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2019年04月29日
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北杜市偉人伝 小野實(実)北杜市明野町浅尾新田 通仙次男
参考資料 
小野春輔(實)『評伝 永峯秀樹』永峯秀樹 家門勤学 保坂忠信氏著よる
実は小野泉の弟
 小野春助(一八三七-一九四七(天保一〇-大正三)年)は『甲州医師伝』(若尾資料)によると
「広瀬元恭の門に安政三年七月入塾。初名秀実。後、実と改め号は蘭畝(御崎町福寿院に蘭方医高橋元済の墓誌を記す)
在塾六年、明治五年県立睦合病院、日野春分院長、医学士六蔵が後嗣、子孫が甲府市内に小野病院を開業。
 
 小野実は天保八年(1837)現在の北杜市明野町浅尾新田(旧北巨摩郡朝神村)に生まれる。
 父は小野通仙と云い、号を休焉また九岳と称した。母は岩下氏の娘万里子。
 実は小野家の二男として生まれた。兄弟は
長男 小仙(医師)・小野泉
  次男 実・春助・迂仙・東荘・春畝
  三男 琢輔(助)高根蔵原三枝家養子となる。三枝雲岱
四男 秀樹・永峰家の養子・英文学者・翻訳家。
 
参考資料 
『山梨県人物誌初編』明治二十二年 著作 東京府 平野文氏著 
 
 父通仙は漢医学を祖父元鼎に学ぶ。天保元年(1830)家を辞して伊豆地方に遊び、三島にて医院を開業する。時に同所の某人が尿管塞を患い通仙が手当したが快癒せず、周囲の医者も来て手を尽くしたが治らない。病人の親戚の者が伊豆国の蘭方医肥田春安氏を知る者が居て迎えに行き、直診して、「カテーテル」を尿道に挿入してこれを排取する。患者は瞬間に苦闘から解放された。
 通仙はこれを見て蘭方治療に驚き、春安に従い洋医学を学ぶ事六年。大いに学んで帰国して甲府大田町にて開業する。
【註】肥田春安 - 前野良沢門下、日本国内で初めて種痘を行った蘭方医、韮山代官江川坦庵に仕える。
 通仙は時の代官松坂氏と懇意であり、請願して罪を犯した斬罪者五名の屍を得て、山崎刑場にて解剖に及ぶ。医家は勿論他人と雖も望むものは縦覧を受け入れた。これは実に本国に於いて人体解剖の嚆矢とする。
 通仙は代官松坂氏の願いを受け、各地を廻り老若男女を招集して優れた人物の事績を講示してこれを善誘し、ために郷党徳に化して、多くの人々は教えを受け入れ、書を懐にすることを美徳とするように至ったと云う。
 
泉は安政三年(1856)十九才となり、医学を他国で学ぶことを志す。当時京都東洞院の広瀬元恭氏が頗る洋医学に名の有る事を聞き及び、京都に上り元恭の許で学ぶこと四年間、この間学資乏しくて就学に苦しむこと少なからず。これを泉は学業の余暇を惜しみ早起き晩臥筆耕を事とし、欠乏を補填して卒業を迎える。その苦労は並大抵のことではなかった。
 安政六年(1859)甲府に戻り、後に甲府の幕府譜代の御坊主山田氏の養子となり、二十俵二人扶持を賜り医家を経営する。然るに明治維新の時鎮撫使柳原氏が当地に入るや王臣となってここに住むか、尚徳川氏に従いてここを去るか、決意の書を呈すべき令が下る。泉は徳川氏に従えば玉命に背き、玉命に従えば徳川氏の恩義に背くことになり、平民に戻って両義を全うすることを撰び、本姓小野に帰し益々医業に勤しむ。
 明治四年(1871)山梨県は新たな病院建設を創設し、文部の助教諭牧山氏を医長としたが、甲府市中及び近隣には洋医が乏しく、実が君命をもって之に勤務する。明治五年(1872)に牧山氏が辞職し関・湯浅両氏がこの任に当たったが故あり、辞職する。よって泉は明治六年(1873)院長代理を命ぜられ、翌七年まで奉職する。一旦辞したが明治九年(1876)再び奉職することとなった。
 明治十二年(1879)日野春村(現北杜市長坂町)に県病院の分院を創設するに事になり、実は君命をもって院長となる。しかし地域の人々はこの病院の実態を理解できず、また漢方医の習慣をもって洋医学を忌避し、多くはこれを誹謗し、漢方医も暗に地域民を煽動するに至った。病院経営は苦しく、しかも施治にも頗る苦しむ。しかし実は挫けず、辛苦に耐え経営四年にわたる努力で、地域の人々も理解を示すようになり、治療を求める人々は日に日に増えていき、病院経営も円滑になった。
しかし実は世の中の為にもっとすべきことがあると、明治十五年(1882)五月、院長を辞職して家に帰り、広く世の中の為に尽力する。
 実は資性温順にして、人と争う事もなく、多くの人々と和んだ。また治療を望む人がいれば、急患であれ遠路でなければ徒歩にて出かけた。これは本人の健康維持の為でもあった。重症患者などには日に二三度訪れ治療に当たり、常に懇切丁寧をもった治療は多くの人望を得た。
実の妻は中巨摩郡藤田村、広瀬平五郎の養女で、五男一女に恵まれた。
 
【註】広瀬平五郎
1818(文政1)年-1908(明治41)年。巨摩郡藤田村(現若草町)に生まれる。家業の医学を修め、京都にいた弟元恭より種痘法を学び、村民に広めた。医師であると同時に村役人の役目も負っていたが、明治初年同村名主として村政に専念し医業を廃止した。
〇 平五郎の長男和育(わいく)
1849年(嘉永二年)56日に生まれ、 1925年(大正14年)429日に歿する)略歴 貴族院議員、第十銀行頭取。 号は梧邨。





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最終更新日  2021年04月23日 06時06分04秒
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