カテゴリ:俳人ノート
シリ-ズ 俳諧雑学講座&芭蕉
誰も引用しなかった俳諧資料 このシリーズは長編になります。随時追加していきますが、私の読んだ限りでは、この「日本随筆」から引用されている著はめにしていません。楽しく鋭い洞察力、後世でなく同時代の評論もあり、参考になると思います。なお「日本随筆」は43巻あるために、抽出に時間がかかります。 引用 『日本随筆』 〔年代不順〕 ○ 蓼太(りょうた) 【大田南畝集】 (雅量) 雪中庵蓼太といえる誹諧師は、横山町に住めり。明和九年(1772)二月の江戸大火に、薬鑵(やかん)に白湯(さゆ)を入れて、文台一つ持ちて、深川の六間堀要津寺の中の庵にのがれて、 緋桜をわすれて青き柳かな 緋桜(ひざくら) という発句をなし、火事羽織着て見舞い来し人に句を乞いて、百韻を満てて夜をあかせしとぞ。この蓼太、かって酒徳利を携えてわが牛込の宿りを訪いし時、 高き名の響きは四方にわきいでて赤ら赤らと子供まで知る といえる戯歌(ざれうた)を添えたりき。 ○ 杉田望一(ぼういち) 【大田南畝集】 (賞誉補)杉本(田)望一は、勢州山田の人にて、誹諧をよくす。望一臨終の遺書とて、山田中村忠太夫の家に蔵す。その筆のはこびなかな盲人とは見えず、かた小俣何がしの君の家に、短冊一葉あり。是またその筆意、盲人の手跡とはかって見えずとなん。 ◎ はせを 【改元旅行】 (略)膳所の城のき壁遙に見えしが、ようようちかくなりもて行くに、左の方の野道 に「兼平塚へ三丁」と記(しる)せり。今井四郎が、粟津の原にて戦い死せしもこの所なりと思うに、涙もとどまらず。また国分寺薬師道あり。芭蕉の翁がすみし幻住庵もこのほとりならんとゆかしく、行く行く膳所の城門を入れば、右に湖水見え渡りて、江戸高縄(高輪)の大木戸にうち出でたらん心地ぞする。ここにも八大龍王の宮あり。左のかたに義仲寺あり、聞きしにも似ずあさまなる所にして、門を入れば左の堂あり。木曾殿の像を安置す。堂の前に墓あり「木曾義仲墓」と彫りて、前なる石燈に「奉寄進徳音院殿墓前」としるせり。この墓の右に芭蕉墓並び立てり。石燈に「元禄十三庚辰正月十二日崎陽素行敬立」と彫りしは、翁の七回忌の年立てしなるべし。 その墓の後ろに幻住庵をうつして、庭に一もとの椎の木あり。その向かいに芭蕉堂あ り。翁の像を置けり。門の内の右の方に草庵の如きもの、是れ義仲寺なり。この寺はもと巴御前の結べ庵なれば、古へは戸巴寺といひしが、弘安(1278~1288)ころより義仲寺と呼べり。縁起には記せり。義仲墓の傍らに松あり。兼平手向けの花松という。なべて墓には樒(しきみ)手向くれど、ここには松を手向くるとなん。これは木曾殿の遺骸(なきがら)を松のもとに埋めて、その松の枝を手向け兼平が事によれるなりとぞ。木曾殿の位牌には「徳音院殿義山宣公大居士」としるし、その傍らに兼平の位牌をならべて、「岸照道大居士、元暦元年辰朱正月二十一日」と記せりとなん。この寺の縁に、其角が書ける「芭蕉庵終焉記または手向けの発句集など出して置きて、人の求むる便とす。すべてこのさま、大磯の鴨立庵に似通いて、かれはこゆるぎの磯を後ろにし、これは丸鳰(にお)の海を前にす。云々 ○ 北村季吟 北村季吟の墓は、池の端茅町正慶寺にあり。昔年ゆきてみし事あり。素の墓に、 花もみつほととぎすをもまちいでつこの世後の世おもふこよなき 宝永二年六月十五日 八十二歳卒 と彫り付けたり。このうた辞世の歌にはあらず。しかれども、季吟翁『疏儀荘の記』の末に、 なお日ながき折は、鬼子母のおはす曹司谷(雑司ヶ谷)も遠からず、 護国寺の大非者(だいひざ)のみまへにも、ただはひわたるほどなれ ど、老のあゆみのなおちかければ、新長谷寺にもうでて、不動尊の堂 下より、西南にかたぶく日影に杖たてて、時知らぬ富士の白雪をなが め、千町(ちまち)田面(たのま)のみどりになびく風に涼みて、し ばらくいきをのべつ。かくて、 八十年来筆硯間 逍遥歌苑老心閑 一望士嶺千秋雪 雲帯清風往又還 初かりのいなばにおつる声はあれどうれし田面になき郭公 花もみつほととぎすをも待ちいでつこの世の世思に事なき となんよみて疏儀荘に帰れば、日くれぬ。宵過ぎて月松の上にさし出てあきらけく、ここにはきょうみし花の色もみえず。鳥の声聞こえず。かの桐火桶の余薫、あるかなきかにものの端にとどまれり。宝永二年五月初(はじめ)つかた法印希吟口にまかせふんでにまます(以上文) ◎ 芭蕉庵桃青翁賛 【大田南畝集】 身は芭蕉葉のひろきに居て、風流の細きにたどり、心は風雲の思ひたちて、花鳥の情けうかる、僧歟俗歟 はた隠者歟 このこの一箇の俳諧師 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月22日 05時00分55秒
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