カテゴリ:著名人紹介
小説家【本名】末雄 【閲歴】 ☆明治四年十二月二十三日金沢市横山町に生る。 ☆同十二年春、養成小学校に入学 ☆十六年、卒業更に今原中学校に入学した。 生来体質が虚弱で医薬に親しむことが多く、憂鬱な少年時代を送ったが、この頃からやっと健康に向った。 ☆同十九年、石川県専門学校に人学、後、幾許もなく学令が改まり第四高等学校となるに及び、同校予科に入学した。 又別に漢学塾へも通った。この頃より歴史や人物詣に興味を持つようになった。 ☆同二十二年十月、父を喪うや、それを機会に、家庭の都合もあって学校を退き、文学を志すに至った。 ☆同二十四年四月、一度は上京したが、間もなく軽微の天然痘にかかり大阪の長兄の許に身を寄せた。 ☆翌二十五年、再び学業を継続するつもりで帰郷したが間もなく越後長岡に去った。 同地で新に発刊された新聞社に入って再起を計る考えであったという。 ☆翌年一月、再び上京、長岡で知った小金井弁代議士の紹介で博交館に入った。博文館入社前、某学校で英語を教えたこともあった。 ☆二十七年八年頃、尾崎紅葉の門に入ると共に専ら創作に志し、 ☆二十九年八月、はじめて「文芸倶楽部」に「薮柑子」を発表した。 ☆同年冬、博交館を退き、神田の下宿に籠り、地方新聞の小説を書く傍ら、芳賀博士の仕事を手伝いなどした。 ☆翌三十年十二月、交壇的に台頭して来た「小栗風薬」が、紅葉の玄関を出て塾を創めるに当たり、柳川春葉と共にこれに加わった。 ☆中山白峰・田中凉葉・泉斜汀・藤井紫明なども当時の同輩である。 ☆三十三年二月、塾を解散、再び筑土前の下宿に移り、三月「美文雑報」記者として読売新聞に入社、神田錦町に移った。 その夏、胃拡張に罹り苦しんだが、治療の傍ら発奮して、長篇『雲のゆくえ』を読売新聞に掲げた。好評を得て文名漸く挙がる。 ☆かくて彼は鏡花・風薬・春薬と共に、所謂紅葉門下の四天王として、次第に認められるようになった。 ☆翌三十四年、読売新聞を退いた。なお常時『怠けもの』・『桎桔』・『前夫人』などの個人主義的な傾向を持つ作品を「新小説」に発表した。 ☆すでに彼は、これ等の作品の中に、後年の人生派的、自然派的傾向を示した。 なお常時、生活のために飜訳・飜案などの仕事にも従った。 ☆三十五年暮れ大阪の長兄を訪ね、翌年二月、更に病を養うために縁者をたよって別府温泉に遊び、 ☆翌三十六年、帰京、四月下宿を引払って、はじめて小石川表町に一戸を構えた。その夏小澤浜子と結婚した。 ☆冬、紅葉山人逝去(この問の消息は、小睨「黴(かび)」の中に詳しく害かれている)。 ☆三十七年秋、長男が生れた。時恰も日露戦争に際し、彼もまた戦争小説を害かなければならなかった。 ☆同年十二月、読売新聞に[少華族]を発表した。翌年冬本郷森川町に移る。十二月、短篇集「花束」を春陽堂より刊行。 ☆三十九年十月、萬朝報に[おのが縛]を掲げた。この作は、翌年五月春陽堂から刊行された。 ☆四十年四月、長篇「焰」を国民新聞に、十月[凋落]を読売新聞に掲げた。 ☆四十一年八月【中央公論】に、短篇[出産≒別項]を発表。九月易風社より「秋聲集」を刊行。続いて十月、当時国民新聞の文芸担当者であった高浜虚子の慫慂(勧め)によって、新しき中篇小説の試みとして「新世帯」を同紙上に発表した。 ☆翌年九月、新潮社より刊行。その自然主義的人生派的傾向によって注目され、世評は甚だ高かった。なおこの年、短篇集「出産」を左久良書房から刊行(四月)。四十三年八月読売新聞に「足迹あしあと」を発表。 ☆翌年八月、夏目漱石の推薦によって朝日新聞に「徽」を掲げ、甚だ好評であった。「微」が四十五年一月新潮社より刊行されるや、世評益々高く、傑作を以て推奨された。同四年「足迹」を刊行。
大正時代
☆大正二年三月、国民新聞に「爛(ただれ)」(別項)を発表。愛慾描寫心技巧の極致を示すものとして好評であった。 ☆同四年二月、読売新聞に「あらくれ」(別項)を、十月、東京朝日に「奔流」を発表。後者は後の通俗小説への橋渡しとなった作である。 ☆同六年二月、東京日日新聞に「誘惑」を、四月「婦人公論」に「秘めたる恋」を掲げた。秋、「犠牲」を発表。 ☆同九年、「蒼白き月」などの好短篇あり、又中外商業新報に「灰塵」を執筆。 この年、田山花袋と共に誕生五十年祝賀会が全文壇によって催された。 ☆同十年、時事新報に「何處まで」(二月)、大阪朝日に「断崖」を執筆。「婦人公論」に「呪咀」、「婦人之友」に[闇の花]を掲げたのもこの年である。 ☆同十一年、東京日日に「二つの道」他に「或売笑婦の話」以下の短篇を多く発表した。 ☆同十二年六月、自伝的中編「無駄道」を報知新聞に掲げた。 ☆十三年「中央公論」に[不安のなかに](一月)、「車掌夫婦の死」(四月)、[改造]に「花が咲く(四・五月)、[風呂桶](八月)等の短篇を発表し好評であった。一月以来「婦人之友」に[草は蔓る]を執筆。 ☆十四年、「挿話」「未解決のまゝに」「籠の鳥」どの短篇多く、東京日日に「蘇生」を掲げる。 ☆十五年一月夫人を喪う。「折鞄」(改造四月)、「過ぎゆく日」中央公論四月、「逃げた小鳥」(同七月)、「元の枝へ」(改造九月)、「暑さに喘ぐ」(中央公論九月)等の作がある。山田順子と心恋愛事件を伝えられたのはこの頃である。 ☆昭和期に入ってからも短篇多く、心境の深さと技巧の円熟を示すものがある。「歯痛」(昭和三三年一月、中央公論)、「芭蕉と羊齒(昭和三年十月、中央公論)、「和解」(昭和八年八月)、新惣は特に注目すべき作である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月22日 15時42分15秒
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