カテゴリ:山口素堂資料室
《素堂関連年表》 ★ 明暦元年(1655) ・北村季吟が俳諧の奥書「俳諧埋木」を著す。 ・山田宗偏が小笠原家の茶道指南となる。(素堂、宗偏茶書の序を草す)
★ 明暦三年(1657)一月、江戸の大火。林家の文庫類焼し「本朝通鑑」焼ける。 ・同月林羅山没七十五才。(素堂家集)
★万治三年(1660)素堂 ・一月、甲府の大火。柳町より魚町まで焼失する。 ・風虎、父忠輿に従い大坂に行く。(五月~十一月)松江重頼と接触か。
★ 寛文元年(1661) ・八月、甲府城主に徳川綱重なる。在江戸。 ・風虎、季吟と書簡応答で接触。 ・林春斎、江戸のト祐の板行「土佐日記」に序を寄せる。季吟は日記に批判を記す。 (十月十一日条・季吟日記)
★ 寛文二年(1662) ・『裏見寒話』に甲府の「町々も暖簾も或し云々」の記述を記す。 著者は野田成方、享保九年赴任。見聞記。 ・西山宗因、風虎の重ねての招請に応じる。
★ 寛文四年(1664) ・十一月、宗因は江戸に風虎を訪ね、その後九州に赴く。 ・十一月、幕府は国史舘を忍岡に置き、春斎に「本朝通鑑」の続修を命じる。 〇 園女 、寛文四年(1664)生、享保十一年歿。年六十三才。本姓、渡会氏。剃髪して智鏡と称する。伊勢国山田の神官秦師貞の娘。同地の医師で俳士の一有の妻。貞享五年(1688)芭蕉の伊勢参宮の折入門。芭蕉の歿年元禄七年(1694)時、大阪に居た園女は芭蕉を自宅に招き歌仙を興行する。夫歿後、江戸に出て、宝永二年(1705)処女撰集『菊の塵』を著す。これに素堂が序を与える。(宝永二年の項参照) 〇 沾徳、寛文二年(1662)生、~享保十一年(1726)歿。年六十五才。沾徳水間氏。素堂の後援で貞享四年(1678)に立机する。通称は次郎左衛門。はじめは調和派の調也門、後に内藤風虎亭に出入りして認められ、風虎の手解きを受けて後に、内藤露沾(風虎の子)の同期となり、素堂の紹介で林家に入門する。蕉門とも親しみ、其角とは長く交流する。
素堂の俳諧
〔俳家大系図外〕 加友は同郷の玄札とも親しかったし、京都の季吟を度々訪ねた事が、季吟の紀行文に見える。「伊勢紀行」(貞享四年五月十一日条)林照庵院主加伝に招かれた時の事でヽ加伝は「加友法師の弟子也。加友は京にのほりて拾穂亭にも尋来て、たひたひ俳諧などせし人なれは」とある。 素堂と加友との関係は、加友が寛文七年に江戸に来て滞在した折に、撰集の手助けを素堂がしたと思われる。
「伊勢踊」集 伊勢の加友が帰国の刻馬のはなむけに かへすとて名残おしさは山々田 この頃の素堂は高島玄札・石田未得・未琢・野々口立圃・高井立志等貞徳門の俳匠にせっしていたと考えられ、寛文五・六年頃から春陽軒加友にも接触していたとも見られ、この頃には北村季吟・西山宗因とも繋がりを持った様である。
【註】石田未得(いしだ みとく)とは - コトバンク 江戸時代前期の俳人,狂歌作者。通称,又左衛門。別号,乾堂、巽庵。江戸の人で、 両替商。草創期江戸俳壇の大立物の一人で、徳元、玄礼、加友、卜養とともに「江戸五哲」 と称された。息子未琢 (みたく) の編『一本草 (ひともとぐさ) 』 (一六六九) は未得の遺志 による。未琢は未得の長男で神田鍋町に居住していた。未得はこの年七月に没した。
・蛙井集 姫氏國や一女をもとの神の春
素堂は、寛文十年以降に内藤風虎の俳諧人の集まり「桜田サロン」に顔を出すようになった。恐らく「夜ノ錦」の締め切りに間に合わなかった句を集めて「桜川集」の編集が始まった事に関係があると思われる。信章名(号)に付いては前に触れた通り、本名であるか雅号であるか不明である。「俳諧睦百韻」掲出の点から見ると雅号と考えられる。林家の儒学面での号(子晋)ではなかったかと推測する。
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最終更新日
2021年04月22日 05時14分13秒
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