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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月05日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂の実家

 

素堂の実家についても『国志』はどんな職業であったか述べていない。百庵も「其弟に世をゆずり…中略…後、桑村三石衛門に売り渡し、佗家に及ぶ」と商家であった事を匂わせ、他の書本でも「酒造業」と懸けているのも有るが、これで即「市石衛門家」に繋げる事は出来ない。兎角、実家は富裕で有ったらしい事は想像できる。

現在のところ、素堂に関する良好な資料は見出せないでいる。従って「生い立ち」自体が霞の中であるが、一つ言える事は、素堂は甲斐の生まれでは無く江戸で有るらしい事。

素堂は好学のために「少小ヨリ四方ノ志アリ婁々江戸ニ往還シテ」と『国志』にはあるが、門人子光は「素堂句集」の序で「弱冠遊四方」と。晩年の素堂の生活の面倒を見たと思われる子光は「二十才頃より各地を遊歴」と云う。

「少小」で林春斎に就いて漢学を学ぶ事は肯定できるが、

少小とは子供の頃の事で、それでは素堂は親と甲府に出て酒屋を営み繁栄した『国志』の記載は在り得ない事になる。弱冠とは二十歳のことで、『国志』記事は不確かとなる。

また茶を宗丹(旦)師事とすると、千宗旦は没年が万治元年十二月、素堂十七才の時となる。尤も親友と成った山田宗偏が宗旦に就いたのが十六才であるから、年齢はどうと云うことにはならないが、宗偏は正保の始め頃に宗旦に師事し、明暦元年に推されて小笠原忠知の茶道指南となった。その四年後に宗旦は八十一才で没した。素堂が宗旦に師事するためには遅くとも明暦の初めには京都へ行かなくては(素堂十四才)ならないとすると、林家塾に入るのは宗旦の没後と云う事にしないと、辻褄が合わなくなる。

 

『国志』の記載はその後の素堂伝に大きな影響を及ぼしている。特に濁川改浚工事の責任者の件は確かな資料を持たずに有名になって独り歩きする。虚実でも複数の同様な記事は読む人に史実として伝わり、しかもそれは定説となる大きな要因ともなる。定説化の主因は高名な人が書す事と繰り返し同説を掲げる事であり、これは歴史に良く見られる「歴史洗脳」とも云える。『国志』以外に素堂の動向を伝える文献は何処にあるのであろうか。

 

 素堂周辺の資料からは元禄九年の動向は不詳で、これは素堂の生涯で度重なる不幸に原因していると思われ、それは元禄五年の妹の死去、元禄七年には朋友松尾芭蕉と妻の死去、元禄八年には長く連れ添った母と死別、更に元禄九年一月には親友人見竹洞が死去して生涯で最も辛い時期となっていた。こうした事実は『国志』には記載されてはいない。これまで「素堂は妻を娶らず」従って「素堂には子供がない」、そして素堂の母の没年は甲府尊躰寺の墓石の元禄三年刻字「老母山口氏市右衛門尉建立」を根拠に元禄三年が定説になっているが、素堂には妻も子供もいて嫡孫まで確認でき、しかも素堂の母の没年は確かな資料で元禄八年夏の事である。

 元禄八年には素堂は亡き母の生前の願いの甲斐身延詣でに江戸深川を出発する。(『甲斐記行』)道中記には俳諧や漢詩もあるがこれも山梨県ではどうした事か紹介される事が無い。素堂は尊敬する元政上人が母を伴い身延詣でをしたのを羨み身延詣でに出立したのである。道中の紀行『甲山記行』の「甲斐は妻の故郷」「甲斐府中外舅野田氏を主とする」の言は素堂の出自に及ぶ大切な部分である。野田氏は確証がないが当時の甲府代官野田勘兵衛が有力で勘兵衛の父同じく甲府代官野田七右衛門ではないかと思われる。野田氏は素堂の妻の父であるがこれも諸本には見えないし研究もされていない。素堂は寛文元年(1691)に江戸に出る(二十歳ころ)とされるが、前年の万治三年には府中は大火災に見舞われ府中は殆ど消失する。山口家が如何に富豪であれ家督相続した長男素堂が母を連れこの時期に江戸に出ることなどは有り得ないしそうした記載資料は見えない。寛文年間の山口家市右衛門の母は今諏訪村に在住していたことが資料により判明している。素堂と山口屋市右衛門家は資料からは関係のない家系と思われる。後世の安易な結びつけがこうした誤伝家系を生む結果となったのである。

 当時の俳諧での地位と信頼度は芭蕉より樹幹たちとの交遊など素堂の方が高く、芭蕉も素堂を先生と称した事は有名である。現在俳諧中興の祖とされる芭蕉の俳論の中には既に素堂が予兆を表わしている(更科紀行跋文ら)。これは資料で確認が出来るのに一部の研究者のみに扱われ、多くは何故か無視され論外になっている。

素堂は俳句の世界では芭蕉の陰に追われ業績を認めてもらえない犠牲者でもある。






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最終更新日  2021年04月22日 05時30分20秒
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