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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月30日
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芭蕉庵の米櫃 素堂『四山の瓢』 

『俳人芭蕉の研究』鈴木重雅氏著 昭和18年刊 一部加筆

(前略)

天和四年の歳旦に、

越人曰、此発句芭蕉、

江戸船町の囂、深川泊船堂に入られ、

つぐる年の作なり。

堂のうち茶碗十ヲ、菜刀一枚、

米入るゝ瓢一つ五升の外不入、

名を四山と申候。

   似合しや新年古き米五升    (『鵠尾冠』)

とある、船町とは卜尺の家であらうと思はれる。

この時素堂の首唱によって、五十余名の門人の喜捨を得て、

芭蕉庵を再興する事となった。

素堂の文は、『素堂家集』と『随斎諧話』所収のものと多少の出入がある。

芭蕉庵裂れて芭蕉庵を求む。

力を二三生にたのまんや。

めぐみを数十生に待たんや。

廣くもとむるは却って其おもひ安からんとなり。

甲をこのまず、乙を恥ること勿れ。

各志のあるこゝろに任すとしかいふ。

之を清貧とせんや 、將た狂貧とせんや。

翁みづからいふ、 ただ貧なりと。

貧のまた貧、 許子 の貧、

それすら一瓢一軒のもとめあり。

雨をさゝへ、風 を防ぐそなへなくば、

鳥にだも及ばず。誰か忍びざるの心なからむ。

是れ草堂建立のより 出る所也。

天和三年 秋九月

竊汲願主之旨濺筆於敗荷之下  山素堂

草庵落成の時も、不明であるが、次のと併せ考へれば、

冬になってのことと見える。

 

   ふたゝひ芭蕉庵を造りいとなみて

  あられきくやこの身はもとの古柏   (『続深川』)

草庵は新に成つたが、自分は、庭前の首古柏の如く、

もとの身にして、霧の音に耳を澄ましてゐるの義で、

古柏の如く、庭前の一景物であらう。

右の素堂の文の後に、寄附者名や金品が挙げてあるが、

「ゆき」、「むろ」等の女の名も見せ、又、品物では、

よしケン簀一把、大瓢、などあり、嵐蘭が破扇一柄、

山店が、二尺四五寸の竹などを寄附してゐるのは、

それぞれ分に應じての喜捨で、かうした零細な浄財や、

粗末ながらも誠の籠った品々を、

素直に出している門人達の純情には、

誰しも心を打たれざるを得ない。

かゝる帰敬を得たる芭蕉の高風も、自ら想像出来るのである。

この新庵の規模については、

二代目市川団十郎即ち市川柏莚の記述によって、

大概を知ることが出来る。右の大瓢は、

北鯤の寄進に係るものであるが、

それが記載せられているところの柏莚の記述は、

この再興の庵のそれなること、明白である。

 

桃青深川の芭蕉庵、籠二つあって、

台所の柱に瓢を懸けてあり、

二升四合も入るべき米入なり。

杉風、文隣の弟子の貢にて、

米なくなれば、又入れてある。

若し弟子よりの米間違って遅き時瓢空けば、

自ら求めに出でられしが、

其頃笠翁子は三十三か三十四の時の由、

翁は六十余の老人と見えし由、

其頃翁は四十六前後の人歟。

笠翁子も、嵐雪居士もどらにて、

照降町足駄屋の裏、

其角翁の處に出居衆に笠翁は居られ、

嵐雪も繁り人にて、三人居られ侯由。

嵐雪なども俳情の外は、

翁を外し逃げなど致し候由、殊の外気詰り、

面白からぬ故也。左右翁は徳の高き人也。

今大様翁の像に衣を着せ候へ共、

笠翁よく覚え候由、常に茶の紬の八徳のみ着申され候。

其頃其角、嵐雪は、夜具などもなき蕩楽なる生活の由。

翁の佛壇は、壁を丸く堀抜き、内に砂利を敷き、

出山の繹迦の像を安置せられし由。

目のあたり見たりとの笠翁物語。

其頃其角嵐雪なども文麟杉風など見次の由。(『老之楽』)

右の記述の中、庵の設備としてよく分ることは、

第一、籠の二つあつた事、

第二、米入の瓢のあった事

第三、壇の事の三つである。

瓢は前掲『鵠尾冠』の句と詞書に見ゆるそれである。

この瓢は、素堂の六物記に、濃州大垣住西川濁子にありとして、

あるる人芭蕉庵にひさごおくれり。

長さ三尺あまり、めぐり四尺にみつ。

天然みがかずして光あり。

うてばあやしきひゞきを出す。

是をならして謳歌し、

あるは竹婦人になぞらへて、

  納涼のそなへとし、

また米をいるゝ器となして、

うちむなしき時は、

朋友の許へ投すれは、

  満て帰りぬ。

予是に銘していはく、

   一瓢重岱山 白笑称箕山

   莫習首揚山 這中飯顆山

この銘は、素堂の真跡には、

貞享三仲秋後二日素堂山子書とある。

右の文でも分る様に、米櫃代りに用ゐたのであるが、

米が無くなれば、門人のところへ送る。

さうすると、米を入れて、送りかへして来るのである。

米入にしたのは、茶人紹鴎に倣ったものと思はれる。

「春の日」に、

  紹鴎か瓢はありて米はなく       野水

とある。

   一年東武にくだり芭蕉庵の米櫃をきしる

  足かふる庵の鼠も師走かな   洒堂(白鳥)

芭蕉は又、

  米のなき時は瓢に女郎花    (『一葉集』)

と吟じている如く、花生代りにもした。芭蕉の「瓢の銘」に、

顔公の垣穂におへるかたみにもあらす、

恵子がつたふ種に心もあらで、我にひとつのひさごあり。

是をたくみにつけて、花入るゝ器にせむとすれば、

大にしてのりにあたらず。さゝえに作りて、

さけをもらむとすれば、かたちみる所なし。

あるひとのいはく草庵のいみしき櫃に入つへきものなりと。

まことに、よもぎふのこゝろあるかな、

やがてもちゐて隠士素翁にこふて、

   これか名を得さしむ。その言葉は右にしるす。

其句みなやまをもておくらるるがゆへに、四山とよぶ。

中にも飯顆山は、老社のすめる地にして、

李白がたはふれの句あり。

素翁李白にかはりて、我貧をきよくせむとす。

かつむなしきときはちりの器となれ。

得る時ハ一壷も十金をいだきて黛山もかろしとせむことしかり。

    ものひとつ瓢ハかろき我よかな

                       芭蕉桃青書(『随斎諧話』)

「もの一つ」の句は、草庵の一小調度についての句にすぎないが、

一面、芭蕉の生括を語る句ともなつてゐる。

芭蕉庵裏、環堵蕭然として、無造作で、手軽で簡素で一物も無い。

唯一つの大瓢があるのみでるが、それとても軽いことは、

わが生涯の軽きに似てゐるといつて、粗食を食ひ、

水を飲み、肱を曲げて枕とするといふ生活を、

瓢を借り描き出してゐる。

この粗衣、粗食、栖巷の生括といふことは、

形式の上のことであるが、わが世かなとて、

之を楽しむ深意を暗示してゐて、

この點、その頃の芭蕉の心境を窺ふに足る。

随所に主となる自在の心境は、

樹下石上の禅家の生活と何等異なるところは無い。

この大瓢は、後には市川団十郎の家に傳へられた。

小瓢の方については、「帯はさみ、東都薇木紋水に有」として、

 

許子は捨て、顔子は用う。

これらの人、用捨に分別なしとはいへども、

用るかたにていはば、人みな、 

陸地に波をおこして世をわたる事、

阿波のたるとよりもあやふし。

このひさごのごとく、世をかるうわたるをりは、

風波をのかれて、平地をゆくべし。

かたちはすこし奇なれども、

大なるはたらきなからましやは。

中流に舟をくつがへす時、一瓢千金の心なるをや。

  

枯瓢蚤か茶臼を思ふこゝろ   (『芭蕉庵六物記』)

とあるが、『随斎諧話』に、

  芭蕉庵六物といふは、

文臺號二見、大瓢米入號四山、小瓢帯挟み、檜笠菊の繪、茶の羽織。

  おのおの素堂老人の銘ありて、家の集に見ゆ。

この中、小瓢と大瓢の文章とは、故ありて予家に蔵す。

小瓢は芭蕉歿後松木紋水といふものにつたへ、

それより段々傳えたる趣、明和年間に黑露といふ俳士の傳来書にくはしく有り。

ばせをの三字は真蹟にてたはぶれにしるし置れしを

后に消うしなはん事をぉそれて金塗にてとめたるよし傳書にあり。(下略)

因に云信州の飯田町窪田氏所蔵の瓢は、長さ約六寸で、

   長囁の墓もめぐるかはちたゝき     はせを

   後の夜は酒屋もくぐる鉢たゝき      支考

の句が題してある。安永年間信州の山吹城主喜兵衛より大歳玄信老人へ、

玄信より、窪田家の六代前の主人茶来が受けたものである(勝峰晋風氏による)。

 次に、俳壇については、

  文麟生、出山の御かたちを送りけるを安置して

   南もほとけ草のうてなも涼しかれ

   くだれる世にもと云けむ断れなれや    (『続揖深川集』)

これは、貞享二年のことである。貞享三年の『績虚栗』に、

年の市線香買に出ばやな

とある句も、上の佛前に供へる爲のものであつたらう。

『笈日記』によると

「はせを庵に安置申されし出山の尊像は、

支考が方につたへ侍る。是は行脚の形見奉るべし」

とある。芭蕉の遺言状にも

「支考此度前働驚、深切實を被盡し候。

此の段頼存候。庵の佛則出家之事ニ候へば遺し候」

とあるので、『笈日記』の記事に符合する。

六物記によると、この草庵には素堂より贈られた画菊がある。

 

予が家に、菊と水仙の喜を久しく翫びけるが、

ある時ばせををまねきて、此ふた草の百草に

′ おくれて、霜にほこることく友あまたある中に、

ひさしくあひかたらはんとたはふれ、菊の繪をはなして贈る時、

    菊にはなれかたはら塞し水仙花

素堂は、元禄元年芭蕉庵の十三夜の月見の際には、

自宅から丈山の書を持参して、壁上にかけ、

草庵のもてなしとしたこともある。(『笈日記』)

元緑元年の句によると、囲炉裏もあつた。

 路通曰。木曾の秋に痩ほそり芭蕉庵に籠り居給ひし冬。

   五つ六つ茶の子にならぶ囲炉裏哉  (『茶のさうし』)

そして、有名な古池も、庭内にあつて、

貞享三年の春に「古池や」の一句が出来たのであつた。




芭蕉庵焼失(内田魯庵『芭蕉庵桃青伝』より抜粋 一部加筆)

 

天和二年十二月二十八日、江戸駒込大圓寺より出火し、本郷、下谷、神田、日本橋より本所、深川に延焼し、芭蕉庵赤累に罷る。

(一説には此火災は俗間に著名なる駒込お七の火事なりと云ふ。お七が刑に就きしは天和三年三月にして、之より先天和元年十一月二十八日、丸山本妙寺に火災あれば果して何れの火災なるや未だ考へず。又蝶夢、湖中等を初め此火災を以て天和三年、即ち芭蕉四十歳の時となす者多けれども全く謬説とす。)

俗伝に芭蕉此に災に遭うて、猶如火宅の変を悟り、爰に無新任の心を発したりと雖も、二十三歳致仕して流寓(*原文「流遇」)漂蕩し、相應の惨辛を嘗めしものが、今更に眼の覚めし如く初めて猶如火宅の変を悟るといふも、余りに附会に過ぐ。されど此変が更に人生の悲観を味はしめたるは推測するに難からざるなり。此時芭蕉は急火に囲まれ、身を潮水に投じ藻を披きて難を避けたりと云ひ、或は蓮をかつぎて火煙の中助かりぬとも云へど、恐らくは詩的形容に過ぎざるべし。人家填充して-寸の余地なき繁華の市ならば知らず、昔時の片鄙なる深川に於て、いかで水に入て火を避くるほどの事あるべき。されど又流離困頓の末漸く我が所住を定めしものが、再び災殃の犠牲となりしは、左らぬだに無常の惑多き芭蕉をして、殊に一層厭世の念を高めしめたるや明らけし。後年北枝が火災の難に罷りし時、書を贈りて慰めて日く、

『池魚の災(*池魚の殃 意外な災難・とばっちり。)承り我も甲斐の山里に引うつりさまざま労苦致し候へば御難

儀億のほど察し申候。』云々。

芭蕉が同情の切なる、他に勝りしものありしは勿論なるべし。

芭蕉、甲州旅行及び六祖五平(内田魯庵『芭蕉庵桃青伝』より抜粋 一部加筆)

 

 天和三年春正月、江戸霧雨大洪水ありて、葛飾は-園湖水となりぬ。芭蕉は前年冬に災い羅り、更に此冬水災に嘗められたりといふ説あれども、其眞否確めがたし。案ずるに草庵(芭蕉庵)焼失後直ちに甲州に行き、天和三年の夏まで其地に逗留せしといふ説の方眞なるべし。其頃佛頂和尚の僮僕に、六祖と渾名せる五平なるものあり。一丁の文字なくして徹底せし不思議の奇人なり。芭蕉は常に彿頂に参禅して此五平とは悟道の友なりしかば、其情故にて五平の郷里即ち甲州に行き、五平の家に寄寓したりといふ。六租五平の名頗る小説めきたるをもて且つ此甲州行に関する一事を除き、他に徴すべき証拠なきをもて、仮作人物とする説あれども『奥の細道』には日光鉢石の農夫彿五左衛門あり。此は正直偏固朴訥に近きを以て彿と称せられ、彼は無文辞を悟りたる故に六祖と呼ばれしは、昔時の風習にして怪むに足らじ。『隋斎諧話』に依れば六祖五平は彿頂に参禅せし居士にして、此時既に甲斐の山栖に隠れしを、災後甲州に掛錫せし時、同じ禅師に参ぜし居士たる因縁を以て、五平の家に宿られしなりと云ふ。

又一異説あり。甲州、郡内初雁村(初狩村)に杉風の姉ありて芭蕉は災後杉風の添書を齎らし、暫らく其家に寄寓したれば今も初席村の等々力山萬福寺には、芭蕉の遺蹟数多を蔵し、谷村、花咲界隈には数多の口碑残れりといふ。

天和二年の冬より翌三年の夏まで、凡そ半歳の間甲州に留錫せしが、晋其角等が招請に由りて再び江戸に帰りぬ。『隋斎詩話』(*夏目成美著。文政2年)に此時に

ともかくもならでや雪の枯尾花

の句を作れりとあれども、同書には珍らしき謬説なり。『句選年考』は其角が終焉記の文より判じて、元禄六年の作なるべしと解せり。又『句解参考』には前書を載せたり。曰く、

『壬申の冬三秋を経て武府に帰りし後、諸生日々草扉を敲く、云々』。

壬申は元禄五年なれば何れにしても此年代の作に係る事疑ひなし。






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最終更新日  2021年04月23日 05時12分24秒
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