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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月08日
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カテゴリ:山口素堂資料室

 山口素堂は濁川改浚工事に関与していない 
 その八
 誤伝 甲斐国志 素道 

 

巻之百二 士庶之部 これが素堂誤伝の始まり

 

「素」の項が素堂の記述読み下し

● 素堂  ○ 孫兵衛

                                                           

●素 

素道 山口官兵衛と云ふ。姓は源、名ハ信章。字ハ子晋。一に公商とも云ふ。

其の先は州の教来石村山口ニ家ス。因氏と為す。後に居を府中魚町に移す。

家頗る富ミ、時の人は山口殿と称ス。

●素 

信章は寛永十九年壬午五月五日生ル、故ニ重五郎を童名トス。

長ジテ市右衛門と更ム。蓋シ家名ナリ。

●素

 少々自り四方ノ志アリ。屡々江戸に往還して章句を林春斎に受く。

亦京都を遊歴して書を持明院家に学び、和歌を清水谷家に受け、

連歌は再昌院法印北村季吟ヲ師トス。松尾芭蕉ト同門なり。

俳諧を好みて宗因梅翁と号す大阪の人信徳伊東氏京都の人等ヲ友トシ、

假リニ来説ト号ス。亦今日庵ト号ス。蓋シ宗旦ノ授クル所カ。

●素

 遂舎弟某ニ家産ヲ譲り、市右衛門を襲称使め、自らは名を官兵衛と改むる。

○孫 

時に甲府殿ノ御代官桜井孫兵衛政能ト云ふ者、能く其の能ヲ知り、頻ニ招キテ僚属と為す。

●素

居る事数年、致任シテ東叡山下に寓し、専ラ儒を以て售ル。

人見友元ヲ学友トシ、諸藩ニ講ジテ詩歌ヲ事トス。

●素

傍ら茶、香、聯俳、演劇、平家等ニ及ベリ。

●素

 一旦世外ノ思ヲ発シ家ヲ葛飾安武ニ還ス。

是れ芭蕉庵桃青伊賀の人松尾甚七郎、初風羅坊、元禄中没、年五十三ノ隣ナリ。

●素 

二人ノ者、志し同じふして先師季吟ノ教エヲ奉ジテ、正風体の俳諧ヲ世ニ行ハントシ、

名を素堂と更め堂又道に作る同じ實に天和年間ノ事ナリ。

●素 

元禄八乙亥素堂年五十四、帰郷シテ父母の墓を拝す。

○孫

 且つ桜井政能に謁す。前年甲戊政能擢され御代官触頭の為め府中に在り、

○孫

 政能素堂を見て喜び、抑留シテ語リ濁河の事に及ぶ。嘆息シテ云ふ。

濁河ハ府下汚流ノ聚る所、頻年笛吹河瀬高ニナリ、

下ノ水道の壅ガル故ヲ以テ、濁河ノ水山梨中郡に濡滞シテ行かず。

本州諸河砂石漂流して其の瀬年々高シ。民は溢決に苦しみ、

今に至る尚爾リ国ノ病と為す。實に甚し。山川の部ニ委シ

○孫

 水禍を被る者十村中に就き、蓬澤、西高橋二村最モ卑地ニシテ田畠多く沼淵トナリ。

此の時に当たり、村人魚を捕へて四方にていし食に換へる。蓬澤の鮒魚于州に名ト云ふ。

○孫

 雨降レバ釜を釣リ床重なる田畠も腐敗シテ収稼は毎ニ十のうち二三ニ及ばず。

前ニ居を没する者数十戸は、既に新善光寺の山下ニ移レリ、餘民は今猶堪へザラントス。

○孫 

政能屡々之ヲ上ニ聞スレドモ言未だ聴カレズ。

夫レ郡の為め民の患いを観乃之を救うコト能ずヤ。吾辨じテ去らント欲ス。

然れドも閣下に一謁して自の事由を陳べ、

可否を決すべく望ミ、謂フ足下ク此ニ絆サレテ補助アランコトヲ。

●素 

素堂答テ云フ。人者コレ天地ノ役物ナリ。可を観て則ち進ム、素ヨリ其分ノミ。

况や復父母ノ国ナリ。友人桃青モ前ニ小石川水道ノ為ニ力を尽セシ事アリキ。

僕謹みテ承諾セリ。公のおうせにこれ勉て宜しくト。

○孫 

政能大ニ喜ぶテ晨ニ駕すことを命ず。十村ノ民庶蹄泣シテ其の行を送る。政能顧て之れ謂を云ふ。

○孫 

吾れ思ふ所アリ、江戸に到りて直ちに訴ヘントス。

事就ざるトキハ汝輩を見るコト今日ニ限ルベシ。

構ヘテ官兵衛が指揮ニ従ひ、相叛くナカレト云々。

●素 

素堂は剃髪ノママ双刀を挟み、再び山口官兵衛を称す。

○孫 

幾程ナク政能許状を帯して江戸ヨリ還ル。村民ノ喜び知リヌベシ。

●素 

官兵衛又計算に精シケレバ、是れ自リ夙夜ニ役夫を勒して濁河ヲ濬治ス。

○孫 

高橋自リ落合に至る堤を築き、二千一百有余間を導キテ、笛吹河の下流に會セ注グ。

○孫

 明歳丙子月日落成ス。悪水忽チ流通シ沼淵涸レ、稼穡蕃茂して民は窮患ヲ免ル。

以て前に他は奔たる者も皆な舊居に復シ、祖孝墓を修コトヲ得タリ。

○孫

 是レニ於て生祠を蓬澤村南庄塚ト云フ所ニ建テ、桜井明神と称え

●素

山口霊神と併せ歳時の祭祀今ニ至るまで怠り無く聊でか洪恩に報いんト云ふ。

●素 

素堂は其の事畢リ蚤ク葛飾ノ草庵ニ還リ去リ、亦宿志述し、

遂に桃青と共に俳諧専門ノ名ヲ成セリ。

●素

 享保丙申元年八月十五日逝ス。歳七十五。

谷中感應寺ニ葬す。甲府尊躰寺ニモ碑アリ。法諱は眞誉桂完居士。

○孫

 政能は同十六辛亥年二月十四日逝ス。歳八十二歳素堂ヨリ少ナキ事八歳

 元文三戊午年七月、政能姪斎藤六左衛門正辰ト云ふ者、役を奉じテ本州ニ来リ、

御勘定方毛見の鑒札ヲ奉ハル。是より先享保十八丑年ニモ来リキ祠前に石を樹て其の事をす。

 和漢二章の前文は附録にアリ。

 

●斎藤正辰建立 地鎮碑名 「甲斐国志」 附録の部 読み下し                           

 
 甲州の蓬澤・西高橋両村、濁河の剰水を受け大半は沼となって数十年、

近隣の七邑も亦た同じである。ことに両村は甚だしい。

雨が降れば則ち船に非ずば行くべからず。

民は荷物を担いて出づ。河魚の疾いは但に与にするを焉禾黍も実らず、

饑□野に盈ツ。将に不毛の地と為らんとす。

 元禄甲戊桜井孫兵衛源政能郡の為に于邑に至る。

民庶は蹄泣して濬治の計を請う。 

政能は諾し明る年乙亥帰りて老臣に遡へて其の事甚勤した。

国君はこれを恤し、

明る年丙子新に政能に命じて検地の功を鳩じ西高橋より落合村に至る、

堤二千一百余間と泥を開いて塞を决き濁河の流れを導いて笛吹川に会せ遂ちて止む。

 是に於て土地は沃乾き、家穡は蕃蕪す。民は以居すべく、租も以て入るべしと。

 政能の死してから久しい。而して両村の民は愈々その恩を忘れることは能はず。

乃ち、政能を奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳これを祀る。

あゝ生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るはいにしえの典也。

余、後来其の所由を失うを恐れ、遂に書を石に勒すとかく云ふ。

  元文三年七月 (1738)斎藤六左衛門正辰


  • 甲斐国志』の創作箇所

     

     元禄八年(1695)乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す。且つ桜井政能に謁す。前年甲戊政能擢されて御代官触頭の為め府中に在り。

     政能素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。嘆息して云う。「濁河は府中の汚流のあつまる所、頻年笛吹河背高になり、下の水道(みずみち)の塞がる故を以て、濁河の水山梨中郡に濡滞して行かず。云々   

     然れども閣下(素堂)に一謁して、自ら事の由を陳べ、可否を決すべし望み、謂う足下に此に絆されて補助あらんことを」

     

    「素堂答えて云う。人は是天地の役物なり。可を観て則ち進む。素より其分のみ。況んや復父母の国なり。友人桃青(芭蕉)も前に小石川水道の為に力を尽せし事ありき。僕あ謹みて承諾せり。公のおうせにこれ勉めて宜しくと」云々

     

     素堂は薙髪のまま双刀を挟み再び山口官兵衛を称す。幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。村民の歓び知りぬべし。官兵衛又計算に精しければ、是より早朝より夜遅くまで役夫をおさめて濁河を濬治【水底を深くすること】す。云々

     是に於て生祠を蓬澤村南庄塚と云う所に建て、桜井明神と称え山口霊神と併せ歳時の祭祀今に至るまで怠り無く聊か洪恩に報いんと云う。

     






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最終更新日  2021年04月21日 17時53分25秒
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