2303516 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年05月05日
XML
カテゴリ:山口素堂資料室

多くの書に、素堂は季吟の門人とされ、多くの辞書や参考書にもそのように記載されている。
これは大きな間違いで、素堂の初出の伊勢加友の編んだ『伊勢踊』は素堂の事を書いている。
素堂は俳諧に於いてはこの集が初めてでも以前からの知名度があったことが理解できる。

<参考>季吟の伊勢日記の文中次の個所見える。

十一日 

 

林照庵に招れて、清水谷沢、定道、元次なと。

漢和之俳諧なとしてあそふ。庭に姫百合咲たるに。

 

姫百合よお児にて見たてまつらまほし

 

寺僧逸風、生東、一阜なと出来て、句題を望みて、詩歌有しに、

杜鵑来啼と云事を、

 

 鳴わたる声も雲井のほとゝきす都を偲ぶ音そへよとや

 

院主加伝は加友法師の弟子也。加友は京にのほりて、

拾穂亭にも尋来て、たたび俳諧なとせし人なれは、

紫ならねと、ゆかりおほえて、いとなつかし、

歌よみ詩つくれり寺僧もとりどりに、

谷沢の子鈴淵また若くて、寺前見松といふ題も探得て、

翠松日夕寺門前、面目有光風月辺なといひし。いと興あり。

 




山口素堂の俳諧資料の初出は、寛文八年(1668)刊行(素堂26才)の「伊勢踊」(五句人集)からである。この集の編者春陽軒加友は、素堂(信章)の発句を大切に扱っている所を見ると、これ以前から、何処かである人から俳諧の手ほどきを受けていたようである。系図やその他の資料では、「素堂は北村季吟門」と芭蕉と同じようにされているが、これは間違いで『季吟二十会集』を見れば理解できる。また、素堂の初期の本名は「信章」とされているのであるが、雅号であるのか本名であるのか、全く不詳である。

 但し公式文書には「山口素堂」とあり、『甲斐国志』の云う様な「官兵衛」や「市右衛門」は名乗った形跡は無い。初号信章や短期間使われた来雪は雅号である。

素堂は家族とともに甲斐山口から出て甲府に住んで富を為した『甲斐国志』にはある。その国志には

「自少小四方ノ志アリ。屡々江戸ニ往還シテ受章句於春斎。亦遊歴京都、学書持明院家、受和歌於清水谷家。連歌ハ再昌院法印北村季吟ヲ師トス。***中略***茶ハ今日庵宗丹門人ナリ」

とある。しかしこの辺りも裏付ける資料は少なく心もとない説である。また、「少小」とは元服前の子供、つまり少年の事である。

「素堂は少年時より四方に遠遊する志しを持ち、繰り返し江戸を往来して、文詞を林春斎に受ける。また京都に遊歴(学)して書を持明院家に学び、和歌を清水谷家に受ける。以下略」

 

《参考資料》『素堂句集』享保六年(1721)子光編。  

弱冠より四方に遊び、名山勝水、或いは絶(すぐれ)たる神社、或いは古跡の仏閣あますこと無く歴覧す。亦かぞふるに叶ふ師なり。詩歌を好み猿楽嗜み、和文俳句及び茶道に長けたるなり。云々

 

《参考資料》『摩訶十五夜』明和二年(1765)山口黒露編。(甲斐国志以前)

学は林春斎先生の項高弟、和歌は持明院殿の御門人なと、和温の方に富といはんや。月の前に扇とりてさしかなでつ。舞曲は宝生良監秘蔵せし弟子入木道の趣、茶子の気味は葛天氏代の好き者也と拝し給ひし。あるは又算術にあくまで長じけるも、隠者におかし。云々

 

 しかし幼少の頃甲府に出て一代を成して「山口殿」と呼ばれ、また桜井孫兵衛(政能)に仕え、との国志の記述は無理がある。(この項は別記)

子光の「素堂句集」(享保六年)序で「自弱冠遊四方名山勝水云々」と記す。「弱冠」とは二十才を称する語で、定説の如く成っている。つまり、弟に家産を譲って江戸へ出たとする頃で、寛文元年頃と云う事になる。

この前年には甲府を大火災に見舞われ、魚町も類焼している。こうした中を素堂は江戸に出たのであろうか。『甲斐国志』の素道の項は講談調で異常な文体である。

若い頃の素堂が林家の家塾に入り、学んだ事は同門の人見竹洞が「林門三才之随一(含英随記)と評しているし、甥の黒露の「摩訶十五夜」(素堂五十回忌追善集)に「学は林春斎先生の高弟」と記述する。《升堂記》には元禄六年の条に素堂の名が見える。しかし門人の位置づけではなかったが、その後の儒官らとの交友関係からは、何らかの関係を保っていてこれは宝永七年(1710)の河合曾良宛て書簡でも確認できる。

寛文三年(1663)には私塾が幕府より弘文院号が与えられた。この時素堂は二十二才。「自弱冠遊四方名山勝水云々」と林家か人見竹洞の仕事に関与していたと思われる。春斎が没する延宝八年五月以前(前年の秋)に退隠し、素堂は主君に別れを告げるために唐津を訪れ、新春を迎えている。「二万の里唐津と申せ君が春」以後江戸にもどった素堂は隠逸生活に入るのである。しかし素堂は芭蕉を始め当時の名立たる俳人、隠逸者間との交友は深めていった。また素堂の江戸屋敷は広大であり、別に四百余の抱屋敷土地まで所有していた。この土地は伊那半十郎家の跡地であり、芭蕉庵を包含していたと推察される。

 素堂が俳諧に手を染めたのは寛文の中頃と推定し得るが、林家の初代羅山も俳号を持った人である。林門の中には俳書の流れが有り、この林門周辺では素堂の得意な「和漢聯句」が盛んであった。

『甲斐国志』は次の資料を引用したと思われる。 

 

《筆者註》

素堂も少小より林春斎の私塾に入って漢儒の学を学んだと云う(「甲斐国志」)。が、「升堂記」によれば素堂が林家の門人として名が見えるのは、元禄六年のことである。素堂は、桜田家の甲州代官の一人野田氏の娘を嫁(元禄七年没)にした(素堂著「甲山記行」に記載。この記行には「甲斐は妻のふるさと」とある)。信章が、いつ頃から俳諧を始めたのか定かでないが、寛文七年には貞門俳譜師伊勢の春陽軒加友編「伊勢踊」に出句した。その前書から読み取ると、素堂すでにかなり江戸の俳壇で名を占めていたようである。その後、貞門の石田未得の遺稿を息子の未啄がまとめ、寛文九年「一本草」として刊行したこの集に入集している。これからすると寛文年問の前半には、当時の江戸俳諧師の重鎮高島玄札や石田未得辺りから、手解きを受けたと考えられ、北村季吟との接触は仕官して以後のことと考えられる。(素堂の仕官先については、延宝六年の九州旅行の際唐津で春を迎え、(----二万の里唐津と申せ君が春----)と詠んでいるが、この句の持つ意味は大きい。この項については別述する。既に、京都の公家との繋がりについては、述べてあるし重複を避けたいが、仕官した事と関係があると考えられる。つまり、仕官先と二条家との間のお使い役をしていたのであろう。その関係から歌学を清水谷家、書を持明院家と習ったのであろうと考えられる。でないと延宝年間の致仕するまでに、定期的に江戸と京都を往来する意味が不明になる。

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月22日 05時14分51秒
コメント(0) | コメントを書く
[山口素堂資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X