カテゴリ:北杜市歴史文学資料室
真田信尹の墓 『山梨県史跡名勝記念物調査報告書』 北杜市長坂町 龍岸寺 北杜市須玉町 大蔵 少林寺
墳塋は寺背の境内共同墓地中に在りて、元は五輪塔ありしものの如きも、現今はその残骸を留め、形式計りに三基並立せり。而し後の世の寄せ集めにて名残りを有せしに過ぎざるも、石質形状環境より帰納して、古色蒼然当時のものたるや、略は窺知することを得る。年代法名等何等記する所なく、確実に立証すべき資料に乏し、側に三塔の石塔あるも何れも文字摩滅し、石剥ぎ落として容易に読み能わざるも、辛うじて判読すれば左の如し。 寛永九年(一六三二)
一、は真田隠岐守信尹。 二、は信伊夫人。 三、は長子長兵衛。 四、は次子左兵衛の墓。 信伊は真田幸隆の四男昌幸の弟なり。「大三川志」に幸孝又は信昌とあり。初宇は源二郎、信玄に仕え、加津野氏を継ぎ、市右衛門と称せり。勝頼の亡き後、本姓の真田に復し、北條氏に属し、天正十二年(1584)家康に仕え 食禄二千石を賜わる。天正十八年(1590)遠山直政と志を家康に通じ、江戸城の戌兵を遂、信伊入城して家康を竣つ、功により一萬石を併せ領せしが、加恩が少ないのを恚(いか)り、去って豊臣秀吉に就きぬ。後に蒲生氏郷に属し、食禄六千石を賜わりしが、後に再び徳川家康に召還せられ、甲斐国三千石を賜わり、使番旗奉行となり、一千石を加増され、文禄中(1592~95)隠岐守に叙爵せらる。子幸政、信勝並びに子孫幕府に仕える(野史)。 信伊、甲斐国地頭となり、三千石を賜わり、食邑(村)を左の如し。
この他
総計 三千四拾三石九升(慶長六年郷村高帳による) 『甲陽軍鑑』に云う、永禄十六年(註、永禄は12年まで)、駿州深沢にて、北條左衛門大夫が「地黄八幡」の差物を捨てたのを源次郎に賜う。『難波戦記』に云う、隠岐守は黄色旗に八幡と書たるを差すと即是也。 『甲斐国志』に云う、加津野市右衛門と名を改め、加津野氏の跡目となる。壬午(天正十年 1582)の後、本姓に復し幕府に奉仕し、小田原、大阪等の役に御使番を勤める。 『甲斐国志』云う、真田隠岐守の宅蹟は、北巨摩郡穂足村大蔵区にありしと。 現今神主赤岡巽氏の屋敷は即之なりと云う。大蔵は隠岐守所領の地なり、依ってこの地に居宅を構えしならん。
真田氏の使用せるものなることは、一見疑いを容れる余地なし。 何れも真田家の六文銭を附せり。 右書は天保七年(1837)春、後藤真田長兵衛寄贈の由緒書あり。 ****参考資料『須玉町史』****
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最終更新日
2021年04月23日 05時21分48秒
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