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2019年05月10日
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甲斐国府と律令制 甲斐の勇者
 皇極天皇四年(六四五)六月、中大兄皇子(のちの天智天皇)らは蘇我蝦夷・入鹿父子
を滅ぼして、ただちに政治政革に着手し、翌大化二年正月元旦には改新の大綱が宣布され
た。改革は多方面にわたったが、地方制度の改革は中でも重要な施策であった。すなわち
全国を国・評・里の三段階に分けて画一的な行政制度を定め、国は中央政府の派遣する国
司が統治することになった。そして従来の国造治下の国はそのまままたは分割されて評と
なり、評造がこれを治めたが、評造には国造のほか在地の新興豪族層が任用された。こう
して旧国造は国司治下の評造として律令支配機構の末端に位置づけられたが、大化前代か
ら国造がすでに名代・子代などの地方的管掌者となり、中央政府の支配力の滲透度の高か
った東国諸国は、新しい支配体制を施行するに当たっても先駆的役割を果たすことになっ
た。大化元年八月、早くも東国などの国司が任命されたらしいのもその現れであり、その
東国などの中には甲斐も含まれていたと察せられる。
 大化改新によって律令国家の基礎が定められたが、その権威は壬申の乱(672)を契
機としていっそう高められた。壬申の乱は天智天皇の死の翌年、その子大友星子を首長と
する近江朝廷に対して天皇の弟大海人皇子(天武天皇)のおこした反乱であり、乱はいち
早く東国の武力を味方にした大海人皇子方の勝利となって終結した。そしてこの東国の武
力の中に〃甲斐の勇者〃があったことが注目せられる。〃甲斐の勇者〃の存在は関晃氏に
よって明らかにされたが(「甲斐史学」1)ここではその概要を述べたい。皇子は六月二
十四日、急ぎ吉野をたって東国へ向かい、伊賀・伊勢を経て二十七日美濃に到着したとき
には、すでに先発させた使者が美濃の兵三000人を徴発して近江との境の不破の関を固
めており、到着の日には尾張の国司が二万の兵をひきいて皇子の陣営に加わった。また前
日二十六日、伊勢から使者を東海道・東山道につかわして軍兵を徴集させたが、それらの
兵力も七月に入るころには続々皇子の陣営に集まった。いっぽう大和における皇子方の総
帥大伴吹負は、飛鳥古京をおとしいれて日、紀阿閉麻呂・置始菟らを軍将とする数万の応
援軍が美濃の皇子方から大和に向かったが、〃甲斐の勇者〃もその中にあった。四日は大
和の戦況を決定した重要な日で、激戦が展開され、吹負の軍は破れて東に逃げたが、ここ
へ置始菟らのひきいる援軍が到着し、吹負は飛鳥へ引き返すことができた。たまたま吹負
の本営が近江方の別将廬井鯨のひきいる二00の精兵に急をつかれて一時は危うかったが
置始菟が鯨の軍の背後をたったため、鯨の軍は敗走し、白馬に乗って逃げる鯨は深田に落
ち動きがとれなくなった。〃甲斐の勇者〃の名の現われるのはこのときである。深田には
まった鯨を見て吹負は「甲斐の勇者」に鯨を射よと命じた。勇者はただちに馳せ向かった
が、ちょうどそのとき鯨が急に馬にむちをあてると馬は泥田から抜け出て危うく脱れるこ
とができたという。〃甲斐の勇者〃に関する「日本書紀」の記事はただこれだけであり、
かれがいかなる人物であったかは明らかでない。しかし、かれが騎馬兵であったことは、
射術の兵として現われること(弓矢は騎兵の武器であった)、吹負の命をうけて鯨を『馳
せ追う』と書かれていること、かれが置始菟にひきいられた『千余騎』の中の一人であっ
たと察せられることなどから推定がつく。伝統的な甲斐の黒駒に乗っていたかもしれな
い。騎馬兵であったとすれば、その身分は単なる農民ではなく、評造あるいはそれに準ず
る程度の地方豪族の出身者であったと考えるのが妥当である。つぎにこの〃甲斐の勇者〃
が官兵であったか私兵であったかが問題となる。乱の当時はまだ律令制的軍団は成立して
いないが、皇子方に動員された東国の兵が豪族たちの単なる私兵集団であったとはいえな
い。皇子は国司の公権力を通じて、その下部組織である評、軍を自己の側に掌握すること
によって乱に勝利を収めたのであり、それは国司・評造のもつ律令的軍事力の把握に成功
したことにほかならないからである。〃甲斐の者〃はそうした評造軍の指揮者またはそれ
に準ずる有力者であり、国司の統率のもとに部下をひきいて参戦したものであった。
 壬申の乱は″甲斐の勇者〃ら、東国の地方勢力によって大海人里子側の勝利に帰したが
これ以後天武天皇(大海人皇子)と皇后持統天皇の時代に律令体制の建設は急速に進行し
それに伴って地方豪族層の政治的地位は著しく低下し、強大な国家権力の重圧が直接地方
農民層に加わるにいたった。評制から郡制へ、評造制から郡司制 の移行、軍団制の成立
による評造軍の解体などはその結果にほかならなかった。





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最終更新日  2021年04月21日 17時35分55秒
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