山口素堂 小高敏郎氏著
素堂は寛永十九年五月五日、甲斐国(山梨県)北巨摩郡教来石山口の郷士、山口市右衛門の長男として生まれた。山口家は、蒲生氏郷の家臣が仕官を廃し、この地に土着したという。地方の一名家であった。しかも素堂の少年の頃、山口家は甲府魚町西側に移住し、酒造業を営んで巨富を積み、「家頗ル富ミ時ノ人山口殿ト称」したという。素堂は、こういう地方の素封家の長子として、何の苦労もなく、大事に育てられ、幸福な幼少時代を送ったと思われる。これは、いわゆる立志伝中の人物に見るがごとき、激しい気魂をそだてなかったであろうが、苦労した人にありがちな暗さや片意地のゆがみを与えなかったはずである。たくましさや覇気にはとぼしいが、執着の少ない人生態度や温雅円満な性格は、既にしてこの時代に形づくられたといえよう。素堂は幼名を重五郎といった。長じて家名市右衛門を嗣いだという。こういう家の長男だから、素読や手習をはじめ、然るべき基礎的な教養万般を学んでいたと思われる。後年の博学多趣味の萌芽をここに認めてもよかろう。だが、しばらくして家督を弟に譲り、名も勘兵衛と改めて江戸へ遊学した。寛文初年二十歳ごろと推定される。遊学の目的は奈辺にあったか。長子でありながら遊学の折に富裕な家督を譲ったという以上、儒学を学んだ学者として立つか、あるいは幕府・大名に儒官として仕官するつもりであったのであろう。 (略)素堂は商売の家に生まれても、町人として一生を終わることに満足できず、富商の嗣子の地位を捨てて、あえて新しい人生コ-スをえらんだわけであろう。(以下略)