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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月04日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂著 **『鳳茗記』** 

凡茶のたねの、わが日の本にわたりしは、建仁寺の開山千光国師、栂尾の明恵上人、同船に入唐して携へ来たり、筑前の背降山に植え染めしか也。是を岩上の茶と号す。それを栂尾へ移し、宇治へ移す。

それより以前も、日向国建千穂といふ所に、神代の木あり。しかれどもこれを摘み、是を焙じて飲む事をしらず、あれどもなきがごとし。数奇の字、漢書李廣が傳に見えたれども、茶のとにあらず。茶の方式は、東山慈照院義政公、天下の名器をあつめて、茶の會を催ほし玉ふ、此の時都より珠光を召て、それより能阿彌、相阿彌、藝阿彌と伝来して、泉の境に武田紹鴎、此道をうけつぎ、崇易に傳ふ、利休と號す。秀吉にめし出され、三千石にて御取立、天下の大名小名、もてはやすといえども、故ありて天正十九年二月廿八日、切腹おほせられ、年七十。惣領道庵は出奔して病死す子なし、二男少庵は曾津蒲生飛騨守殿へ御預けなされ、七十の後御赦免、其子宗旦、宗旦に三子あり、宗左・宗専・宗室、この三男洛陽のありて、茶道の師範たり。扨て茶の種国々へはびこり、中人以上は煎茶を用い、中人以下は煎じ茶を用う。しかれども、貴人にて煎じ茶を好みたまふり、また賤しきものにも挽き茶を好めり。そのたのしみに於いては一也。それ人の人人たる道は、礼儀を大なりとす。鳥獣にも塞暑をしり、死をおそるゝことは人に同し。かれには礼儀なし、礼は飲食蓄え、手にて汲むの時、はや礼儀は備はれり、それよまゐれ、いやそれよりといふを以て、礼の字をいやと訓す。されば茶に天然と礼儀あれば、少年の人に、六藝の外に一藝くはへて、茶の式法を教ふべきことなり。

物みな一得あれば一失あり、茶には得りて失なし。

また近きころ、鎌倉雪の下に、了明といふ尼、三十路あまりより食を絶ち、茶のみにて(以下欠文あり)神に備えて、清浄なるもの、茶よりまされるはなし。是をしたしみ、これをたのしむべきのみ。

 

 武野紹鴎

名を仲材といひ、幼名は吉野松菊丸。通称は新五郎といった。文亀二年((甲斐所縁の人)1502)大和に生まれ、のち泉州堺に移り、享禄三年(1530)九月従五位下に叙し因幡守に任ぜられた。紹鴎は(甲斐)武田信光の後裔で、祖父仲清は応仁の乱に戦没し、父新五郎信久は孤児となって諸国を流浪した後、堺に永住した。紹鴎は自らの姓を武野と改めた。二十四歳で上洛して、和歌を三条西實隆に学び、大黒庵と称し、剃髪して紹鴎一閑居士と号した。永禄元年(1557)十月、五十三歳で没した。茶道に於いて前人未踏の境地を開いた。(『千利休』桑田忠親氏著)






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最終更新日  2021年04月22日 05時52分52秒
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