カテゴリ:山口素堂資料室
山口素堂は濁川改浚工事に関与していない その五 『甲山記行』他
『甲山記行』の 「また亡妻のふるさとなれば、さすがになつかしくて」
のふるさとを身延とする説もあるが、 「甲斐の山ぶみをおもひける」 を踏んで甲斐が亡妻のふるさととも解釈できる。むしろこの方が自然である。 素堂の妻は元禄七年に没している。 盟友芭蕉が大阪で十月十二日に没したとき素堂は妻の喪に服していた。
●「素堂、曾良宛て書簡」抜粋
野子儀妻に離れ申し候而、当月は忌中に而引籠罷有候。 桃青(芭蕉)大阪にて死去の事、定而御聞可被成候。 云々
これは素堂の妻の存在は河合曾良に宛てた書簡により明確である。 素堂の母も人見竹洞の事を伝える『竹洞全集』により元禄八年夏に急逝したことがわかる。 素堂の母の没年には元禄三年説があるが、元禄八年逝去が正しい。 また府中山口屋市右衛門の母の墓石が甲府尊躰寺にあるが、 これが素堂の母の墓石である可能性は極めて低く、 側面の「市右衛門 老母」の刻字は不自然である。 また尊躰寺にあったと『国志』が記す素堂の法名「眞誉桂完居士」も同様である。 素堂の法名は現在も谷中の天王寺(当時は感應寺)の位牌堂に安置されていて、 法名は、「廣山院秋厳素堂居士」である。
従って『国志』の 「元禄八年乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す」 は史実ではなく創作話である。 素堂の父の存在は資料が無く明確に出来ない。 父は素堂が何歳まで生存していたかもわからないが、 何れにしても素堂家の墓は江戸に在ったとするほうが自然である。 先代の山口屋市右衛門の墓は尊躰寺の墓所内には見えず、 山口屋及び「山口殿」代々の墓所は何処に存在したのであろうか。
●『甲斐国志』巻之四十三 「庄塚の碑」文化十一年(1814)刊行(前文略)
代官桜井孫兵衛政能は功を興して民の患を救う。 濁川を浚い剰水を導き去らしむ。 手代の山口官兵衛(後に素堂と号す)其の事を補助し、 頗る勉るを故を以て、二村の民は喜びて之を利とす。 終に生祠を塚上に建つ。 桜井霊神と称し正月十四日忌日なれども今は二月十四日にこれを祀る。
側らに山口霊神と称する石塔もあり。云々
後の斎藤六左衛門なる者。地鎮の名を作り、以て石に勒して祠前に建つ。 とあるが、はるか以前の『裏見寒話』には、素堂の関与は示されてはいない。
●『裏見寒話』巻之三 宝暦二年(1752)『国志』より六十年前の書(野田成方著)
昔は大なる湖水ありて、村民耕作は為さず、漁師のみ活計をなす。 其の頃は蓬澤鮒とて江戸まで聞こえよし。夏秋漁師の舟を借りて出れば、 その眺望絶景なりしを、桜井孫兵衛と云し宰臣、明智高才にして、 此の湖水を排水し、濁川へ切落し、其の跡田畑となす。 農民業を安んす、一村挙げて比の桜井氏を神に祭りて、今以て信仰す。 蓬澤湖水の跡とて纔の池あり。鮒も居れども小魚にして釣る人も無し。
●『甲斐叢記』(国志を引用)嘉永元年(1848) 大森快庵著(前文略)
元禄中桜田公の県令桜井政能孫兵衛功役を興め、 二千四間余の堤を築き濁川を浚い剰水を導き去りて民庶の患を救へり。 属吏山口官兵衛(後素堂と号し俳諧を以て聞ゆ)其事を奉りて力を尽せり。 因て堤を山口堤又素堂堤とも云と称ふ。 諸村の民喜ひて生祠を塚上に建て、桜井霊神、山口霊神と崇祀れり。云々 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月21日 17時54分35秒
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