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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月08日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂甲斐に入る。元禄8年(1695)54才

 

〔世相〕                   

八月に金銀貨の改鋳が断行された。

二月に江戸大火、侍屋敷・町家六万七百四十余戸焼失する。

大久保二万五千坪・中野十六万坪の犬小屋新設。

 

〔俳壇〕                   

・一月一日、嵐雪は法体して雪中庵不白玄峰居士を号す。

 ・一月七日、駒角は父高直公三十三回忌追善一巡一句の歌仙興行を催す。

(元禄十一年、調和編『面々硯』所収)                    

・初折は江戸の湖春・調和・立志・山夕・正友・沾徳・秀和・不角・無倫・一蜂・露言・松口・好柳・素堂・一鉄・露沾・幽山が一座する。

・春、露沾が岩城平に退隠する。六月杉風が高山麋塒宛書簡で芭蕉の遺訓を伝え、これを会得するものは三十人の記す。

・九月、去来は芭蕉の遺言により、『奥の細道』を譲り受け、自ら写し跋を付け、半左衛門に贈る。

・各地で芭蕉追善興行や追善集が刊行される。

 

*素堂

素堂は前年の妻の死、この年の母の死に遭う。夏、母の生前の願いである身延詣での為に甲斐に入る。宿は外舅の野田氏宅とする。

 

*素堂、乙刻歳旦

 積雲開一夜 百花卉新芽 凍釈水中水 雪残花外花 偏歡風物改

 更忘老年加 幸被諂光照 居然愛我家

 

*素堂、二月、『花かつみ』百花堂文車編。

一葉浮て母に告ぬる蓮かな(素堂)

・『花かつみ』陸奥国二本松近辺の作者による四季発句と、文車等の歌仙一巻を収める。巻頭は内藤風虎。

 

*素堂、『住吉物語』発句一入集。清流(祇空)編。

あさがほの星と一度にめでたけれ(素堂)

『住吉物語』、祇空の処女選集。四季の諸家発句と祇空の編者一座の連句を一集に編んだもの。

芭蕉の発句で始まる歌仙や土芳の「芭蕉翁百ケ日」を収録。

 『笈日記』、三月四日、支考江戸に入る。(芭蕉庵について)

(略)その比嵐雪亭に、句合の侍りけるが、

  白つゝじまねくやう也角櫓(嵐雪)

 十二日は阿叟の忌日つとむるとて、桃隣をいざなひて、深川の長慶寺にまうで侍る。是は阿叟の生前にたのみ申されし寺也。堂の南の方に新に一基の塚をきづきて、此塚を「発句塚」といへることは、

 世の中はさらに宗祇のやどり哉(翁・芭蕉)

 此短冊を此塚に埋めけるゆへなり。此ほつ句はばせをが庵の一生の無ゐなるべしと、杉風のぬし、かたり申されし。かの塚の前に香華をそなへ、まさ木の枝を折、左右にかざしをきて、いふ事も思ふ事もなき跡はしらずなりぬるよと、ふたりながら泣て去ぬ。

その後舊草を見に行けるが、たゞ見知らぬ人の住みてぞ侍るなる。むかし此叟の深川を出るとて、此草庵を俗なる人にゆづりて、

草の戸も住みかはる世や雛の家

 今はまことに、すまずなりてかなし。

《筆註》この後に元禄元年(貞享五年)の

 素堂亭十日菊

 さか折のにゐはりの菊とうたはゞや(素堂)

 はなれじと昨日の菊を枕かな(素堂)

 芭蕉庵十三夜

 もろこしに富士あらばけふの月見せよ(素堂)

を掲載する。(前書を省く、元禄元年の項参考)

 

*素堂、『笈日記』所収句。

 秋野

名もしらぬ小草花さく野菊哉(素堂)                   

*八月素堂母急逝(享年八十才)

 『竹洞全集』所収 竹洞漢詩

素堂の母に捧げる挽歌

  素堂山処士養八旬 老萓堂至孝乙亥之夏 忽然遭喪哀

 

〔素堂余話〕《母》

 素堂の母の没年は長いこと元禄三年の事と思われていた。それは甲府尊躰寺にある山口家の墓所にある、山口市右衛門建立の墓石に元禄三年十二月十四日の刻字があるからである。しかし山口殿と呼ばれた富商酒造家の施主、市右衛門の墓石が見えない。また墓石の側面にある「魚町山口市右衛門尉老母」も後世刻したものともとれる。またこの墓所には様々家の墓石が混入している。甲府勤番士等の名もある。この墓所に素堂の父母が眠っている可能性は少ない。 

 

*素堂、甲斐に入る。

(素堂と甲斐の関連を唯一確認できる資料)『甲山記行』

 それの年(元禄8年 )の秋甲斐の山ぶみをおもひける。そのゆえは予が母君がいまそかりけるころ身延詣の願ありつれど、道のほどおぼつかなうて、ともはざりしくやしさのまゝ、その志をつがんため、また亡妻のふるさとなればさすがになつかしくて、葉月の十日あまりひとつ日かつしかの草庵を出、むさしの通を過て、

かはくなよわけこし跡はむさしのゝ月をやどせるそでのしら露

 其日は八王寺村にやどり、十二日の朝駒木根の宿を過、小仏峠にて

 山窓は江戸を見ひらく霧の底

 上野原に昼のやすみ、これより郡内領橋泊。

橋の長さ十六間、両方より組出して、橋柱なく、水際まで三十三尋、

水のふかさも三十三ひろあるよしをまうす。(猿橋のこと)

 暫止吟鞍往又帰 

渓深苔滑水音微 

雲埋老樹猿橋上 

未聴三声沾客衣

 勝沼、昼やすみ。此ところあふげば天目山。臥てみれば一里ばかりの間みな葡萄のみなり。

下くぐる栗鼠やぶどう棚

伊沢、日上人( 日蓮 )の一石に一字書つけてながし玉ふも拾ひつくして求るによしなし。

 さびたりとも鮎こそまさめたゞの石

 十三日のたそがれに甲斐の府中につく。

外舅野田氏を主とす。

十五夜またも見む秋ももなかの月かげにのきばの富士の夜のひかりを

十三夜沢、三寂(石氏…医者)興行に

 楓葉巻廉入興時 主賓相共促新詩 今宵玉斧休脩月 二八峨眉猶是宜

 晴る夜の江戸より近し霧の不二

 十九日、信玄公の古府中を尋侍りて

古城何処問栖鴉 

秋草傷霜感慨多 

力抜山兮時不利 

惜哉不唱大風歌               

城外の夢の山にのぼりて奇石を見出し、草庵へむかへとりて山主人に一詩をおくる。

万古高眠老樹間 

一朝為我落塵寰 

石根應見白雲起 

今尚不醒在夢山

 二十一日、身延へ詣けるに青柳村より舟を放て

竹輿破暁出城門 

紅葉奪名青柳村 

十里舟行奔石上 

急流如矢射吟魂

 はき井村につきて其夜はふもとの坊にやどりし、元政上人の老母をともなはれし事をうらやみて

夢にだも母そひゆかばいとせめてのぼりしかいの山とおもはめ

 一宿延山下 

終宵聞妙音 

清流通竹鳴 

閑月落松陰

暁見烟嵐起 

偏忘霜露侵 

鐘鳴猶寂寞 

好是洗塵心

 翌朝、山上に至り上人の舎利塔を拝て、かひの府より同道の人

 上人の舎利やふんして木々の露

北のかたへ四里のぼりて七面へ詣けるに山上の池不払して一点の塵なし。

此山の神宝会の場に美女のかたちにて見え給ふよしかたりけるに

 よそほひし山のすがたをうつすなる池のかゝみや神のみこゝろ

 下りには一里ばかりの間松明に火にてふもとの坊に帰りぬ。翌日甲斐の府に帰路の吟

 蔕おちの柿のおときく深山哉

 重九の前一日、かつしかの庵に帰りて

  旅ごろも馬蹄のちりや菊かさね

 

《註》素堂が来府中の八月十三日に医者石氏玄和(三寂)と和した漢詩がある。         

 酒談茖話轉吟望 

甲武相隣心地香 

山秋霖染楓樹晩 

又思閑月幽堂照

《註》

所収-(『地歴の甲斐』第二巻 第一号 「甲陽儒学一班」)

石氏玄和-

甲府山田町の人、字は一任・三淑と称した。代々医業を営んでいる。

三淑は石氏家の三世で、医を岡本玄治に学び、儒学を林家に受けた。

郷党に未だ経傳を説く者が無かったが、

玄和が始めて四書六経及び群書を講じたところ、聴者が墸の如くであった。

宝永八年(1711)没。

《註》

素堂にとって甲斐は妻の故郷であった。文中に出てくる「外舅」野田氏は当時の甲府奉行の野田勘兵衛か、勘兵衛の父、七郎右衛門である。素堂はこの元禄八年に「濁川改浚工事」の事で、時の代官触頭桜井孫兵衛と会談して、工事の手代として活躍した事になっているが、工事は元禄九年四月の着工である。

この九年に素堂が再び甲斐に入った形跡は資料からは見えない。山梨県では素堂の俳諧に尽くした事蹟より、「濁川改浚工事手代、官兵衛」として有名であり、諸書に紹介されている。

(外舅野田氏については現在調査中で、結果は別述する)

 

『甲斐国志』

 

元禄八乙亥歳素堂五十四、帰郷して父母の墓を拝す。且つ桜井政能に謁す。

〔前年甲戌政能擢され御代官触頭の為府中に有り〕

政能素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。嘆息して云ふ。

・政能

濁河は府下の汚流のあつまる所、煩年笛吹河瀬高になり、下の水道のふさがる故を以て、濁河の水山梨中郡に濡滞して行かず。〔本州諸河砂石漂流して其の瀬年々高し〕民は溢決に苦しみ、今に至尚爾り。国の病と為す。実に甚だし。(中略)政能屡々之を上(幕府)に聞すれども言(許可の沙汰)未だ聴かれず。それ郡の為め民の患いを観、すなわち之を行く救う事あたわずや。吾れ辨じて去らんと欲す。然れども閣下(素堂)に一謁して自らの事の由を陳べ、可否を決すべし望み謂ふ。足下よく絆されて補助あらんことを。

 

・素堂

 素堂答て云ふ。人者これ天地の役物なり。可を観て則ち進む。素より其分なり。況んや復父母の国なり。友人桃青も前に小石川水道の為に力を尽せし事ありき。僕謹みて承諾せり。公のおおせにこれ勉めて宜しくと。

・政能

 政能大に喜びてあけがたに出発することを命ず。

・住民

 十村の庶民蹄泣して其の行を送る。

・政能

 政能顧みて之れ謂を云ふ。吾思ふ所あり。江戸に到りて直ちに訴へんとす。事就らざる時は、汝輩を見ること今日に限るべし。構へて官兵衛(素堂)が指揮に従ひ、相そむくことなかれと云々。

・素堂

 素堂は剃髪のまゝ双刀をたばさみ、再び官兵衛を称す。

・政能 

幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。

・住民 

村民の歓び知りぬべし。

・素堂

 官兵衛又計算に精しければ、是より早朝より夜遅くまでに役夫を勒して濁河を濬治す。

 

《復興》

 高橋より落合に至る堤を築き、二千一百有餘間を導きて、笛吹河の下流に合わせ注ぐ。明くる年丙子落成す。悪水忽ち流通し、沼淵涸れ、稼穡繁茂して民は窮患を免る。以て前に他に奔たる者も皆な舊居に復し、祖先の墓を修うことを得たり。

 

・住民 

是に於て生祠を蓬澤村庄塚と云ふ所に建て、桜井明神と称へ、山口霊神と伴せ歳時の祭祀今に至まで怠り無く、聊でか洪恩に報いんと云う。

・素堂

素堂は其の事が終わり蚤く葛飾の草庵に還り去り、亦宿志を述し、遂に桃青と共に俳諧専門の名を成せり。

 

《註》

 この『甲斐国志』の記述の基は、元文三年(1738)に政能の姪斎藤六左衛門正辰(御勘定方)が建立した石碑の刻文によるが、碑文には素堂関与の記事は見えない。また正辰は享保十八年に来甲して、石祠を高橋・蓬澤の住民に建立させていて、これは石碑と共に現在も残っている。(近いうち工事で移転)

※『国志』であっても間違いや認識不足が目立つ記述である。

 素堂が甲斐人として認識されるようになったのは『国志』以後のことで、素堂は知識人としてより、河川工事の指揮者に祭り上げられ、その陰に隠れて多くの俳諧事蹟が消失することとなったのである。

 

『芭蕉翁桃青伝』其日庵錦江(馬場錦江)編輯 安政六年(1859)刊。

 

 山口素堂隠士と為して東都に住む。たまさか甲州の遊ぶとき、

県令桜井孫兵衛政能は素堂を招き、茨(蓬)沢の水利を頼む。

素堂曰く、父母の国なり乃ち諾し為し、更に山口官兵衛と復称し、

従役を率いて七邑の漂没を救ひし事は官に於て記す。

且つ甲斐国志に詳しい。其の功の速やかなれば、

邑民生祠を建てゝ山口霊神と唱える。(『甲斐国志』引用)

 

元禄9年(1696)55才

 

世相

 老中格、柳沢吉保。四月に萩原重秀が勘定奉行となり、貨幣政策を推進しょうとしたが、思うように捗らなかった。

俳壇               

 三月、桃隣芭蕉を偲び奥羽行脚に出立。支考、京都双林寺で芭蕉三回忌法会を開催。

・素堂

 甲斐の濁川改修工事に手代として活躍と『甲斐国志』に記述あるが、『甲斐国志』以前の書には見えない。

 

・素堂、十月、『俳諧翁草』入集。里圃編。占圃序。「芭蕉一周忌追善集」

 

 室生氏の家に、浦の浜ゆふをうつして植てもゝえの縁を愛せられける。

紫や伊勢の海、清きなぎさより出てみくまのうつしさらぬ所々にもはひ広こりぬ。

これをゆふと名を呼ぶことは、花のいさぎよきをもて神に捧げければなり。

葉のもえ出るころは、おもとのいきほひに似て、

後これをはせを(芭蕉)といはんも過ぎたりとせず。

ねぬる夜の夢に、戀しき人に逢なと、人しれぬ事にいひ傳へはへれと、

あるし、此心を用ゐす、もとより舞曲に名ある家ならず。

 

はまゆふや風に 

其よかゝる露の 

夕へこれを     

さゆふにとり 

これをかさす

           扇にうつしたまへと                素堂書

 頭巾着て世のうさ知らぬ翁哉(素堂)

 魂やどし凩に咲梨の花   (素堂)

照る日にハ蝸牛もきする柳哉(素堂)

 其不二や五月晦日二里の旅 (素堂)

 日照年二百十日の風を待ツ (素堂)

 漆せぬ琴や作らぬ菊の友 (素堂)

 檜垣

 白河や若きもかゞむ初月夜(素堂)

 人待や木葉かた寄ル風の道(素堂)

 古足袋や身程の宿の衣配リ(素堂)

 

『俳諧翁草』

 上巻には里圃・沾圃の両吟、里圃・沾圃・素堂・沾徳ら七吟の追善歌仙。

素堂・其角・杉風・桃隣らの追善発句。

沾圃・素堂の「浜ゆふの記」を収め、

下巻には芭蕉以下嵐雪・丈草・曾良・去来ら

蕉門の他、露沾・才麿・沾徳らの発句を四季別に収める。                            

 

占圃

 服部氏。鴨栄九郎、宝生流、室生左太夫重世。

八世古将監重友三男。初め越前毛利家に仕え、

のち岩城城主内藤露沾に仕える。素堂の手引きで芭蕉に入門。(『俳文学大辞典』)                                                      

素堂、『三畫一軸の跋』琴風編。序文。

我住むかつしかの同じ郷人琴風、家に立圃が盲人の情けをうつせると、

其角が乞食を畫けると、ならへ愛しけるを、はせをつくぐと見て、

人として眼くらきは、天地に日月なきに同じ。

また食にともしきも、人にして非人なり。

われたけひきしといへとも、まなこ明らかなり。

身にそふたからなしといへとも、食にともしからず、

三界を笠にいたゞきて、風月をともなひ、吟行せし圖を、

此しりへにそなへんと、淡き墨もて書ちらし、

濃州大垣の畫工に、丹青をくはへさせて、

所々の狂句をも書ぬべきあらましにて、

行脚のいそぎにやとりまぎれけん、

また立帰りての事ともやおもひけん、

反故にまきこめ、風雲流水の身となりて、

その年の時雨ふる頃、なにはの浦にてみまかりぬれば、

藻にうつもるゝ玉かしはとなりぬべきを、

事風漸くたづね出して、ほいの如く三畫一軸とはなし侍れど、

句を書のせざること賤心とやいはん、

また十分ならざる處、かへつて風流とせんや、

名印もあらざれば、炎天の梅花、雪中の芭蕉のたぐひにや沙汰せん。

されどもかの翁の友に、生きのこりてたらんもの我ならずして又たそや。

しもつさの國かつしかの散人 素 堂

 

素堂

『韻塞』発句一入集。許六・李由編。(九年十二月序・跋)                  

素堂の母七十七才の喜寿の宴を掲載する(前掲)

 

 〔俳諧余話〕         

『韻塞』(いんふたぎ)掲載の句

 甲斐の道すじを教へて

手の跡をわすれな甲斐の覆盆子時  門氏陳曲

 






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最終更新日  2021年04月21日 17時51分40秒
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