カテゴリ:山口素堂資料室
素堂の俳諧 誌上へ
〔俳家大系図外〕 加友は同郷の玄札とも親しかったし、京都の季吟を度々訪ねた事が、季吟の紀行文に見える。「伊勢紀行」(貞享四年五月十一日条)林照庵院主加伝に招かれた時の事でヽ加伝は「加友法師の弟子也。加友は京にのほりて拾穂亭にも尋来て、たひたひ俳諧などせし人なれは」とある。 素堂と加友との関係は、加友が寛文七年に江戸に来て滞在した折に、撰集の手助けを素堂がしたと思われる。
「伊勢踊」集 伊勢の加友が帰国の刻馬のはなむけに かへすとて名残おしさは山々田 この頃の素堂は高島玄札・石田未得・未琢・野々口立圃・高井立志等貞徳門の俳匠にせっしていたと考えられ、寛文五・六年頃から春陽軒加友にも接触していたとも見られ、この頃には北村季吟・西山宗因とも繋がりを持った様である。
【註】石田未得(いしだ みとく)とは - コトバンク 江戸時代前期の俳人,狂歌作者。通称,又左衛門。別号,乾堂、巽庵。江戸の人で、 両替商。草創期江戸俳壇の大立物の一人で、徳元、玄礼、加友、卜養とともに「江戸五哲」 と称された。息子未琢 (みたく) の編『一本草 (ひともとぐさ) 』 (一六六九) は未得の遺志 による。未琢は未得の長男で神田鍋町に居住していた。未得はこの年七月に没した。
・蛙井集 姫氏國や一女をもとの神の春
素堂は、寛文十年以降に内藤風虎の俳諧人の集まり「桜田サロン」に顔を出すようになった。恐らく「夜ノ錦」の締め切りに間に合わなかった句を集めて「桜川集」の編集が始まった事に関係があると思われる。信章名(号)に付いては前に触れた通り、本名であるか雅号であるか不明である。「俳諧睦百韻」掲出の点から見ると雅号と考えられる。林家の儒学面での号(子晋)ではなかったかと推測する。
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最終更新日
2021年04月22日 05時13分06秒
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