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2019年05月10日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室
山梨県歴史講座 甲斐の御牧関係の資料

資料 『山梨県郷土史研究入門』

  一、甲斐の御牧

 御牧は、律令制下の牧の制度が衰退する中で、朝廷の用に供する馬の供給を目的として
 甲斐・信濃・武蔵・上野の四ヶ国に限って設置されたもので、創設年代は八世紀末であ
ろうとされる。
 『延喜式』によれば、毎年の貢馬数は、甲斐国三牧六〇疋・信濃国十六牧八〇疋・武蔵
国四牧五〇疋・上野国九牧五〇疋と定められていた。
 甲斐の三牧とは、穂坂牧(三〇疋)・真衣野牧・柏前牧(二牧で三〇疋)をいい、穂坂
牧は全牧中最大の貢馬数であった(後には、武蔵国に貢馬四〇疋の小野牧が設置される)
御牧からは、毎年四歳以上の良馬が中央に貢進される。牧ごとに貴進日は定められてお
り、真衣野・柏前牧は八月七日、穂坂牧は八月一七日であった。その日には、宮中で駒牽
が行われ、所管する左右馬寮の他、公卿らに馬が分配された。この駒牽は、平安時代の宮
中行事として定着し、年中行事となったため『北山抄』等の有職故実書にも関係記事が散
見する。
 甲斐の御牧について、まず問題とされたのがその所在である。江戸時代の加賀美光章
『甲斐御牧考』・『甲斐名勝志』・『甲斐国志』などで論じられており、穂坂牧=韮崎市
穂坂町付近、真衣野牧=武川村牧原付近とするのには異論がなく、柏前牧については勝沼
町柏尾とする説(名勝志など)があるものの、高根町樫山に比定するのが通説となってい
る。昭和三三年、松平乗道氏は今までの所在地論だけではなく、御牧の制度上の特色を整
理し、十一世紀後半に甲斐の御牧からの貢上馬の駒牽儀式が消滅する原因を、荒廃化、荘
園化・私牧化などと把えた(「古代における甲斐の牧」『甲斐史学』三号)。同様な観点
から磯貝正義氏は「甲斐の御牧」(『一志茂樹博士喜寿記念論文集』昭四六、後『郡司及
び釆女制度の研究』に「古代官牧制の研究」として収録)において、制度の変遷を詳述し
た上で、御牧成立の背景には、甲斐の黒駒に代表されるそれ以前からの馬・飼育の伝統が
あったが、制度上の破綻から御牧は衰退し、穂坂牧は小笠原牧に、柏前牧は逸見牧に、真
衣野牧は武河牧にとそれぞれ私牧に転換していった可能性を指摘した。同時期、藤森栄一
氏は甲斐の黒駒特定し、黒駒牧から北巨摩の御牧への時代的発展を想定している。(「甲
斐の黒駒と望月の牧」『古代の日本』六巻・昭四五)。 こうした研究動向に対し、相前
後して刊行された市町村誌は、
  上野晴朗「御牧」 『明野村誌』 昭三八年刊
  佐藤八郎「穂坂の牧」 『韮崎市誌』 昭五三年刊
  佐藤八郎「柏前牧と小淵沢」   『小淵沢町誌』 昭五八年刊
  佐藤八郎「真衣野の牧」 『武川村誌』 昭六一年刊
  秋山 敬「真衣野牧」 『白州町誌』 昭六一年刊
  秋山 敬「柏前牧」 『高根町誌』  平成二年刊
などであり、それぞれ研究成果を踏まえながら地域の特徴に基づいて記述している。
なお、『白州町誌』には、『日本紀略 などの諸書に散見する甲斐の御牧からの貢馬例が
一覧表に整理されていて便利だが、若干誤植もある。
 最近、考古学の立場から新たな提言がなされている。萩原三雄氏が「八ケ岳南麓におけ
る平安集落の展開」(『山梨考古学論集』1昭六一)の中で、八ケ岳南麓に拡がる平安集
港祉群の生成・消滅の時期が、御牧の成立・衰退の時期に一致する例が多いことから、両
者の関連を想定し、史上から同山麓にあったとされる柏前牧だろうとした。また、末木健
氏は甲斐型土師器坏の分布などを根拠として、古代の由信国境は現在よりも西の立場川で
あると考え、柏前牧の所在を現在の長野県富士見方面に求めている(「八ケ岳西麓の古代
甲信国境」『甲路』五九号)。
 最新の発掘成果に基づく斬新な視点は、湯沢遺跡(長坂町)に見られるような牧関運遺
構の発見などとともに、今後の御牧研究の一つの方向を示唆すものであり、文献史学の成
果との整合性が求められることになろう。
 また、御牧衰退後、約半世紀の間をおいて甲斐源氏が良馬を求めて北巨摩を拠点とす
る。これは御牧の衰退が必ずしも馬飼育の終馬を意味しないことを示すものであり、こう
した点からのアプローチも望まれる。御牧の込牧化はその一つの回答ではあるが、推進者
たる在地勢の究明はなされていない。更に、他の三国との比較から甲斐の御牧の特質を検
出するなどの作業や甲斐の黒駒以来の馬生産適地たる甲斐国の伝統と高麗人との関わりな
ど御牧成立前史ともいうべき方面の追求も必要となろう。【秋山敬】

  二、駒牽

平安時代に宮廷の年中行事の一つに駒牽があった。毎年八月の定められた日に、諸国の御
牧(勅旨牧)から一定数の馬を貢進し、それを天皇が紫宸殿などに出て群臣といっしょに
みて料馬を定め、左右馬寮や親王以下諸臣などに分与する行事である。令の制度では国ご
とに牧を設けて牛馬を飼い、馬は軍団などの用にあてるという規定であった。
   (『厩枚令』〉
 黒駒以来の伝統をもつ甲斐は律令時代になっても名馬の産地であった。天平三年(73
1)十二月には、国守田辺史広足が身体が黒くたてがみと堤が白い甲斐の黒駒を神馬とし
て献上し、それが大瑞にかなっていたので、朝廷は天下に大赦し、孝子順孫、高年鰥寡・
□独の自存できないものに賑給し、馬を獲たものには位三階を進め、甲斐国は今での庸
を、馬を出した郡は調価ともに免除し、国司史生以上と瑞を獲た人には物を賜うというた
いへんな恩典が下された(「大日本紀」〉。
 ついで天平十年の「駿河国正税帳」に、甲斐国から進上する御馬の部領使山梨郡散事小
長谷部麻佐主従二人が、一日一郡の行程で駿河国六郡から食糧の官給を受けたと記録され
ている。甲斐国が国内の軍団用や駅馬用だけでなく、長い伝統に従って中央への貢馬の用
にも役立てていたことがわかる。やがて軍団制が廃止されると、牧の目的もかわり、中央
に馬を貢進することのほうが主目的となった。
 牧には種類があるが、御牧のおかれたのは甲斐・武蔵・信濃・上野の四国だけで、甲斐
の御牧は柏前・真衣野・穂坂の三牧であった。(「延喜式」左右馬寮)
 真衣野牧は「和名抄」の真衣郷の地、駒ヶ岳山麓の武川村方面(牧ノ原の地名がのこ
る)、穂坂牧は茅ヶ岳山麓の韮崎市穂町方面にあった。柏前牧については東山梨郡勝沼町
柏尾説もあるが、八ヶ岳山麓の高根町念湯原方面に比定すのが妥当であろう。そうとすれ
ば三牧ともに、北巨摩方面にあったことになるが、牧場の発達するにはふさわしい地帯で
ある。
 牧を統率する長官を牧監といい、甲斐の牧監は天長四年(827)に設置された。それ
までは一段権限の低い主当(のち別当と改称)であった。牧監は把笏を許され、職田六町
を給されるなど国司に準ずる待遇を受けた。御牧の駒は、毎年九月十日に国司と牧監とが
牧に臨んで検印し、ともに帳簿に署名し、四歳以上の良馬を選んで調教し、明年八月に牧
監らにつけて一定数を貢上する定めであった。
 甲斐は真衣野・柏前両牧あわせて三0疋、穂坂牧三0疋計六0疋が毎年の貢上馬数であ
った(「延喜式」)
 貢馬の一行は当時の駅路を西上し、道中の国々で駅馬・人夫・秣(マグサ)などを徴発
しつつ上京したが、人数が不定であったり、虎の威ならぬ馬の威をかりて横暴のふるまい
があったりして駅次の国の迷惑はひとかたならぬものがあった。
 天長三年二月には一行の定員を定め、また貞観十二年十一月には甲斐・武蔵両国あて
に、路次における横暴に対して罰則が下されたが、その後も長く路次の国々のわずらいで
あった。(これに武蔵国四枚五0疋、信濃国十六牧八0疋、上野国九牧五0疋を加えれば
計三二牧二四〇疋となる。甲斐はほかの三国に比し牧数は少ないが、規模が大きかったこ
とがわかる。天長六年(829)十月一日、天皇が武徳殿で甲斐国の御馬を覧たという記
録があるから(「日本紀略」)当初の駒牽は十月一日ごろであったらしい。その後、貞観
年中に八月中と改定された。「西宮記」「北山妙」などによると、真衣野・柏前両牧は八
月七日、穂坂牧は十七日がその日であった。この期日は厳重に守ることが要求され、遅延
した場合には、規定の日に御馬逗留の解文を奏上する定めであった。一0世紀のはじめご
ろは、期日も馬数もほぼ守られるが、天慶四年(九四一)になると、真衣野・柏前は十一
月二日、穂坂は十 月四日に駒牽がおこなわれ、しかも前者は一五疋、後者は二0疋と、
ともに定数を大きく割った。平将門の乱の余波が甲斐にも及んだためであろう。その後は
期日・定数ともに規定通りおこなわれるのはむしろ珍しかった。政府は、国司に対し、貢
上の期日や定数をたがえたときは国司・牧監を処罰するとの令を下したり、直接馬寮の役
人を派遣して検校させたりしているが、一時的効果しかなく、一一世紀に入ると年が明け
てから前年分の駒牽がおこなわれるという極端な事例さえおこった。三枚中、柏前牧の名
がもっとも早く消え、ほかの二牧も一一世紀の終りごろを最後に駒牽の記事は現われなく
なる。おそらく一二世紀のはじめごろには甲斐の御牧の駒牽の行事はすたれてしまったの
であろう。そして武蔵や上野の駒牽もこれと相前後して史上から影を没し、駒牽の当日に
、ただ御馬逗留の解文を奏上することだけが、むなしい儀式としてのこったのである。た
だし信濃の御牧だけは中世まで長くその伝統の行事を保持し続けた。
 御牧のほかに後院牧として貢馬を出した小笠原牧の名が見える。いまの北巨摩郡明野村
小笠原で穂坂牧に隣していた。
   都までなづけてひくはをがさ原 へみの御牧の駒にや有るらむへ(「紀貫之集」)
 『小笠原へみ』の「へみ」(逸見)は八ケ岳山麓地方で、のちに甲斐源氏がここを根拠
とした。柏前牧に近接の地である。御牧がおとろえ駒蓬の行事がすたれた理由はいるいる
考えられるが、在地勢力による御牧の私牧化もその一因であった。三枚地方が新興甲斐源
氏の根拠地であったばかりでなく、駒牽の行事がすたれた時が、あたかも甲斐源氏が勃興
しようとする時に当たっていたことは、御牧の行方を示唆するものであろう。
 (松平乗道氏「古代における甲斐の御牧」甲斐史学3、
   磯貝正義「甲斐の御牧」一志茂樹博士喜寿記念論集所収)





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最終更新日  2021年04月21日 17時37分34秒
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