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甲斐(かい〕(「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊)
《山梨の国名》甲斐(かい〕(「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊) 山梨県の古い国名。甲斐という文字は「古事記」日本書紀」「国造本紀」などに見える。同じ「日本蓄紀」「続日本紀」.などに「柯彼」「歌斐」「加比」などと文字をあてているが、読みはみな「かひ」と読んでいる。甲斐は山間(やまあい)の国、峡「かい」の国という意味が次第に固定化したものであろう一という見方が一…般的である。 確実な文献としては「正倉院文書」の714(和銅7)年の甲斐国山梨郡司美塁日下部某が調庸布を朝廷に貢納したのが初見である。以下、737(天平9)年、761(天平宝字5〕年、762(同6)年など次第に文献に登場する。 《山梨の古道》《山梨の国名》甲斐(かい〕(「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊) 山梨県の古い国名。甲斐という文字は「古事記」日本書紀」「国造本紀」などに見える。同じ「日本蓄紀」「続日本紀」.などに「柯彼」「歌斐」「加比」などと文字をあてているが、読みはみな「かひ」と読んでいる。甲斐は山間(やまあい)の国、峡「かい」の国という意味が次第に固定化したものであろう一という見方が一般的である。 確実な文献としては「正倉院文書」の714(和銅7)年の甲斐国山梨郡司美塁日下部某が調庸布を朝廷に貢納したのが初見である。以下、737(天平9)年、761(天平宝字5〕年、762(同6)年など次第に文献に登場する。 古墳時代から古代にかけての甲斐国は、その権力の中心地がはじめ曽根丘陵から八代町方面にあり、古代ルートは富土山ろくから右左口峠、関原峠などを越える尾根づたいの古道が幹線であったと思える。 その後、古代農業社会の中心が笛吹川を束北に進み、扇状地や氾濫原である石和、春日居、岡部、一宮、御坂方面が中心に なるにしたがって古代社会の政治的中心地もその方面に移り、古道は5故紀一7世紀へかけて茜彦路が幹線となっていった。 この道筋にヤマトタケル(日本武尊〕の征夷物語が多いのも結局、大和朝廷成立期の5世紀一6世紀ころの地方統治の方式を背景につくり出されてきたものである。いいかえればこのような征夷物語は、当時の地理的知識が必要で若彦路が幹線としてひん繁に用いられていた証左であろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月21日 17時46分43秒
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