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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月29日
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林業技術者 浅川 巧

農林学校に学ぶ

 巧は、明治三十年四月村山西尋常小学校に入学した。当時小学校の義務年限は四年であったので、同三十四年三月同校卒業。同年四月に秋田尋常高等小学校に入学した。三十四年には村山西小学校にも高等科が設置されているが、巧は如何なる理由によるのか秋田へ入学した。当時の高等小学校は修業年限が二年~四年の別があったので、その関係であろうか。
 秋田尋常高等小学校を三十八年三月卒業、同校補修料一年を経て、明治三十九年四月、県立山梨農林学校に入学した。第三回生である。同年六月、校名が山梨県立農林学校と改められた。
 この学校は、明治三十七年四月、農林業振興を目的として中巨摩郡竜王町赤坂に設立された。設立の場所選定に当たっては「沃土を選ばず不毛の土地を拓いて優れた技術の導入によって実習させる」とし、開拓精神の旺盛な学校で
あった。
 この学校への入学が、その後の巧の一生を左右する大きな要因となった、と考えられる。彼がこの学校に入学を望んだのは、早く夫を失い、幼い子供三人を抱えてその養育に懸命な母親や年老いた祖父母の労苦を察してのことと思  われる。それは、農林学校を卒業して秋田営林署に赴任する巧に、母親が与えた餞別を「卒業したら世話はかけぬ約束だ」として、そっと仏壇において出かけたというエピソードにもあらわれている。
 当時この学校には、農学、林学の他に養蚕、果樹、養畜等の科目があったが、巧は林学に関心をもっていたと思われる。実姉栄の談話にもあるとおり、幼少のときから樹木の苗を育てることに興味をもっていたし、三年次の林業実  習では、中巨摩郡榊村(現櫛形町)の都有林で、学校が実施した造林作業にも参加した筈である。
 明治時代、山梨県では河川の水害が頻発した。有泉貞夫氏の『やまなし明治の墓標』(山梨郷土研究会 昭和五十四年十一月発行)によれば、従来わずかの年貢(小物成)を支払うことによって住民の共同利用下におかれていた入会
地が、明治初年の地租改正に際して官有地とされ、更に明治二十二年にはこれが皇室御料林となって、地元住民の入合権が一切認められなくなった。この当時、県内では養蚕業、製糸業の発展によって、薪炭の需要が急激に増大して
いたが、入会権を失ってかつての入会地の利用が出来なくなった地元住民は山林愛護の気持ちを失い、濫伐・盗伐はひどくなり、山火事も頻発した。その結果が相継ぐ河川の氾濫となってあらわれたのである。中でも明治四十年八月
二十二・三日に発生した水害は最大といわれ、死者二三二人・流失家臣二、九四三戸に達した。農林学校在学中の巧は甲府盆地の惨状を目のあたりにしたはずであり、治水の根元である治山の重要性を痛感したものと思われる。

兄弟、キリスト教に入信

 この頃、兄伯教の影響でキリスト教に入信し、二人で甲府メソジスト教会に通った。トルストイの愛読者でもあった。また、農林学校在学中に生涯の友人二人を得た。一人は同窓の友人浅川政歳である。政歳は竜岡村(現韮崎市竜
岡町)若尾新田の生まれで熱心なクリスチャンであった。後に巧は政歳の姉「みつえ」と結婚したので義兄弟の間柄となったが、生涯のよき理解者であった。政歳は村の産業組合長や村長を勤め、郷党の信頼が厚かった。もう一人の友人は小宮山清三である。小宮山は、巧が農林学校在学中兄伯教と二人で住んでいた池田村(現甲府市池田町)の人で、兄弟と同じ甲府メソジスト教会の会員であった。この人が、のちに兄弟が朝鮮に渡るきっかけをつくったのではないかといわれている。兄弟の生涯の友人となった。
 明治四十二年三月、巧は農林学校を優秀な成績で卒業した。そして、秋田県大館営林署小林区署に就職した。翌年、明治四十三年八月、日本は韓国を併合した。日本の朝鮮に対する植民地支配の始まりである。
大正二年五月、兄伯教が朝鮮に渡る。前述の小宮山清三であるが、彼は村長や県会議員も勤めた素封家であり、早くから古美術等にも関心を示していた。そのコレクションの中の朝鮮の陶磁器を見たことが、伯教に朝鮮行きを決意させた大きな要因ではなかったかと言われている。                           
 兄伯教の渡鮮の翌年、大正三年五月、巧も兄の後を追うように朝鮮に渡り、京城府独立門通り三-六に居を定めた。
そして、朝鮮絶監府農商工部山林課の雇員となり、京畿道高陽郡延禧面阿峴北里(現ソウル特別市酉大門区北阿峴洞)林業試験所に勤めた。ここで巧に与えられた仕事は、朝鮮産主要樹木ならびに輸移入樹種の養苗に関する試験と調査
であった。
 大正六年七月には『大日本山林会報』に「テウセンカラマツ(朝鮮唐松)の養苗成功を報ず」を石戸谷勉との連名で発表している。
 当時朝鮮半島では林野の荒廃が甚だしくこれが大きな問題となっていた。その原因は、「半島林野荒廃の原因は、濫伐・濫採および林政の不備、弱体、弛廃による」というのが通説となっていた。これに対して巧は、『朝鮮山林会
報』昭和二年七月号に「禿山の利用問題に就いて」を発表し、その中で禿山の特性、として
  1. 川地毛を欠き常に裸である、
  2. 表土が落ち着かず崩壌し易い、
  3. 基岩は風化し易い、
  4. 土浅くして下層には常に適度の湿気を有す、
  5. 排水良好、
  6. 地表温度は夏と冬、昼と夜との差違著しく、夏と昼間は特に高し、
  7. 害虫、病菌等極めて少なし、桝土串は腐植質を殆ど欠く、川土壌の性質概ね良く、砂埴混合の割合適当なること等で、
 この点は平地の土壌とその趣を異にしているところである。然しこの他にも注意して調査研究したら、更に多くの新事実を発見することも難事でないと思う。
 とし、このような特性をもつ禿山を如何に利用するかについて二、三の方法を挙げれば、萩類、赤楊頬等の播種造林、竹林仕立、甘藷、落花生の栽培等が有効であるとしている。そして最後に、
 朝鮮産業の癌とされた禿山も、何時かは苦にならぬ日が来ることを待ち望んでいる。筆者は本問題を考える様になってから、従来は面をひそめて見て来た禿山を涎(よだれ)流して眺める様になったことを告白する。
然し此の問題は仕事の全体から看る時、試験時代に一歩踏み込んだばかりである。此の試験は研究室で試験管を振る試験でなく、気候なり土質なりの異なる各地に於いて、多数の人が多方面から観察し研究してはじめて完成すべき性質のものと信じ、玄に本紙上を借りて都見を述べ、江湖諸彦の御援助を希う次第である。
 と結んでいる。如何にも技術者らしい禿山の特性についての見解であるし、「禿山を涎を流して眺める」とは、自信に充ちた痺もしい言葉である。
 
 巧の林業に関する調査研究は多方面におよび、山林緑化に大きく貢献した。特に前述のチョウセンカラマツの養苗成功は特筆大書すべき研究であった。その他チョウセンマツ、ミヤマハギ、シベリアハンノキ、ヤマハンノキの植栽、病害虫の駆除、肥料の研究などいずれも山林線化に極めて有効な研究であった。と、行政管理庁監察局で農林行政を担当した三宅正久氏は、昭和十二年から敗警で朝鮮総督府山林課にいた人であるが、その著『朝鮮半島の林野の荒廃の原因』(農林出版株式会社一九七六年十一月発行)の中で、
 二十世紀の初めの頃、当時十八万町歩を超えるとみられていたこの広大な荒廃地は、日本の施政時代三十五年余りの間に、砂防事業の施行により、約十七万町歩余りに、すなわちその大部分に緑化が実施された。十分でないとしても、これを世界の例を覧れば、十九世紀初期の頃から大規模に始められ、成功した荒廃地造林として有名なフランスの八十万㌶荒廃地の復旧をはじめ、その後、これにならったといわれるデンマーク、オランダ、ベルギーあるいはオーストリアなど中欧諸国の荒廃地復旧造林、また日本の海岸砂防造林などの成功例と共に、一つの成果とみてよいのであろう。
 と半島の線化を評価している。そして、その基礎の部分に林業技術者浅川巧がいるとみてよいであろう。
 

巧の林業に関する著作・論文は次の通りである。

 林業に関する著作

 一、単行本

 『朝鮮巨樹養樹名木誌』(大正八年朝鮮給監府出版 石戸谷勉氏共著)
 『樹苗養成指針』(同 上)
 『朝鮮産主要樹木の分布及適地』(年号出版所不明 鄭台鐘共著)
『主要樹苗に関する肥料之要素試験』
 (昭和六年十二月朝鮮稔督府林業試験所版 林業試験所報告第十三号)
 

二、雑誌

「てうせんまつ養苗成功を報ず」
 (大正六年『大日本山林会報』第四二凹号掲載 三六頁 石戸谷勉氏共著)
「朝鮮に於ける「カタルしハスペシラ」樹の養苗及造林成続を報ず」
 (大正六年『大日本山林会報』掲載第四一九号
「西国担当の友に贈る」(大正十三年『朝鮮山林会報』掲載 第二二号
「萩の種塀」(大正十四年『朝鮮山林会報』掲載 第一六号
「禿山利用問題に付て」(昭和四年『朝鮮山林会報』掲載 第五三号

三、遺稿

「病虫害」 (一三行美濃罫紙 両面一九枚)
「苫田の土壌」 (同一〇枚)
「シベリヤハンノキ、ヤマハンノキ播種養苗に付て」(同二七枚)
「雑草の話」(同三六枚)
「肥料の話」(同七枚)
「苗圃肥料としての堆肥に付て」(同一二枚挿画一枚)
「盛岡の朝鮮松」(一〇行美野罫紙両面一四枚 挿画三枚)
 
 以上何れも年月日記載無く不明。此の以外に種田発芽状態の写生が実に沢山ある。 (以上『工芸』第四十号浅川巧追悼号(昭和九年三月発行)による)





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最終更新日  2021年04月23日 06時06分31秒
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