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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月05日
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カテゴリ:山口素堂資料室

《素堂関連年表》

★ 明暦元年(1655

・北村季吟が俳諧の奥書「俳諧埋木」を著す。

・山田宗偏が小笠原家の茶道指南となる。(素堂、宗偏茶書の序を草す)

 

★ 明暦三年(1657)一月、江戸の大火。林家の文庫類焼し「本朝通鑑」焼ける。

  ・同月林羅山没七十五才。(素堂家集)

 

  • 万治元年(1658

    ・北村季吟(柳沢吉保家臣)立机と云う。(明暦元年説もある)

    ・人見竹洞が京都に赴き石川丈山に面会する。

    ・内藤義概(風虎)「御点取俳諧」をこの頃から始めたか。俳諧指南には高島玄札・石田未得・野々ロ立圃等が当たったか。素堂は江戸風虎邸に出入りし、風虎の俳諧についての序文を草している。

    ・十二月、千宗旦京都今日庵にて没す。八十一才。

     

★万治三年(1660)素堂 

・一月、甲府の大火。柳町より魚町まで焼失する。

  ・風虎、父忠輿に従い大坂に行く。(五月~十一月)松江重頼と接触か。

 

★ 寛文元年(1661

・八月、甲府城主に徳川綱重なる。在江戸。

・風虎、季吟と書簡応答で接触。

・林春斎、江戸のト祐の板行「土佐日記」に序を寄せる。季吟は日記に批判を記す。

(十月十一日条・季吟日記)

 

★ 寛文二年(1662

・『裏見寒話』に甲府の「町々も暖簾も或し云々」の記述を記す。

著者は野田成方、享保九年赴任。見聞記。

  ・西山宗因、風虎の重ねての招請に応じる。

 

  • 寛文三年(1663

    ・十二月、林春斎の家塾に幕府より弘文院号を与えられる。

     

★ 寛文四年(1664

・十一月、宗因は江戸に風虎を訪ね、その後九州に赴く。

・十一月、幕府は国史舘を忍岡に置き、春斎に「本朝通鑑」の続修を命じる。

〇 園女 、寛文四年(1664)生、享保十一年歿。年六十三才。本姓、渡会氏。剃髪して智鏡と称する。伊勢国山田の神官秦師貞の娘。同地の医師で俳士の一有の妻。貞享五年(1688)芭蕉の伊勢参宮の折入門。芭蕉の歿年元禄七年(1694)時、大阪に居た園女は芭蕉を自宅に招き歌仙を興行する。夫歿後、江戸に出て、宝永二年(1705)処女撰集『菊の塵』を著す。これに素堂が序を与える。(宝永二年の項参照)

〇 沾徳、寛文二年(1662)生、~享保十一年(1726)歿。年六十五才。沾徳水間氏。素堂の後援で貞享四年(1678)に立机する。通称は次郎左衛門。はじめは調和派の調也門、後に内藤風虎亭に出入りして認められ、風虎の手解きを受けて後に、内藤露沾(風虎の子)の同期となり、素堂の紹介で林家に入門する。蕉門とも親しみ、其角とは長く交流する。

  • 寛文五年(1665

    ・松江重頼が秋に風虎を磐城に訪ねる。

     

  • 寛文六年(1666

    ・風虎の『夜ノ錦集』成る。

     

素堂の俳諧

  • 寛文五・六年 

    ・荻野清氏の説だと、この頃に素堂は上洛した形跡があるとし、大和に遊んだとされる。

     

  • 寛文七年(1667

    伊勢の加友編「伊勢踊」板行。山口信章五句人集。信章名での初出である。加友は伊勢松坂の樹教寺中の法樹院住職で、般舟庵・春陽軒と号し、初め杉田望一(寛永七年六月没)の門人で、後貞門子となる。晩年は同国山田に移り住んだ。寛文七年『伊勢踊」集編集のため、江戸の高島玄札を頼り下った。発句の募集は一年程前から始めたらしい。同年十一月、京都で板行し翌八年になり刊行となる。

〔俳家大系図外〕

 加友は同郷の玄札とも親しかったし、京都の季吟を度々訪ねた事が、季吟の紀行文に見える。「伊勢紀行」(貞享四年五月十一日条)林照庵院主加伝に招かれた時の事でヽ加伝は「加友法師の弟子也。加友は京にのほりて拾穂亭にも尋来て、たひたひ俳諧などせし人なれは」とある。

 素堂と加友との関係は、加友が寛文七年に江戸に来て滞在した折に、撰集の手助けを素堂がしたと思われる。

 

  • 寛文八年(1668)28才

「伊勢踊」集

   伊勢の加友が帰国の刻馬のはなむけに

    かへすとて名残おしさは山々田

この頃の素堂は高島玄札・石田未得・未琢・野々口立圃・高井立志等貞徳門の俳匠にせっしていたと考えられ、寛文五・六年頃から春陽軒加友にも接触していたとも見られ、この頃には北村季吟・西山宗因とも繋がりを持った様である。

 

  • 寛文九年(1669)29才 

    ・「一本草」集 石田未琢編 信章で入集。

    ▽素堂、『一本草』発句一入集。未琢編。

    (俳号、信章)

    化しかハり日やけの草や飛蛍    信章

    【未琢】生(?)~天和二年(1682)歿。年七十余か。

            本名、石田要之助。江戸の人、未得の息。

【註】石田未得(いしだ みとく)とは - コトバンク

江戸時代前期の俳人,狂歌作者。通称,又左衛門。別号,乾堂、巽庵。江戸の人で、 両替商。草創期江戸俳壇の大立物の一人で、徳元、玄礼、加友、卜養とともに「江戸五哲」 と称された。息子未琢 (みたく) の編『一本草 (ひともとぐさ) (一六六九) は未得の遺志 による。未琢は未得の長男で神田鍋町に居住していた。未得はこの年七月に没した。

  • 寛文十一年(1671)30才

・蛙井集

姫氏國や一女をもとの神の春

 

  • 寛文十三年(1673)32才

    ・「女夫草」集 立儀編 信章で人集

    ▽素堂、 山口清勝編『蛙井集』に発句一入集。

    (俳号、信章)

         姫氏國や一女をもとの神の春   信章

    【清勝】山口清勝についての資料は少なく、この『蛙井集』は当時の軽口俳諧への非難を述べている。号は「自足子」を名乗っている。

    乾裕幸氏著『俳諧師西鶴』に掲載の『遠近集』の作者名に、清勝山口氏九良兵衛の名が見える。西鶴が延宝八年(1680)に興行した、『大矢数』(西鶴独吟四千句)の役人中の脇座十二人の中に、山口清勝の名が見えるが、素堂との関係は未詳。

素堂は、寛文十年以降に内藤風虎の俳諧人の集まり「桜田サロン」に顔を出すようになった。恐らく「夜ノ錦」の締め切りに間に合わなかった句を集めて「桜川集」の編集が始まった事に関係があると思われる。信章名(号)に付いては前に触れた通り、本名であるか雅号であるか不明である。「俳諧睦百韻」掲出の点から見ると雅号と考えられる。林家の儒学面での号(子晋)ではなかったかと推測する。

 






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最終更新日  2021年04月22日 05時14分13秒
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