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2019年05月10日
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カテゴリ:山本勘助
山本勘助100話
 山本勘助、抜粋
引用資料 『名将』「甲陽軍艦」 腰原哲朗氏著 2003刊 頁191~

 《筆註》
 先生の著書は非常に分かり易く口語訳されている。先生の著に最初あったのは、教育社
出版の『甲陽軍艦』(昭和55年刊行)であった。
 当時この本は高森圭助氏が発行責任者であり、腰原先生の書した事を見逃していた。最
近先生の『名将』・『指揮』・『残照』を手にして、改めて先述の『甲陽軍艦』が先生の
著書であることに気がつきました。
 今回『山本勘助』百話を綴るにあたり、紹介させていただきました。
 詳細につきましては、先生の各著書をご覧下さい。

   品第十一
  鈍過ぎる大将(付)駿州今川家ならびに山本勘助

 以前、駿河での今川義元公の時代に、山本勘介が三河の国、牛窪〈愛知県豊川市)より
今川殿へ奉公を望んで参上したのだったが、この山本勘介はさんざんな醜男で、その上に
一眼、指も不自由で足も不自由であった。けれど大剛の者だったから、義元公が召しかか
えてはと、勘介寄宿先の庵原という人が、家老の朝比奈兵衛尉を通じて申上げた。この山
本勘介は大剛の者である。ことに城どり、陣どり(城構え、設計)といった軍法はよく鍛
錬されている。京流(剣道の一流派)も上手である。軍配もよく知っている者ですが……
…と申し上げたけれども、義元公はおかかえにならなかった。駿河での人々の噂で、あの
山本勘介は第一、片輪者、それに城どり、陣どりの軍法も、自分で城をもったこともな
く、兵ももったことがない身でどうしてそのようなことを知るものか、今川家へ奉公した
いからこそ虚言をいっているのだ、と言い合った。そんなことから勘介は九年も駿河にい
たけれども、今川殿は召しかかえなかった。

 九年間のうちに剣術の面で、二、三度手柄があったけれども、新当流(名は高幹塚原卜
伝によって創始された卜伝流)の兵法こそ本当で、勘弁のはどうも……と皆人は噂した。
加えて勘弁は浪人の身であったから、草履とり一人さえ連れておらず、非難する入こそ多
いものの、よく言う人などいない。このことはしかし、今川殿の御家が万事にわたって活
力を失い、御家が末に傾き、武士の道の見きわめが浅く無案内であったから、山本勘介の
身の上の批判まで悪い評判がおよんだのであろう。

 臨済寺(静岡市、大竜山臨済寺)の説山和尚(雪斎。今川義元の叔父という)が漢籍の
知識をひいて、義元公へ意見していた間は、駿河遠州・三河三カ国の政治がうまくなされ
て、尾州織田弾正(織田信秀)なども駿府へ仕えた。雪山和尚の意見がなされなくなって
から、義元公は結局、与力の弾正の忠の信秀の子信長に、わずかの少数の軍に謀られて、
討死してしまわれた。中国では二万二千五百の兵力で五万の敵に勝ち、あるいは五万の勢
力で億万をきってとることもあるという。我が国でも、北条氏康は八千の兵で、管領分八
万の兵を切り崩した(天文十五年北条氏康が上杉朝定を破ったこと)。これらはみな弓矢
の取りかた、武略の巧みさゆえである。

 そうじて単は十戦のうち九回勝つことがあるといっても、それにこだわらず、一つのあ
やうい戦でも談合して準備すればすべて勝つだろう。また兵数も大軍をあつかい慣れてい
る大将なら、小人数の兵はあつかいやすいだろう。備えのことも小人数の兵でこなせたな
ら、人車をたてやすくなろう。その理出はたとえば、三万の兵をもっている大将は、家老
五人に五千ずつあずけ、本大将の自分ともに六人で三万の兵を支配するとする。こういう
手段を、兵法を知らない者はよいことだと思うだろう。しかしこれは何とも危険なことが
多いものだ。
 三万の大将の下には、兵が二百、三百、五百、千あるいは三千というように小人数の軍
にすべきである。さて大軍なみの陣立を心がけて、小人数の陣容で訓練する場合もあるだ
ろう。その場合、その大将にとっては宋配を振うのに目がゆきとどかないということが生
じがちだ。それはたとえば着る物ひとつを寒い夜に一二人して着て寝るように、何とも迷
惑なことになりがちなのだ。そういうわけで、少数の兵で陣立することに精通すれば、大
多数の陣立はなおやりやすくなろう。
 そういうわけで、信玄公の場合は二十五人からはじめられた。たとえば番匠(大工)が
大和の国、奈良の大仏殿を造るのでも、二尺三尺のかねじやくでもってし、二間四方の小
さい堂にもそれで間にあわせる。そのように、すこしの兵でもって、多勢に匹敵する陣立
に組み合すのがよいというものだ。大きな陣立では、必要があるということで兵を分けた
場合、備えが減ることになるので将も家来も上下皆力をおとすものだ。そうなると、そこ
にいる敵の気勢があがることになる。そうじて大軍が崩れた場合には、どんな名大将とて
も、そして配下のどんな剛の者でも収拾がつかず手におえなくなるものだ。

 また山本勘分流の剣術については、新当流(ト伝流)ではないからとそしるのは見当は
ずれた。新当流でも皆上手だというわけではあるまい。京流でも皆下手だというわけでは
あるまい。この勘介は白刃でも、木刀でもたびたび手柄をたてるほど上手であった。いか
なる道でも上手なことこそほめるべきことだ。
 それをわきまえずに、山本勘助を批判なさった、今川殿の家連が尽きてしまったのも、
調査の怠慢からである。いかに山本勘介が、牛窪という田舎の小身な低い家の出身であっ
ても、軍法をよく鍛錬しているという点では、信玄公は勘介の博識を聞かれ、たいしたも
のだと注目し、百貫の知行を下さるとは………と譜代の小身衆がむやみに騒いではという
ので、板垣信形(信方。品第四前出)に仰せつけ、馬・弓・鑓・小袖・小者を道の途中ま
でさしむけられた。それで山本勘介は甲府へよろしき姿で参上でき、出仕の挨拶に参上し
た。その態度に感じて即座に二百貫の知行へと増したことについてのいきさつだが、あれ
ほどの不男だったにかかわらず有名だった勘介は、よくよくの手柄があったのだろう。約
束の百貫でも多いくらいなのに、二百貫にしたについては、有能な信玄公が勘介を家中の
宝と考えられたからだ。
 (以下略)





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最終更新日  2021年04月21日 17時44分20秒
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