カテゴリ:山口素堂資料室
素堂の生年月日と通称 さて次は生年月日であるが、『甲斐同志』(以後『国志』と略す)は寛永十九壬午年五月五日としているが、明和八年(一七七一)の資料は一月四日(『連俳睦百韻』寿像感得記・三世素堂著)と有る。どうやら『国志』の五月五日説は「童名重五郎」名を引き出すための日付である。 同様に、通称についても「連俳睦百韻」の序の著者で、素堂の親族と云う寺町百庵は、 『山口素仙堂太良兵衛信章、俳名来雪、其後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。其の弟に世をゆずり…云々』と家督期の称を「太良兵衛」とし、また「松兵衛」(「とくとくの句合」雷堂百里跋・享保十二年・一七二七)とあって「官兵衛」名は無い。まして市右衛門の名は見えないのである。「市右衛門」については後で紹介するとして、官兵衛に固執して見れば、山口殿と称された寛永十八年赴任の「甲府御城御番衆」で「山口官兵衛直堅」(四千石)であろうか----。 こうして見ると、素堂の「生い立ち」は『国志』に依って述べると、実に不安定な状態になり、他の記事も誤りが多くあり始末が付け難くなる。『国志』編纂時(享和三~文化十一年一八〇三~一四)には、如何程の素堂に関する資料が、甲斐国内に残されていたのであろうか…。 何はともあれ素堂に関係する記述の殆どは、『国志』成立以降のもので有った訳である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月22日 05時31分10秒
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