カテゴリ:山口素堂資料室
山口素堂は濁川改浚工事には関与していない その二 濁川改浚工事
素堂像を大きく歪めたのは元禄九年の濁川改浚工事への素堂の関与が、『国志』に劇的に記載されたことが起因である。 この項はよく読んで見ると、時の代官触頭桜井孫兵衛政能の事蹟顕彰を「素道」の項を借りて記述している。こうした記述方法は他の人物の項などにはなく独特のものであり、講談調の語りを入れるなど「お涙頂戴」の構成になっている。 素堂没後約百年経てから編纂された『国志』「素道」の項は素堂の事蹟、特に「濁川改浚工事」への関与を特書して、命を賭けて国を救った土木技術者として祭り挙げてしまった。後年になり事蹟顕彰の石碑が立ち土木書に引用され、山梨県内外の歴史書には素堂を義民の生神様としてしまった書もある。
● 素堂は桜井孫兵衛&桜井社
素堂は桜井孫兵衛より七歳年下であり、没年は素堂が享保元年、孫兵衛は享保十六年である。孫兵衛は甲府の代官を辞した後大阪に赴任している。 孫兵衛の石祠と顕彰石碑は濁川のほとりにあり、地域の人々は今でも「桜井しゃん」として祀っている。この石碑は刻字もはっきりしていて正面には「桜井社」裏面には享保十八年建立、西高橋村・蓬澤村と刻字してある。これは桜井孫兵衛政能の姪斎藤六左衛門正辰(政能孫兵衛と兄政蕃は父定政の子で、政蕃の子政種、その子が政命で、斎藤六左衛門正高の家に婿に入り、斎藤正辰と名乗る…『寛政重修諸家譜』)が享保十八年(1733)甲斐に来た折に地元に建立させたものである。正辰は元文三年(1738)にも来甲して、その折には地鎮碑を建立している。碑文によれば桜井孫兵衛の生祠に関わる部分として、
政能死してから久しい。而して両村民はその恩を忘れることは能わず。 乃ち政能を奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳これを祀る。 ああ生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るは古の典也
とあり、生祠では無い。
前述のように孫兵衛の没年は享保十六年であり、石祠の建立は十八年である。この石祠は明らかに生祠ではないことが明白である。 山梨県の歴史書や紹介書は長年この石祠を生祠として記している。また『国志』以来素堂の「山口霊神」も合祀されているとの記述も見られるが、その存在を証する書もなく不詳であり石祠は現存しない。傍らにある石碑は孫兵衛の兄の子供が斎藤家に婿に行った斎藤正辰(当時勘定奉行の一員)が甲斐を訪れた時(正治三年)に建立したものである。正辰は孫兵衛の兄政蕃の子であり、斎藤家に婿入りしている。この石碑の刻文を後の『国志』が拡大引用したものである。残念ながら石碑刻文の中には素堂に関与する記述は見えず、孫兵衛の威徳を顕彰しているだけである。何故素堂が孫兵衛の事蹟の中に組み入れられたかは、それを示す史料が無く不明である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月21日 17時55分15秒
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