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トリス社時代 サントリ- 佐治敬三氏著 『私の履歴書』より
ウイスキーは永い間ひどい差別を受けていた。 酒の仲聞には入れてもらえなかった。 国税である酒税を定めた酒税法のうえでは 「酒精ならびに酒精含有飲料」 として分類されていた時代が永く続いていかのである。 酒とは日本酒のこと、「日本酒に非ずんば酒に非ず」という牢固とした保守主義であった。 かくいじめぬかれたウイスキーではあったが、よいこともなかったわけではない 昭和十四年以未ひきつがれてきた価格統制、併せて配給統制が、 他の酒順にさきかけて昭和二十五年四月に撤廃された。 頭の中の霧がふき払われたような、すべてのクビキからときはなたれたような、 はればれした気持ちであった。 四月一日を期して、新しい価格、新しい規格の製品リストを、戦後はじめて新聞に広告した。 横一杯ベタ組みに近い、無味乾燥な告知広告ではあったが、 でんとした「マーク」にすべての思いをこめていた。 昭和二十五年、日本は疾風怒濤の時代に入ろうとしていた。 この年朝鮮戦争勃発。「朝鮮特需」は、戦後の復興、経済の成長路線へのテイクオフを可能にした。 特に東京を中心とした都市化の進展は目を見張るばかりであった。 トリスウイスキーはそうした社会の流れの中に浮かぶ一般の小さな舟であったが、 欧米へのキャッチアップをめざす近代化の追い風をうけて、 サラリーマンの聞で急速に支持者を拡げていった。 最初の本格的な広告は翌二十六年の正月の新聞紙上を飾った。 全紙面を使った、勿論戦後初の大広告であった。 「トリスにつばさが生えて、飛んでいる」 キャッチフレーズは 「うまい、安い、トリスウイスキー。サントリーウイスキー姉妹品」 当時の世相を反映して「安さ」を訴えているところが面白い。 この広告を作成した当時の寿屋宣伝部には、 戦前からの生き残りのイラストレーターがわずかに一人、 コピーライターがこれまた一人。当時の我々に求められていたのは、 何としても人材を集めて宣伝部を再生させることであった。 戦前の寿屋はユニークな宣伝活動をもってきこえていた。 有名なアートデレクターにしてコピーライター、片岡敏郎の存在は忘れることができない。 主力製品であった「赤玉」や「歯磨きスモカ」を引っ提げての活躍は、広告誌上凛として輝いている。 戦後宣伝部の再建にまず必要としたのはすぐれたレクターであった。 山崎隆夫(後の宣伝部長)と亡き兄の引き合わせであった。 当時三和銀行にあって推進していた彼は、奇しくも旧制神戸高商の出身、として親交があった。 いささかのディレッタントで高商を六年かかって卒業していた。 氏と出合ったのは朝日新聞主催の広告賞審査の席上であった。 一目ぼれというか、この人をおいて他にはサントリーの広告を託する人はいないと思い込んだ私は、 強引に誘いの手を差しのべた。 三和銀行から彼を拉致するには、頭取渡辺忠雄さんにお願いする外はない。 しらべてみると、渡辺英二さん(現日揮社長)が私と同窓、大阪化学科の、しかも小竹一門ではないか。 さっそく小竹先生を訪ねて、そのつてで渡辺頭取にお願いすることになった。 トントン拍子にまとまって、 お礼に自宅での夕食におまねきした。 山崎の本職は国画会重鎮の洋画家、銀行員は世をしのぶ仮の姿、 日頃から渡辺さんの洋画鑑賞の指南役をつとめておられた。 おおいに話がはずみ、氏は用意の色紙に、マッチの軸に墨をつけていとも簡単に女郎花を描かれる。 まるで魔法のような気持ちで手もとを見つめておられた小竹先生の後日物語りでは、 これが契機でご自身も絵筆を取ることになう。 先生の描かれたオレンジ色の一輪の「ふしぐろせんのう」は私の宝物の一つである。
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最終更新日
2021年04月21日 17時35分12秒
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