近代教育の草分け 蒙軒学舎

                  渡辺修孝氏著『徽典會』第28号 一部加筆
 
疾風怒涛といわれた明治期に山梨県の近代化のために大きな足跡を残した県令藤村紫朗の名は広く知られているが、県令の側近として幾多重要な献策を行ってきた初代県議会議長近藤喜則の名を知る人は少ない。
 愛宕山は山梨大学の界隈でもあるが、その愛宕神社の境内に高さ四米に及ぶ近藤喜則の顕彰碑が甲府盆坤を一望している。明治四+一年に建てられたものであるが今、訪れる人はほとんどなく、地元町内の人に聞いてもその存在すら知る人は少ない。
 顕彰碑の篆額は親交の厚かった明治の元勲井上馨の筆によるものであり、撰文は藤村紫朗である。その碑文の一節に
「椎山(近藤善別の雅号)内外ノ形勢ニ達シ、当世ノ事情ヲ知ル。曰ク今日ノ務ハ教育、産業及ビ衛生ヲ興スニ在リト是ヨリ先に私塾ヲ設ケ教師ヲ脾シ窮ヲ乏ヲ督ス(中略)学徒数百彬彬トシテ材ヲ達シ器ヲ成ス…」とある。ここに 青かれている私塾とは山梨県教育百年史(明治編)にも本県における近代教育の草分けとして特記されている、峡南の地南部村に営まれた私塾蒙軒学舎のことである。
 日本の夜明けともいうべき明治の初めに県内外から学ぶ者が多く、広く逸材を輩出したことでも知られているが、全寮制、過五日制、英語教育、本県で初めての外人教師、一流の教師陣、個性重視と厳格な実力主義等、今日の教育水準からみても驚くほど進歩的で高度の内容であった。

蒙軒学舎の創始者近藤善則の略歴

 天保三年(一八三二)七月十六日、南部宿の本陣近藤家に生れる。彼は深く伊豆韮山の江川坦庵(太郎左衛門)に私淑し、さらに万延元年(一八六〇)長崎への遊学等を通して次第に進取開明的な思想を学んでいった。
 明治の新時代、彼の活動は二年の私塾「聴水堂」の設立にはじまり、「蒙軒学舎」へと発展するのであるが、その間、カナダ人イビ-博士の招脾は山梨へのキリスト教伝道のきっかけともなった。明治八年(一八七五)には県立病院睦合分院の設立、同九年には三種栽培を中心とした物産会社殖産社の設立、そしてこの間、山梨県の区長総代理、学区総理、初代山梨県議会議長を歴任し、明治三十四年(一九〇一)四月二十七日に没した。
蒙軒学舎設立までの経緯
 近藤喜則はその著「一家小伝」のなかで「国本ノ根底タル育英卜殖産ニアリ」と書いている。今から一二〇年前の手記である。
 明治二年(一八六九)「長かった戊辰戦争も北海道の五稜廓の戦いでやっと終ったらしいぞ‥」と南部村の人びとが伝え聞いたある日のこと、見知らぬ行商人がこの村に姿を現した。五稜廓の戦いに破れた甲府生れの幕臣豊島佳作である。本陣近藤家の門をくぐった豊島は時に二十一才、迎えに近藤は三十七才の壮年期の真只中であった。
 かねてから山峡のこの妙に文化の注入をはかろうと志に燃えていた近藤は、学才にすぐれていた流亡の人豊島を用いて、村内の寺の妄でささやかな私塾「聴水堂」を開いた。時に明治二年(一八六九)十二月も末、後の蒙軒学舎の前身である。
 明治四年、独立の塾舎を持つようになり、名も「蒙軒学舎」と改めた。新しい学舎は二階建てで三間半に十間、寄宿舎も三間五間のもので図書室も設けられた。明治九年帥になると県下は勿論のこと、静岡県、神奈川県からも学ぶ者が多く塾生は七十名位を数えた。
教授内容
 明治五年に蒙軒学舎から県に出した報告書に「使用セル教科書ハ洋籍数種」とある。
 学科はこの頃から従来の漢字や歴史書中心から脱して数学や英学の西洋科目が中心となってくる。
 蒙軒学舎に学び終生近藤喜則を父の如くに慕った常永村出身の内藤宇兵衛(直温・貴族院議員)は、
「蒙軒学舎ではギゾ-の文明史やミルの代議政体、パ-レ-の万国史などの講義をしてくれた」
と言っている。
 最後の塾生であった塩津正一(睦合村長)のメモによると「授業は英数漢の三科目で、英学はナショナルリーダ-、それからパ-レ-の万国史やギゾ-の欧州文明史など、漢学は史記・左伝・文学規範・八大家文・元明史略・漢詩・数学は三角、代数、幾何であった。毎週土曜日には食堂演説会が行われた」とある。
明治十五年(一八八二)頃の「蒙軒学科書目」の記録もあるがここでは割愛する。教科書は明治初年に慶応義塾などで用いたものがそのまま使われ、程度の高いものであった。 特異な塾風
 蒙軒学舎の建学の理想はその主意のなかに明らかである。
それによると「本塾設置ノ主意ハ多分ノ学費ヲ要セズシテ、学ヲ研キ智ヲ開クニ在リ、蓋シ弊郷ハ国ノ南隅ニ僻シ、其ノ学習ニ志シ有ル者モ資力ノ乏シキガ為ニ其ノ意ヲ果サザル者アリ……漢英数ノ学科ヲ授ケ略ボ修身立志ノ道ヲ自得セシメ而シテ以テ其ノ将来ヲ謬(あやま)ラザラシメントス…」「多分ノ学費ヲ要セズシテ、」というところで学費のかからない教育をうたい、財産家の人も貧しい人も同じように教育を受けさせようとしている。
「弊郷ハ国ノ南隅ニ僻シ…」とある。国とは甲斐の国でその南隅の僻地の人にも教育の光を当てなくてはならないと、教育の自由、機会均等をうたっている。
。「修身立志ノ道ヲ自得」人間の自立を目ざすことは今も昔も変らない教育の原理である。学舎は青年期だけの人生の通過地点である。そこではみずからの力で進路を切り開いていくことを最大の目的としている。
勉強のしかたは入塾した時は教授が中心で、二年生以上はすべて独見が原則であった。
学舎に学ぶ生徒は十二才以上、小学校中等科卒業以上、修業年限は四年、各学年は前後期の二期制で全八期制となっている。
**実力主義を買いた。-学期ごとに大試験があり、それによって進級したり落第もした。**毎月末に小試験があってそれにより席次が決まった。
**英数漢の時間が最も多く各過六時間をとり、一週二〇~三三時間で年間二百四十日勉強した。
**国際理解の教育-これからの日本は外国に学ばなくてはならないとして、外人教師を招き、実用英語を学ばせた。
**週五日制をとり、土曜月には演説会、討論会、校外散策吟行などが行われ一般教養を重視した。
**校則、生徒心得にもある通り、厳しい指導が学業、行動両面で行われ、互いに切磋琢磨させた。
**常に中央から一流の学者を招き、教授にあたらせた。
**最後に蒙軒学舎最大の特色は、塾長である近藤喜則の偉大なる感化力である。前記内藤宇兵衛の実弟、根津啓吉氏の「弟から観た兄」という一文がある。
「兄が眼を外国に向けてその文明を採り入れなくてはだめだと説いたのは蒙軒学舎において得た識見であるが、何といっても塾長近藤翁の感化によるものである。(中略)その几帳面さ、広い教養を求める態度、殖産事業への関心、保健衛生への注意、旅行好き、政治への関与、優れた才能との交際、愛書家、読書家としてよくも似たるものかな」
と書いている。
ドクトル・イービー(CSEby)の入峡
 
 全国的な文明開化の風潮のなかで塾生の英学に対するあこがれは強く、当時カナダメンディスト伝道のために来日したばかりのイービ一博士が招かれたのである。
 ときに明治十年七月二十四日、真夏の太陽がようやく安倍連峰に傾きかけた頃、イビ-
博士一行が駕籠を連ねて南部に到着した。近藤家に青い目の異人が来たのには、当時富士川舟運で大勢の人を見馴れていた村人たちも、目を丸くして驚いた。時にイ-ピ-三十二才。南部滞在の記録はカナダへの報告書「南部伝道の興味ある旅行記」に詳述されているが割愛する。
イ-ビ-は翌明治十一年に甲府に招かれ、甲府教会をつくり、英和高女の基礎を築くの
であるが、本県における本格的な英語教育の草分けとし、またキリスト教伝道のきっかけともなった意義は大きい。





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最終更新日  2021年04月23日 06時08分07秒
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