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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月10日
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カテゴリ:古代史料
こうして甲斐の国造りが始まった。

  日本書紀 日本書紀年表(歴史読本)

祟神天皇 年不詳
◇国造県主の号見ユ
 ◆神武天皇、橿原(かしはら)に宮殿を造り始める。


祟神天皇 十年 紀元前   88 日本書紀
◇四道将軍ノ事ナドアレド諸国造ノ名ハ審カナラズ
 ◆大彦命を北陸に、武渟川別(たけぬなかわ)を東海に、
  吉備津彦を西道に、丹波道主主命を丹波に遺す。
   
祟神天皇   六十二年  紀元前   36 日本書紀
 ◇狩坂(カリサカ)の池・反折(さかおり)の池を造る。

祟仁天皇  元年    29 日本書紀
 ◇祟仁天皇即位する。

祟仁天皇  二年    28 日本書紀
 ◇狭穂姫を皇后に立てる。

祟仁天皇  三年    27 日本書紀
 ◇新羅の王(ニシキ)の子天日槍が帰化し、持参した物を但
  島国に納め、神宝とする。

祟仁天皇  四年    26 日本書紀
 ◇皇后狭穂姫の兄が謀叛を企て、皇后に手助けを求める。

祟仁天皇  五年    25 日本書紀
 ◇天皇が来目に行幸し高宮にいるとき、皇后は狭穂彦王
  の反意を告げる。天皇は八綱田に命じ狭穂彦王を討た
  せ、皇后もともに崩じる。
  

開化天皇 『古事記』

若倭根子日子大毘毘の命、春日の伊耶河の官にましまして、天の下治らしめき。この天
皇、旦波の大県主、名は由碁理が女、竹野比売に娶ひて、生みませる御子、比古由牟須美
の命。一柱。また庶母(みままはは)伊迦賀色許売の命に娶ひて、生みませる御子、御真
木入日子印恵の命、次に御真津比売の命。また丸邇(わに)の臣の祖、日子国意祁郡(ひ
こくにおけつ)の命が妹、意祁都比売の命に娶ひて、生みませる御子、日子坐の王。一
柱。また葛城の垂見の宿禰が女、鵁比娶ひて生みませる御子、建豊波豆羅和気の王。一
柱。この天皇の御子たち并はせて五柱。男王四女王一。かれ御真木入日子印恵の命は、天
の下治らしき。その兄比古由牟須美(みこのかみひこゆむすみ)の王の御子、大筒木垂根
の王、次に讃岐の垂根王。二柱。この二柱の王の女、五柱ましき。次に日子坐の王、山代
の荏名津比売、またの名は苅幡戸弁に娶ひて生みませる子、大俣の王、次に小俣の王、次
に志夫美の宿禰の王。三柱。また春日の建国勝戸売が女、名は沙本の大闇見戸売(おほく
らみとめ)に娶ひて、
生みませる子、沙本毘古(さほびこ) の王、次に袁耶本(をざほ)の王、次に沙本毘売
の命、またの名は佐波遅比売。この沙本毘売の命は伊久米の天皇の后となりたまへり。
次に室毘古の王。四柱。また近つ淡海の御上の祝がもちいつく、天の御影の神が女、息長
の水依比売に娶ひて、生みませる丹波の比古多多須美知能宇斯の王、次に水穂の真若の
王、次に神大根の王、またの名は八瓜の入日子の王、次に水穂の五百依比売、次に御井津
比売柱。またその母の弟袁祁都比売の命に娶ひて、生みませる、山代の大筒木の真若の
王、次に比古意須の王、次に伊理泥の王。三柱。およそ日子坐の王の子、弁はせて十五
王。かれ兄大俣の王の子、曙立の王、次に菟上の王。二柱。この曙立の王は、伊勢の品遅
部、伊勢の佐那の造が祖なり。菟上の王は比売陀の君が祖なり。次に小俣の王は、当麻の
勾の君が祖なり。次に志夫美の宿禰の王は、佐佐の君が祖なり。

 次に沙本毘古の王は、日下部の連、甲斐造が祖なり。次に袁耶本の王は、葛野の別、近
つ淡海の蚊野の別が祖なり。次に室毘古の王は、若狭の耳の別が祖なり。その美知能字志
の王、丹波の、塵須の郎女に娶ひて、生みませる子・比婆須比売の命、次に真砥野比売の
命、次に弟比売の命、次に朝庭別の王。四柱。この朝庭別の王は三川の穂の別が祖なり。
この美知能宇斯の王の弟、水穂の真若の王は、近つ淡海の安の直が祖なり。次に神大根の
王は、三野の国の造、本巣の国の造、長幡が祖なり。次に山代の大筒木真若の王、同母弟
伊理泥の王が女、丹波の阿佐波毘売に娶ひて、生みませる子、迦邇米雷の王、この王、丹
波の遠津の臣が女、名は高材比売に娶ひて、生みませる子、息長の宿禰の王、この王、葛
城の高額比売に娶ひて、生みませる子、息長帯比売の命、次虚空律比売の命、次に息長日
子の王。三柱。この王は吉備の品遅の君、針間の阿宗が祖なり。また息長の宿禰の王、河
俣の稲依毘売に娶ひて、生みませ大多牟坂の王。こは多遅藤の国の造が祖なり。上にいへ
る建豊波豆羅和王は、道守の臣、忍海部の造、御名部の造、稲羽の忍海部、丹波の竹野の
別、依網の阿毘古等が祖なり。天皇、御年陸拾参歳(むそぢまりみつ)御陵は伊耶河の坂
の上にあり。

 沙本毘古の叛乱 (『古事記』)

この天皇、沙本毘売を后としたまひし時に、沙本毘売の命の兄、沙本毘古の王、その同母
妹(いろも)に間ひて日く、「夫(せ)と兄(いろせ)とはいづれか 愛しき」いひしか
ば、答へて日く「兄を愛しとおもふ」と答へたまひき。ここに沙本毘古の王、謀りて日
く、「汝まことに我を愛しと恩ほさば、吾と汝と天の下治さむとす」といひて、すなはち
八塩折の紐小刀を作りて、その妹に授けて日く、「この小刀もちて、天皇の寝したまふを
刺し殺せまつれ」といふ。かれ天皇、謀をその知らしめさずて、その后の御膝を枕きて、
御寝したまひき。ここにこの后、紐小刀もちて、天皇の御頸炎刺しまつらむとして、三度
挙りたまひて、哀しとおもふ情にえ忍へずして、頸をえ刺しまつらずて、泣く涙、御面に
落ち溢れき。天皇驚き起ちたまひて、その后に間ひてのりたまはく、「吾は異しき夢を見
つ沙本の方より、暴雨の零 りて、急に吾が面を沾しつ。また錦色の小蛇、我が頸に纏繞
(まつ)はりつ。かかる夢は、こは何の表にあらむ」とのりたまひき。ここにその后、争
ふべくもあらじとおもほして、すなはら天皇に白して言さく、「妾が兄沙本毘古の王、妾
に、『夫と兄とはいづれか愛しき』と間ひき。ここに面に問にえ勝へざりき。かれ妾、
『兄を愛しとおもふ』と答へ日へば、ここに妾に誂へて日く、『吾と汝と共に天の下を治
らさむ。かれ天皇を殺せまつれ』といひて、八塩折の紐小刀を作りて妾に授けつ。ここを
以ちて御頸を刺しまつらむとして、三度挙りしかども、哀しとおもふ情忽に起りて、頸を
え刺しまつらずて、泣く涙の落ちて、御面を沾らしつ。かならずこの表にあらむ」とまを
したまひき。ここに天皇詔りたまはく、「吾はほとほとに欺かえつるかも」とのりたまひ
て、軍を興して、沙本毘古の王を撃ちたまふ時に、その王稲城を作りて待ち戦ひき。この
時沙本毘売の命、その兄にえ忍へずして、後つ門より逃れ出でて、その稲城に納りまし
き。れい出でて、その稲城に納りましき。この時にその后妊身みましき。ここに天皇、そ
の后の、懐妊みませるに忍へず、また愛重みたまへることも、三年になりにければ、その
軍を廻して急けくも攻迫めたまはざりき。かく逗留る間に、妊める御子既に産れましぬ。
かれその御子を出して、稲城の外に贋きまつりて、天皇に白さしめたまはく、「もしこの
御子を、天皇の御子と恩ほし看さば、治めたまふべし」とまをしたまひき。ここに天皇詔
りたまはく、「その兄を怨みつれども、なはその后を愛しとおもふにえ忍へず」とのりた
まひて、后を得むとおもふ心ましき。ここを以ちて軍士の中に力士の軽捷さを選り聚へ
て、宣りたまはくは、「その御子を取らむ時に、そ初母王をも掠び取れ。み髮にもあれ、
み手にもあれ、取り獲むまにまに、掬みて控き出でよ」とのりたまひき。ここにその后、
あらかじめそのみ情を知りたまひて、悉にその髪を剃りて、その髪もちてその頭を覆ひ、
また玉の緒を腐して、手に三重纏かし、また酒もちて御衣を腐して、全き衣のごと服せ
り。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出でたまひき。ここにその力士ど
もその御子を取りまつりて、すなはちその御祖を握りまつらむとす。ここにその御髪を握
れば、御髪おのづから落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御
衣すなはち破れつ。ここを以ちてその御子を取り獲て、その御祖をばえとりまつらざり
き。かれその郡士ども、還り来て奏して言さく「御髮おのづから落ち、御手に纏かせる玉
の緒もすなはち絶えぬ。かれ御祖を獲まつらず、御子を取り得まつりき」とまをす。ここ
に天皇悔い恨みたまひて、王作りし人どもを悪まして、その地をみな奪取りたまひき。
かれ諺に、「地得ぬ王作り」といふなり。また天皇、その后に命詔したまはく、「およそ
子の名は、かならず母の名づくるを、この子の御名を、何とかはむ」と詔心たまひき。こ
こに答へて白さく、「今火の稲城を焼く時に当りて、火中に生れましつ。かれそ御名は、
本牟智和気の御子とまをすべし」とまをしたまひき。また命詔まはく「いかにして日足し
まつらむ」とのりたまへば、答へて白さく、「母を取り、大楊坐、若楊坐を定めて、日足
しまつるべし」とまをしたまひき。かれその后のまをしたまひしまにまに、日足しまつり
き。またその后に問ひたまはく汝の堅めし端の小佩は、誰かも解かむ」とのりたましか
ば、答へて白さく、「旦波の比古多多須美智字斯の王が女、名は兄比売弟比売、この二の
女王、浄き公民にませば、使ひたまふべし」とまをしまひき。
然ありて遂にその沙本毘古の王を殺りたまへるに、その同母妹も従ひたまひき。

景行天皇  四年  紀元    74
 ◆天皇の男女前後並八十子然シテ日本武尊、稚足彦天皇、
  五百人皇子ヲ除ク之外七十余子皆封国郡各如其国故当
今時謂諸国之別者即其別王之苗裔焉。


景行天皇 四十年  紀元  110~113
◇日本武尊到甲斐国居酒折宮(中略)居此宮以靭部賜大
  伴連之遠祖武日也。(靭大伴部之事詳上代姓民部)ト
  アリ塩海足尼ノ賜国造モ是時ニ在ルヤラン。
 ◆景行天皇、日本武尊に斧と鉞(マサカリ)を授け、東夷を討
  つように命じる。日本武尊、征途に出発する。

  日本武尊の東征と酒折宮伝説 『甲府市史』

 蝦夷既に平けて、日高見国より還りて、西南(ヒツジサル)の常陸を歴て、甲斐国に至
りて酒折宮に居します。時に挙燭(ヒトモシテ)して進食(ミオシ)す。是の夜、歌を以
て侍者の問いて曰(ノタマワク) 新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる 諸々の侍者、え答え
言さず。時に秉燭者(ヒトモセノモノ)有り 王の歌の末に続けて歌(ウタヨミ)して曰
さく、日日並べて夜には九夜 日には十日を 即ち秉燭者の聡を美(ホ)めたまいて大伴
連の遠祖武日に賜う。是に日本武尊曰わく、蝦夷の凶しき首(ヒトコノカミ)威(ミナ)
其の辜(ツミ)に伏(したがい)ぬ。唯信濃国・越国(コシノクニ)のみ頗る未だ化(ミ
オモムケ)に従わずと。
 即ち甲斐より北、武蔵・上野を転り歴て、西碓日坂に逮(イタ)ります。時に日本武
尊、毎に弟橘媛を顧びたもう情有(ココロマ)します故、碓日嶺に登りて、東南を望りて
三たび歎きて曰わく、吾嬬はやと、故因りて山の東の諸国を号(ナヅ)けて、東嬬国と
曰(イ)う。

古 事 記……出雲-相模小野-足柄坂-新治-筑波-甲斐酒折宮-信濃-尾張-伊勢
   -尾張-三重-奈良-  

 日本書紀……常陸-甲斐酒折宮-尾張-滋賀  

宮下文書……田子の浦-浮島ケ沼-山宮-駿東-伊豆-上総-常陸-足柄
   -甲斐坂折ノ宮-明神峠-信濃-尾張-美濃-三重-能煩野(のぼの)





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最終更新日  2021年04月21日 17時42分53秒
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