カテゴリ:山口素堂資料室
稲津祇空と素堂 *享保20年(1735)とくとくの句合 祇空 祇空により編集。附録に馬光との歌仙。素堂と知幾の俳漢五十韻二巻。 素堂の句を立句とした歌仙二巻掲載。 *元文元年(1736)二夜歌仙 祇空・祇雲 素堂句掲載。 *寛保4年(1744)句餞別 稲津祇空 素堂発句、詩文入集。
*享保20年以降 『くち葉』稲津祇空遺句集 享保 十八年に没した祇空の稲津祇空遺句集 **素堂関連の記述あり。 『くち葉』刊年未詳であるが、没後間もなく(三周忌以後)の刊行と推定される。 著者紙空は稲津氏。青流(洞)・敬雨・石霜庵・竹尊者・玉笥山人・有無庵などと号する。 大阪の伊丹屋と号する薬種商の家に生れ、弟に芳室、芳洲がいた。若年の頃青流と号して惟中の指導の下に談林の俳諧を学び、元禄七年には最晩年の芭蕉とも一座したことがあるが、芭蕉なき後は江戸に下って其角に従った。その隠逸的性格から深く宗祇を慕い、正徳元年箱根早雲寺の宗祇墓前で剃髪し、号を祇空と改め、以後京都紫野の大徳寺内にとどまったこともあるが、多くを旅に過し、享條十八年四月二十三日箱根の石霜庵に没した(享年七十一)法師風と呼ばれるその作風は、沾徳・沾洲の酒落・比喩の俳諧に倦んだ俳壇に新しい息吹を送り込み、『五色墨』(享保十六年刊)・『四時観』(同十八年刊)などの反点取主義運動を招来した。というものの、祇空の作品自体が高い芸境にあったというより、むしろ世俗を超越した人格が慕われたのであり、三周忌の享保二十年には探川八幡宮の境内に祇敬霊神として祀られた。跋を草した芳室は祇空の実弟。稲津氏、後に師である旧徳(才麿)から譲られて椎本氏を称する。名は清佐。祇空の百力日には『石霜庵追善集』を編んでいる。 *磐城平に着く、露沾公にて御会 平けく山や鷂(ハシタカ)の其きほひ *悼、素堂 蓑虫々々錠に鈷浮き水の月 *素堂翁の幽居を訪いて 茶杓打音に覚へす菊寒し *甲斐塩の山に一句を乞 近江には兄あり三かみはつみ雪
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最終更新日
2021年04月22日 05時10分50秒
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