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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月08日
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カテゴリ:山口素堂資料室

山口素堂は濁川改浚工事には関与していない その四 『甲山記行』

 

『甲山記行』素堂著

 

 それの年の秋甲斐の山ぶみをおもひける。

そのゆえは予が母君がいまそかりけるころ身延詣の願ありつれど、

道のほどおぼつかなうて、ともなはざりしくやしさのまま、その志をつがんため、

「また亡妻のふるさ」となれば、

さすがになつかしくて葉月の十日あまりひとつ日かつしかの草庵を出、云々

 十三日のたそがれに甲斐の府中につく。外舅野田氏(妻の父)をあるじとする。云々

 

重九の前一日かつしかの庵に帰りて(九月八日)

              旅ごろも馬蹄のちりや菊かさね

 素堂は元禄八年八月十一日に来甲し九月八日に江戸葛飾に帰っている。

 

素堂が元禄九年に甲斐に居て、

三月から五月まで孫兵衛の手代として濁川改浚工事を指揮した事を示す史料は見えない。

また『甲山記行』には孫兵衛と会ったことや濁川改浚工事への関与を窺わせる記述は無く、

『甲斐国歴代譜』は淡々と工事の開始と終了を告げている。(前述 空白の日時はある)

 素堂の府中の宿は外舅野田氏宅である。外舅野田氏とは素堂の妻の父親である。(別記)

 

●『裏見寒話』

 

  元禄七年~十四年

              御代官触頭 桜井孫兵衛

                〃      野田市右衛門

              御入用奉行 野田官兵衛

 

素堂は実家山口屋を訪れたのであろうか。当時も素堂没後も山口屋市右衛門は居た。

素堂の弟が家督を継いだという山口家と府中魚町山口屋市右衛門家は同一なのだろうか。

これも明確な資料が不足で言及できない。

 

 ●『国志』素道の項

 

舎弟某に家産を譲り、市右衛門を襲称せしめ、自らは名を官兵衛と改むる。

時に甲府殿の御代官桜井孫兵衛政能と云ふ者、能く其の能を知り頻に招きて僚属となす。

居る事数年、致任して東叡山下に寓し、云々

 

 素堂が江戸に出たとされるのは二十歳の頃とされているが、孫兵衛は素堂より八歳年下である。

従ってこの時点で孫兵衛の僚属となることや、甲府代官になっていることも有り得ない。 

 

           『山梨県史』「資料編九」元禄八年

 

覚 金割付御奉行所より被遺候文 小判十両 うを町 市右衛門

 

 ●『山梨県史』「資料編九」近世2甲府町方 享保二年(1715)

 

              御用留口上書 御巡見様御泊之節御役人衆留書 町役人詰所    魚町市右衛門

 

 ●『甲府市史』「資料編  第二巻」近世1享保八年(1723)

 

山梨郡府中分酒造米高帳        魚町 山口屋市右衛門

               元禄十年(1697)造高四十三石五斗

               享保八年(1723)造高 十四石五斗

  当時山口屋は西一条町にも存在した.

              西一条町 山口屋権右衛門

               元禄十年(1697)造高四十二石二斗八升

               享保八年(1723)造高 十四石八斗

 

 山口屋は酒造業とすれば決して大きいほうではない。

伝えられる説では素堂家は素堂が幼少の頃現在の北巨摩郡白州町下教来石字山口を出て、

府中魚町に移り住み、忽ち財を成したと云う。 

しかし生地とされる下教来石字山口地区にはそれを示す資料や史実は見えず、

『国志』以後の「戻り歴史」で、

中央の書を見てそこに書されている事象を地域に当てはめる歴史それが「戻り歴史」である。

 

『甲山記行』の

「また亡妻のふるさとなれば、さすがになつかしくて」

 

のふるさとを身延とする説もあるが、

「甲斐の山ぶみをおもひける」

を踏んで甲斐が亡妻のふるさととも解釈できる。むしろこの方が自然である。

素堂の妻は元禄七年に没している。

盟友芭蕉が大阪で十月十二日に没したとき素堂は妻の喪に服していた。

 

 ●「素堂、曾良宛て書簡」抜粋

 

  野子儀妻に離れ申し候而、当月は忌中に而引籠罷有候。

  桃青(芭蕉)大阪にて死去の事、定而御聞可被成候。

  云々

 

 これは素堂の妻の存在は河合曾良に宛てた書簡により明確である。

素堂の母も人見竹洞の事を伝える『竹洞全集』により元禄八年夏に急逝したことがわかる。

素堂の母の没年には元禄三年説があるが、元禄八年逝去が正しい。

また府中山口屋市右衛門の母の墓石が甲府尊躰寺にあるが、

これが素堂の母の墓石である可能性は極めて低く、

側面の「市右衛門 老母」の刻字は不自然である。

また尊躰寺にあったと『国志』が記す素堂の法名「眞誉桂完居士」も同様である。

素堂の法名は現在も谷中の天王寺(当時は感應寺)の位牌堂に安置されていて、

法名は、「廣山院秋厳素堂居士」である。   

 

従って『国志』の

「元禄八年乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す」

は史実ではなく創作話である。

 素堂の父の存在は資料が無く明確に出来ない。

父は素堂が何歳まで生存していたかもわからないが、

何れにしても素堂家の墓は江戸に在ったとするほうが自然である。

先代の山口屋市右衛門の墓は尊躰寺の墓所内には見えず、

山口屋及び「山口殿」代々の墓所は何処に存在したのであろうか。

 

 ●『甲斐国志』巻之四十三 「庄塚の碑」文化十一年(1814)刊行(前文略)

 

 代官桜井孫兵衛政能は功を興して民の患を救う。

濁川を浚い剰水を導き去らしむ。

手代の山口官兵衛(後に素堂と号す)其の事を補助し、

頗る勉るを故を以て、二村の民は喜びて之を利とす。

終に生祠を塚上に建つ。

桜井霊神と称し正月十四日忌日なれども今は二月十四日にこれを祀る。

 

側らに山口霊神と称する石塔もあり。云々

 

後の斎藤六左衛門なる者。地鎮の名を作り、以て石に勒して祠前に建つ。

 とあるが、はるか以前の『裏見寒話』には、素堂の関与は示されてはいない。






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最終更新日  2021年04月21日 17時54分57秒
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