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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月05日
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カテゴリ:山口素堂資料室

★延宝二年(167433

・「廿回集」北村季吟編

素堂……『廿會集』入集。季吟編。《信章歓迎百韻》(抜粋掲載)

霜月三日江戸より信章のぼりて興行(付句十一 抜粋)

1  いや見せじ富士を見た目にひえ(比叡)の月  季吟

2  世上ハ霜枯こや都草            信章

3  冬牡丹はなハだおしゝはやらせて      湖春

10 下戸ならぬこそ友にはよけれ        季吟

11 打わすれ橋はこえても法ハこえじ      信章

12 駄賃に高る此札の辻            湖春

18 月より申しに夕月の雨           信章

19 舟待のあくびやちとのふるらん       季吟

29 買得たるこそハ宝の市ならめ        信章

36 うつりかは於る和歌の風俗         信章

43 人形はとくたみのきすつくろハれ      季吟

44 吟味はさぞな上留りのふく         湖春

45 をのが自姿うなづきよれる伴部やに     信章

46 やゝともすれば例の手ぐさミ        友部

55 七日迄るやむ心のうら嶋に         季吟

56 涙の海しやわつれなき陰          信章

57 売覚て枕の下やさがすらん         湖春

58 刀があらばやらじまおとこ         可全

59 貧なりと我をみすつるうらめしさ      正立

63 春の夜の月に千金かたじけな        季吟

64 敷物ぞな身円座がたつき          湖春

65 風流は誰わらふぞの東山          正立

66 沖とろりとつゆでたれに          家英

67 汲はこぶ塩らしけなるなりかたち      信章

68 いたゝく桶のそこ忘んぞ思ふ        季吟

69 たつときは高きあしだの羽黒山       可全

77 花に雨はつ神鳴もやミぬとや        正立

78 梢はさけて残る梅が香           湖春

79 春風にかすミの衣ばらりさん        宗英

80 ふる綿なれや去年の白雪          信章

81 山頂連世になし物のつほの内        湖春

82 のむ酒もかなうれへわすれん        季吟

83 まじまじとねられぬ肌のさむしろに     友部

84 ひとりといきを月の夜すがら        宗英

85 四方山のいろいろの事問ひかし       可全

86 来ぬはつハりかもし見捨たか        湖春

87 玉津さも是度のわ後ハかよハさず      信章

88 うらミられたらいかに思ん気や       正立

89 見ていにしもミのきはづき恥かしさ     季吟

93 墨江もはなも一かどわらまほし       可全

94 新宅にての節のふるまひ          信章

95 生壁に正月小袖用捨して          尚光

96 うでまくりたやてんガをうをカく      友部

97 心中のうは気しらるゝいれほくろ      湖春

98 おもふときくも末とぎふやら        宗英

99 本意はありでのうへのくどき事       季吟

100 出来ん殿の御代継をまつ          正立

 

【註】素堂の俳諧論 素堂の地位 北村季吟との関係

 

延宝二年(1674)三十三才の十一月に上洛して季吟や子息の湖春らと会吟した。(九吟百韻、二十会集)「江戸より信章のぼりて興行」が示すように、「歓迎百韻」であり師弟関係でないことが理解できる。素堂の動向が明確になってきたのは、寛文の早い時期から風流大名内藤風虎江戸藩邸に出入りをし、多くの歌人や俳人との交友が育まれた。その中でも寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳諧の点者に進出した西山宗因からも影響を受けた。宗因はそれまでの貞門俳諧の俳論は古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて「談林俳諧」を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。素堂が出入りしていた内藤風虎と宗因の結びつきは、寛文二年の風虎の陸奥岩城訪問から同四年江戸訪問と続き、風虎の門人松山玖也を代理として『夜の錦』・『桜川』の編集に宗因を関わらせた。風虎は北村季吟・西山宗因・松江重頼とも接触を持った。重頼は延宝五年(1677)素堂も入集している『六百番発句合』の判者となっている。

  延宝二年(1674)宗因の『蚊柱百韻』をめぐって、貞門と談林派との対立抗争が表面化して、俳諧人の注目を浴びる中、翌三年五月風虎の招致を受けて江戸に出た宗因は『宗因歓迎百韻』に参加する。この興行には、素堂や芭蕉(号、桃青)も参加する。素堂も芭蕉も共に貞門俳諧を学び、延宝の初年には宗因の談林風に触れて興味を示し、『宗因歓迎百韻』に一座して傾倒していく。四年、芭蕉は師季吟撰の『続連珠』に入集している。芭蕉は季吟より「埋木」伝授されていて門人であるというが、その後の接触は見えない。

素堂は季吟の俳諧撰集への入集はなく、巷間の「素堂は季吟門」は間違いということになる。素堂を北村季吟の系とする書が多いが、この集により門人ではなく、友人もしくは先輩、後輩の関係であることが分かる。この書以後素堂と季吟の直接交流は資料からは見えない。芭蕉にしても素堂も、元禄二年には江戸に出てきているが以後季吟との交流は少ない。

 【註】季吟撰『続連珠』に「信章興行に」と詞書する湖春の附け句が見える。(荻野清氏『元禄名家句集 素堂』)

《素堂上洛の目的は》

この年の十一月、公用かで上溶していたと思われる素堂は、季吟と会吟した。この折にまだ京都に居た芭蕉を、季吟から紹介された素堂は、芭蕉の江戸での身の振り方を依頼されたのであろう。素堂の友入で京都の儒医の桐山正哲(俳号知幾)に「桃の字をなづけ給へ」と俳号を依顧して、『桃青』号を撰んでもらった。(「類聚名物考外」)

蓑笠庵梨一の「菅菰抄・芭蕉翁伝」に依ると、季吟の江戸の門人孤吟(後のト尺)が所用で上溶していたが、江戸へ帰る時に芭蕉を誘って下ったとある。孤吟は江戸日本橋本船町の中の八軒町の長(名主)小沢太郎兵衛で、季吟門から俳号をト尺と改め江戸談林に参加、次いで芭蕉の門人として延宝八年(1680)「桃青門弟独吟二十歌仙」に参加した人で、当然古くより素堂とは面識が有った。梨一が一説として「本船町の長序令が江戸行きを誘った」とも記すが、この説は未詳であるが、序令と素堂は長い付き合いで、正徳三年(1713)に素堂が稲津祇空を訪れたときの随行者の中にその名が見える。

 再出府した芭蕉の落ち着き先は本船町(船町)の小沢孤吟方とも、杉山杉風方(「杉風秘記」)とも云う。延宝五年(1677)の立机の事からすると、孤吟方とするのが穏当であろう。

 素堂は季吟との会吟のあと難波に西山宗因を訪ねたようである。勿論、数年前から内藤風虎のサロンに出入りする事になっていた宗因訪問の目的は風虎公の依頼による、宗因江戸招致であろう。宗因は寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳壇の点者に進出、貞門俳諧の古さを指摘、自由な遊戯的談林俳諧を唱え、翌六年(1666)に立机して談林派の開祖となった。

 風虎と宗因との結びつきは寛文二年(1662)の磐城訪問から同四年(1664)江戸訪問と続き、門人の松山玖也を代理として「夜の錦」「桜川」の各集の編集に関わらせた。風虎と季吟・宗因・重頼との取次ぎは役は、家臣の礒江吉右衛門盛であったが、寛文十年(1670)に没してからは.手不足を生じ、上方に明るく風虎サロンに出入りしていた素堂に、連絡を依親していようである。因みに重頼(維舟)の選集に芭蕉廿層文四年以来取られているが、素堂は一向に取られずに延宝八年(1680)の「名取川集」に、--読み人知らず--として、同五年(1677)の風虎主催の「六百番発句合」の判者となり、その中から素堂の句を異体化して載せているのが初めてである。

大分それてしまったが宗因に戻して、延宝二年(1674)は宗因の「蚊柱百韻」をめぐって、貞門と談林派新風との対立抗争が表面化して、貞門俳諧にあきたらぬ人達の注目を集めていたのである。芭蕉も談林に興味を示し、あるいはト尺も談林に興味が有ったのであろう。延宝三年五月、風虎の招致を受けて宗因は江戸に来て、『談林百韻』(「宗因歓迎百韻」)が興行され、「十一吟百韻」に素堂は信章として、芭蕉は初めて桃青号を名乗って参加した、前年に季吟より風虎公に「俳諧令法」が献じられたが、勿論素堂の口添えで芭蕉のサロン入りがなされたと見られ、続いて風虎の息の露沾の「五十番旬合」に出句と、以後内藤家のサロンに登場する事になった。

 素堂も宮仕えの傍ら出来るだけ芭蕉と行動を共にし、芭蕉の引き立て役を務め、友人の松倉嵐蘭や榎本其角を芭蕉に紹介したのである。先述したが素堂と林家関係は正確には元禄六年(1693)に門人として名を連ねているが、これは友人で先輩の人見竹洞が大きく関与している。竹洞は元禄九年に死去するが、素堂の母の死や元禄六年の素堂亭訪問などを記していて素堂を知る上で貴重である。宝永七年(1710)の曾良宛素堂書簡には晩年まで林家と交友があったことがわかる記載がある。(別述)その竹洞は素堂を「春斎の門人の中で(素堂は)随一」と賞賛している。

春斎の私塾は寛文三年(1663)十二月に、幕府から弘文院号が与えられて準官学化した。後の昌平校に成るのだが、元禄三年には官学上して湯島に移されても、入塾にはそれほどの差異は無かったようである。素堂の仕官先は資料不足で解明できないが、役職の関係か、京都との関係が太くなり、その縁で歌学を清水谷家、書を持明院家で習ったものであろうか。これを裏付ける資料は見えない。

 素堂が師と仰ぐ春斎は詩歌・吉典に明るく、寛文元年に江戸のト祐が「土佐日記」(注釈書か)を版行するのに序を寄せた事を聞いた季吟が、日記の十月十一日の条に『春勝(春斎)に何がわかるか』と批判を書いているが、歌学では季吟とは同門であり、その面での接触は否定出来ない。後に芭蕉の知らない季吟の話を語って(後文紹介)おり、結構緊密であった事が判明する、また漢句による聯俳は林門周辺で盛んであったから素堂も得意であろう。

 素堂も芭蕉も貞門俳諧を学び、延宝初年(1673)には宗因の新風に触れて興味をしめし、同三年の「宗因歓迎百韻」に一座して傾倒して行くようになり、同四年の季吟撰の「続連珠」には芭蕉は門人であるから入集しているが、素堂は門人では無いから入集は無く、息の湖春が「信章興行に」と附旬を載せているだけで、従って素堂は季吟門ではなかった事が判る。同五年(1676)には芭蕉は宗匠と立机したようである。それと共にト尺に紹介された水方の官吏の職にも着いた。

《筆者註》

私は栃木県の足利学校を訪ね、竹洞関係の書を漁り、後日を改めて人見家の墓所を訪れた。山中を彷徨い辿り着いた人見家の墓所は寺の裏山に二箇所あり、刻字も明確で整然としていた。しかし訪れる人もなく、蚊の集団に次から次へ襲われ閉口した。ひっそり環境で竹洞は親族と眠っていた。

素堂は延宝六年の夏頃より西国に下った。目的については不明であるが、翌年の初夏までに遠く唐津に及び主君との別れを惜しんだ。五月刊行の池酉言水編「江戸蛇之酢」や未得門の岸本調和編「富士石」に、旅行中の吟が入集している。その秋、素堂は致任して上野不忍池のほとりに退隠したのである。西国下りの途中大阪に立ち寄り井原西鶴に会ったり、道中では発句をしたりしている。不忍の池のほとりに退いた素堂は諸藩に儒学を講じたり、詩歌を教えたりしていたとされる。従って芭蕉ですら素堂を訪れるには手紙をして伺いを立ててからでなくては会うことが出来なかった位である。

《芭蕉》

芭蕉は延宝五年(卜尺語りによれば六年)俳諧宗匠の傍ら水吏の事務方を勤めていたが、同八年冬の初め頃か、職を辞めて深川に隠れてしまった。後に門人の森川許六等の説では、

   「修武小石川之水道 四年成 速捨功而深川芭蕉庵出家」(本朝文選・作者列伝)

などとある。幕末の馬場錦江が云う通り、当時の水道工事は町奉行所の管轄で、町方は資材・人夫等の分担調達が義務付けられ、その事務方に芭蕉は就いていた訳で、閑職に近い仕事だが、調達した物を現場に行って員数を調べ記帳するのが役目で、工事が追い込みになると大変な忙しさであったようである。延宝度の改修工事は小石川堀の上を樋で渡す物も(神田上水へ)加わっていたようで、完成年度の記録は未見だが翌年まで続いたらしい。

   






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最終更新日  2021年04月22日 05時09分44秒
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