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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月05日
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カテゴリ:山口素堂資料室

《系譜に見る素堂》

系譜に見る素堂は様々な顔を持っている。『甲斐国志』の以前と以後ではその内容が大きく異なる。

 

一、『 歴代滑稽傳』許六著 正徳五年(1715)素堂七十四才。

江戸山素堂は隠士也。江戸三吟の時は信章と云。幽山八百韵は来雪と云。芭蕉翁桃青と友トシ善シ。後正風の体を専とす。

 

二、『綾錦   沾凉編 享保十七年(1732)六月刊。

祖 北村季吟----桃青 中興一流祖 住新大橋 号芭蕉翁。本土伊賀上野。松尾藤七郎 

季吟門----素堂 山口今日庵。始ハ云信章又来雪トモ云。享保二八月十五日卒齡七十五 墓、住本所有墳谷中感応寺。

 

三、『誹諧家譜拾遺集』丈石編 明和八年(1771)一月刊。

祖 松尾芭蕉----素堂 山口氏稱 今日菴ト  名信章、號来雪 住東府 享保二丁酉年八月十五日歿。齡七十五。

 

四、『連俳睦百韻』寺町百庵著 安永八年(1779

山口太郎兵衛 信章 来雪    来雨 素仙堂の「仙」の字を省き素堂。

 

五、甲斐国志  編 文化十一年(1814

祖 北村季吟----素道(堂)山口氏。信章  来雪 字、小晋・公商

 

六、蕉門諸生全傳 曰人編 文政中期(1818~30

甲斐酒折産也 神職ノ人也 葛飾隠士 信章斎来雪 號山素堂 性巧俳句及詩歌而 名品其矣。享保元年八月十五日歿。 法名 廣山院秋厳素堂居士 碑面 本所中ノ郷原町東聖寺松浦ヒゼン守隣ナリ

 

七、俳家大系図 春明編 天保九年(1839

祖 北村季吟---素堂 山口氏 名信章 字、子達・来雪・復白蓮 享保元年八月十五日 谷中感応寺

 

八、葛飾蕉門文脈系図 錦江編 嘉永期(184854) 

祖 山口素堂

 

九、葛飾正統系図 錦江編 嘉永三年(1850

祖 山口素堂

 

『葛飾正統系図』甲府市史 資料編 第4巻 近世3

第一節  俳文芸

『葛飾正統系図』嘉永三年(1850)山梨県立図書館蔵甲州文庫。馬場錦江自筆稿本。

 素堂の伝記については、松平定能の編集の『甲斐国志』(文化十年成)によるところが多い。

 

『葛飾正統系図』

山口素堂芭蕉翁と酬和し、正風体の俳諧を創建して、葛飾隠士、其日庵素堂といふ。葛飾正風と号す。其日庵を以て葛飾正統の崇号として連綿たり。葛飾正風大祖芭蕉翁友人

☆素堂

其日庵 初名来雪 号山口霊神 始信章斎 素仙堂 蓮池翁 今日庵 俗称山口官兵衛 幼名重五郎 又市右衛門 隠名素道 又素堂 姓源名倍章 字子晋 号葛飾隠士

    略 伝

葛飾正風之大祖其日庵素堂、姓ハ源、名ハ信章、字ハ子晋、通して官兵衛と言ひ、後素道と改め、又素堂といふ。其先世々甲州巨摩郡教来石村山口に居住するに依りて山口氏を号す。山口市右衛門某の長男なり。寛永十九年壬午五月五日生るるによって幼名重五郎と名づく。芭蕉庵桃青は正保元年甲申生れる。素堂長ずる事二歳也。父の家を受けて家名市右衛門と改、後甲府魚町に移り、酒折の宮に仕へ頗る富るを以て時人山口殿と称せり。

其いとけなき時より四方に志ありてしばしば江府に往還し、林春斎の門に入りて経学をうけ、洛陽に遊歴して書を持明院に学び、和歌を清水谷家にうけ、連歌ハ北村季吟を師とし、松尾宗房(後芭蕉庵桃青)を同門とし、又宗因・信徳を友とし、俳諧を好み来雪と云、信章斎と号す。又今日庵宗丹が門人となり喫茶をよくし、終に今日庵三世の主となる。然して家産を弟に譲り市右衛門を称せしめ、みづから官兵衛とあらたむ。時に甲府殿の御代官桜井孫兵衛政能(九丗其日庵錦江外祖父桜井忠左衛門政直末流の先人なり)其の才能ある事を知り招きて僚属とす。致仕して後江戸東叡山下に寓居し名を素道と号し、人見竹洞を友とし、諸藩に講し、儒を以て専門とし、詩歌を事とし、茶・香・聯俳を楽しみ、又ハ琵琶を弾じ、琴をすがき、或ハ宝生流の謡曲をも好む此の時既に素仙堂の号あり。天和年中一旦世外の思ひを発し、家を葛飾の阿武に移し、芭蕉庵桃青の隣人とし、共に隠逸を楽しミて葛飾の隠士素堂といひ、其日庵を標号とし、桃青と志を同じくして正風体の俳諧を起立し、桃青を開祖とし、素堂ハ葛飾正風と号せり。此時桃青ハ庭上に一株の芭蕉を植て芭蕉庵と号し又芭蕉翁とよばれ、素堂ハ一泓池をうがちて白蓮を植て蓮他の翁と称せられ、『三日月の日記』にも蓑虫の贈答にも世に高尚と称せられて或は賓となり或ハ主となり、蕉翁ハ法界の蕉、素翁ハ禅庭の栢ともきこえしハ素翁の庭に栢ありし故なるべし。斯くて蕉翁四方に雲遊の間、素堂常に東武の教導をうけがひ其遊歴を心安からしめ、芭蕉死するの後、元禄八年乙酉素堂年五十四、甲陽に帰り父母の墓を拝するの時桜井政能に見ゆ。政能の曰く、此頃甲州の諸河砂石を漂流し其瀬年々に高く、河水溢れ流れ濁河の水殊に甚しく、山梨の中郡に濡滞して其禍を被る事十ケ村に及び、逢沢・西高橋の二村地卑しくして沼淵となり、雨ふる時ハ釜をつりて炊ぎ床をかさねて坐し、禾稼腐敗して収する事十分の二三に及ばず。政能是をうれふる事久し。足下我に助力して此水患を除んやといふ。素堂答へていふ。人ハ是天地の役物なり。可を見てすすむは元より其分なり。ましてや父母の国なるをや。友人桃青も先に小石川の水道の為に力を尽せり。勉め玉へと言ひて遂に承諾す。政能よろこび江府に至り其事を公庁に達せんとするに、十村の民道におくり涕泣してやまず。政能眷(カエリミ)ていへらく「事ならざる時ハ汝等と永く訣れん。今より官兵衛が指揮をうけてそむく事なかれと。素堂是より復び双刀をさしはさみ又山口官兵衛と号す。幾程なく政能帰り来る。官兵衛また計算に精けれバ夙夜に役をつとめ、高橋より落合に至り堤をきづき、濁河を濬治し笛吹川の下流に注ぎ、明年に至りて悉く成就し、悪水忽ちに流れ通じて沼淵涸れ、稼穡蕃茂し民窮患を免がれ、先に他にうつれるもの皆旧居に復し祖考の墓をまつる。村民是に報ぜんが為に生祠を蓬沢村の南庄塚といふ地に建て、政能を桜井明神と称し、官兵衛を山口霊神と号し、其祭祀今に怠る事なしといえり。しかして其の事終れば素堂速に葛飾の草庵に帰り宿志を述べて俳諧専門の名をなせり。

 

参考『甲斐国志』

素道 『甲斐国志』巻之百二 士庶の部

素道 山口官兵衛ト云。姓ハ源、名ハ信章、字ハ子晋、一云公商。其先ハ州ノ教来石村山口ニ家ス。因ッテ氏ト為ス、後ニ居ヲ府中魚町ニ移ス。時人ハ山口殿ト称ス。信章ハ寛永十九年壬午五月五日生ル。故ニ重五郎ヲ童名トス、長シテ市右衛門ト更ム、蓋シ家名ナリ。自少小四方ノ志アリ。屡々江戸ニ往還シテ、受章句於林春斎、亦遊‐歴京都学、書於持明院家、和歌於清水谷家、連歌ハ再昌法印北村季吟ヲ師トス。松尾宗房ト同門ナリ。茶ハ今日庵宗旦ノ門人ナリ。俳諧ヲ好ミテ宗因(号梅翁大阪人)信徳(伊藤氏京都人)等ヲ友トシ仮ニ来雪ト號ㇲ。亦號今日庵、蓋シ宗丹カラ授カル所カ。遂ニ弟ニ家産ヲ譲リ、(弟ハ)市右衛門ヲ使イ称スル、自ラ名ヲ改メ官兵衛、時ニ甲府殿ノ御代官櫻井孫兵衛政能ト云者能ク其能ヲ知リ、頻ニ招キ為メニ寮属トナリ、居ルコト数年、致仕シテ東叡山下ニ寓シ、専ラ儒ヲ以テ售ル、人見友元(竹洞)ヲ学友トシ、諸藩ニ講ジ詩歌ヲ事トス、傍ラ茶・香・聯俳・演劇・平家等ニ及ベリ。一旦世外ノ思ヲ発シ、家ヲ葛飾阿武ニ遷ス、是芭蕉庵桃青、伊賀人松尾甚七郎、初風羅坊、元禄中歿年五十三ノ隣壁ナリ、二人ノ者、志シ同ジク、先師季吟ノ教ヲ奉シテ諸藩ニ講シテ、正風体ノ俳諧ヲ世ニ行ハントシ、更ニ名素堂 堂又作道同 実ニ天和年間ノ事ナリ。

元禄八乙亥歳 素堂五十四才ノ年帰郷シテ拜父母墓旦謁櫻井政能 前年甲戊政能擢為代官触頭在府中 政能見素堂喜ヒ抑留シテ語及濁河事 嘆息シテ云、濁河ハ府下汚流ノ所聚頻年笛吹河瀬高ニナリ、下水道壅カル故ヲ以テ濁河ノ水、山梨中郡ニ濡滞シテ不行、本州諸河漂‐流砂石其瀬年々高シ 民苦溢决至今尚爾為国ノ病實ニ甚シ、山川部ニ委シ、被水禍者十村就中、蓬澤、西高橋二村ハ最モ曵地ニシテ田畠多クハ沼淵トナリ。當此時村人捕魚鬻四方換食、蓬澤ノ鮒魚名于州ト云。雨降レハ釣釜重床田苗腐敗シテ収穫毎ニ十之二三ニ不及、前ニ歿居者数十戸、既ニ新善光寺ノ山下ニ移レリ。餘民今猶堪ヘザラントス。政能屢々之ヲ上ニ聞スレドモ、言未ダ聴カレズ、夫為郡観民患乃救之コト不能ヤ、吾辨テ去ント欲ス。然ドモ一謁閣下自陳事由决可否ヘシ、望ミ請フ、足下姑ク此ニ絆サレテ補助アランコトヲ。素堂答テ云、人者コレ天地ノ役物ナリ観可則進ム、素ヨリ其分ノミ、況ヤ復父母ノ国ナリ、友人桃青モ前ニ小石川水道ノ為メニ盡力セシ事アリキ、僕謹テ承諾セリ、令公宜専旃ト政能大ニ喜テ晨ニ命駕十村ノ民庶啼泣シテ送其行、政能顧謂之云、吾所思アリ、到江戸直訴ントス、事不就トキハ見汝輩コト今日ニ限ルヘシ、構ヘテ官兵衛ガ指揮ニ従ヒ相乘乖クコトナカレ云々。素堂ハ薙髪ノマゝ挟双刀、再称山口官兵衛、幾程ナク政能帯許状江戸ヨリ還ル。村民ノ歓知ヌベシ、官兵衛又計算ニ精シケレハ、自是夙ニ勤役夫濁河ヲ濬治ス、自高橋至落合築堤二千百有餘間導キテ笛吹河ノ下流ニ會セ注ク、明歳丙子月日落成ス、悪水忽チ流通シ沼淵涸レ稼穡蕃茂シテ民窮患ヲ免ル、以前奔他者皆奮居ニ復シ修祖考墓コトヲ得タリ。於是生祠ヲ蓬澤村南庄塚ト云所ニ建テ、称櫻井明神併山口霊神、歳時ノ祭祀至今無怠聊報洪恩ト云、素堂其事畢リ蚤ク葛飾ノ草庵ニ還去リ、亦述ニ宿志遂ニ桃青ト共ニ俳諧専門ノ名ヲ為セリ。享保元年丙申八月十五日逝ス、歳七十五、葬谷中感應寺、甲府尊體寺ニモ碑アリ、法諱、眞誉桂完居士。政能ハ同十六年辛亥年二月十四日逝ス歳八十二 素堂ヨリ少ナキコト八歳、元文三戊牛七月、政能ノ姪斎藤六左衛門正辰ト云者、奉役テ本州ニ来リ。御勘定方ナリ、毛見ノ観察ヲ奉ハル、先是享保十八年丑年ニモ来タリ。祠前ニ樹石記其事倭漢二章全文ハ附録ニアリ。 

 

『甲斐国志』素道 巻之百二 士庶之部

素道の記述検証

 

素道 山口官兵衛と云う。姓は源、名は信章。字は子晋。一に公商とも云う。其の先は州の教来石村山口に居住する。因って氏と為す。後に居を府中魚町に移す。家頗る富み、時の人は山口殿と称す。

 

素堂は生涯「素道」や「山口官兵衛」を名乗った形跡は見えない。元禄六年江戸幕府家屋調査によれば「山口素堂」とあり、これが本名である。「信章」は俳諧書に見える初号で、次が「来雪」で以後は俳号も「素堂」統一される。字の子晋も不明で調査資料には見えない。これについて最初素堂の傍らにいた其角は「晋子」を名乗っていたが、素堂と人見竹洞などの儒学者との関係でも「素堂」である。「公商」は不明。「其の先は州の教来石村山口に居住する。」の「其の先」は「祖先」のことか、「最初に山口家が住んで居た所」「素堂が家族と共に住んで居た所」などの解釈が出来る。「因って氏と為す。」は「教来石村山口」をもって山口を苗字となしたと解釈できるが、素堂生家跡の場所は山口番所もあり、疲弊した場所で周囲の墓石調査からも素堂が没した享保以後のものしか確認できない。この石碑は『甲斐国志』から引用して昭和40年代に行政が設置したもので、位置も資料から導き出されたものではない。周囲には素堂縁者と名乗る家もあったが、これも何ら実証される資料を持たない。「後に居を府中魚町に移す。」これも白州町や甲府市の当時の資料調査からは実証できず、魚町の山口屋は酒造業を営んでいたが、小規模な店で「家頗る富み、時の人は山口殿と称す。」と云う様な家柄ではなかった。何故この山口家が素堂家と結びついたかは『甲斐国志』のみの知るところである。歴史家や文学者は歴史やその人物を創作する癖が見える。

 

 

信章は寛永十九年壬午五月五日生れる、故に重五郎を童名とする。長じて市右衛門と改める。蓋し家名なり。

少々より四方の志あり。屡々(しばしば)江戸に往還して章句を林春斎に受ける。亦京都を遊歴して書を持明院家に学び、和歌を清水谷家に受け、連歌は再昌院法印北村季吟を師とする。松尾芭蕉と同門なり。俳諧を好みて西山宗因梅翁と号す大阪の人、伊藤信徳氏京都の人等を友とし、素堂は仮に来雪と号す。亦今日庵と号す。蓋し宗旦(千宗旦)から授かる所か。

遂に舎弟某に家産を譲り、(弟は)市右衛門を襲名し、自(素堂)らは名を官兵衛と改める。時に甲府殿(徳川綱豊)の時の御代官桜井孫兵衛政能と云う者、能く其の能を知り、頻繁に招きて僚属と為す。居る事数年、致任して東叡山下に寓し、専ラ儒を以て售(ウ)る(生計を立てる)。人見友元を学友とし、諸藩に講じて詩歌を事とする。傍ら茶、香、聯俳、演劇、平家等に及ぶ。一旦世外(世間を脱して)の思を発し家を葛飾安武に還す。これは芭蕉庵桃青伊賀の人松尾甚七郎、初風羅坊、元禄中没、年五十三の隣なり。二人の者、志し同じにして先師季吟の教えを奉じて、正風体の俳諧を世に行おうとして、名を素堂とあらため堂又道に作る同じ、實に天和年間の事なり。元禄八乙亥素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝する。且つ桜井政能に謁す(目上の人に会う)。前年甲戊政能擢され御代官触頭の為め府中に在り、政能は素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。嘆息(嘆いてため息をつくこと)して云う。濁河は府下汚流の聚(アツ)まる所、頻年笛吹河瀬高になり、下の水道の壅(フサ)がる故を以て、濁河の水は山梨中郡に濡滞して行かず。本州の諸河は砂石漂流して其の瀬年々高い。民は溢決に苦しみ、今に至るまでそのようで国の病と為す。實に甚し。(これは)山川の部(『甲斐国志』)に委しい。水禍を被る者十村中に就き、蓬澤、西高橋二村は最も卑地にして田畠の多く沼淵となり。此の時に当たり、村人は魚を捕へて四方にて食に換へる。蓬澤の鮒魚于州に名高いと云う。雨降れば釜を釣り、床重なる。田畠も腐敗して収稼は毎二十のうち二三に及ばず。前に居を没する者数十戸は、既に新善光寺の山下に移る。餘民は今猶堪えている。政能はしばしばこれをお上に伝えたが、未だに聞き入れてもらえない。それ郡の為、民の患いを見てこれを救うこと不可能か。われは事情を説明して去るつもりだ。然れども閣下(目上の人への敬称)に一謁して自の事の由を陳べ、可否を決すべく望み、足下(貴殿)にここに絆されて補助あらんことを謂う。素堂は答え云う。人はこれ天地の役物なり。可を観て則ち進む、素より其分のみ。况や復父母の国なり。友人桃青も前に小石川水道の為に力を尽せし事ありき。僕謹みテ承諾せり。公のおうせにこれ勉て宜しくと。政能は大いに喜んで晨(あした)に駕す(江戸への旅立ち)ことを命ずる。十村の民庶蹄泣して、其の行を送る。政能顧て之れの謂われを云う。吾れ思ふ所あり、江戸に到りて直ちに訴えんとする。事が就ざるときは、汝輩(政能)を見ることは今日に限るべし。構へて(心して)官兵衛(素堂)が指揮に従い、相叛く事なかれと云々。素堂は剃髪のまま双刀を挟み、再び山口官兵衛を称する。幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。村民の喜びは計り知れない。官兵衛又計算に精しければ、これより夙夜(一日中)に役夫を勒して濁河を濬治(流れをよく)する。高橋より落合に至る堤を築き、二千一百有余間を導いて、笛吹河の下流に合わせそそぐ。明歳丙子(元禄九年)月日落成する。悪水忽ち流通し沼淵涸れは、稼穡蕃茂して民は窮患をのがれる。以て前に他に移った者も皆な舊居に復して、祖孝墓を修ことを得たり。是に於いて生祠を蓬澤村南庄塚と云う所に建て、「桜井明神」と称し「山口霊神」と併せ歳時の祭祀は今に至るまで怠り無く、聊(いささか)洪恩(大きな恩恵)に報いんと云う。素堂は其の事が畢(おわ)り蚤(はやばや)と葛飾の草庵に還り去り、亦宿志(かねてから抱いていた志)を述し、遂に桃青と共に俳諧専門の名を成せり。享保丙申元年(1716)八月十五日逝す。歳七十五。谷中感應寺に葬す。甲府尊躰寺にも碑あり。法諱は「眞誉桂完居士」。政能は同十六辛亥年(1731)二月十四日逝す。歳八十三歳、素堂ヨリ少ナキ事八歳元文三戊午年(1738)七月、政能姪斎藤六左衛門正辰と云う者、役を奉じて本州に来たり、御勘定方毛見(年貢額を定める役職)の鑒札を奉わる。是より先享保十八丑年(1733)にも来て祠前に石を樹て其の事を記す。

和漢二章の全文は附録にあり。

 

●斎藤正辰建立 地鎮碑名「甲斐国志」附録の部 

読み下し                         

甲州の蓬澤・西高橋両村、濁河の剰水を受け大半は沼となって数十年、近隣の七邑も亦同じである。ことに両村は甚だしい。雨が降れば則ち船に非ずば行くべからず。民は荷物を担いて出づ。河魚の疾いは但に与にするを焉禾黍も実らず、饑□野に盈ツ。将に不毛の地と為らんとす。元禄甲戊桜井孫兵衛源政能、郡の為に于邑に至る。民庶は蹄泣して濬治の計を請う。政能は諾し明る年乙亥(元禄八年)帰りて老臣に遡へて其の事を甚だしく勤めた。国君はこれを恤し(憂い)、明る年丙子(元禄九年)新に政能に命じて検地の功を鳩じ西高橋より落合村に至る堤二千一百余間と泥を開いて塞を决き濁河の流れを導いて笛吹川に会せ遂ちて止む。是に於て土地は沃乾き、家穡は蕃蕪す。民は以居すべく、租も以て入るべしと。政能の死してから久しい。而して両村の民は愈々その恩を忘れることは能はず。乃ち、政能を奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳これを祀る。あゝ生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るはいにしえの典也。余、後来其の所由を失うを恐れ、遂に書を石に勒(ロク)すとかく云ふ。

 元文三年七月 (1738)斎藤六左衛門正辰







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最終更新日  2021年04月22日 05時19分50秒
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