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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月11日
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素堂の漢詩文そして芭
 (略)藤原惺窩は冷泉家為純の子で、若くして僧となった人で京都嗚相国寺の学僧、程朱の学を学び、桂庵玄樹の「朱註和訓」を学んで独自性を知り還俗し、朱子学を仏教より離して独立させた京学の祖である。朱子学の墓礎を確立し、儒学を貴族・僧侶の社会より解放したのである。後に徳川家康の招致で講援はしたが門人の林羅山を推し、仕える事はしなかった。惺窩も五山派の学僧であったのである。
 博学強記と云う林羅山(道春)は京都の人で、祖は元武士で町屋に下って商いを営んでいた。羅山は弱年で五山の一つ建仁寺に入って勉んだが、僧になるのを嫌って戻り、惺窩に師事して朱子学を学び、師の推薦により徳川家康の侍講に召し出された。当時は学問で立身する者は僧侶に限られていたことから、剃髪法躯を命じられた。以後儒学者は元禄二年に剃髪が廃止されるまで絨けられた。
 寛永七年、羅山は上野忍ヶ岡に土地を与えられ家塾を建てた。また尾州侯徳川義直の援助により先聖殿(孔子廟、後の湯島聖堂)が造られ、後に家塾は寛文三年に弘文院号を与えられた。元禄三年、将軍綱吉の命で忍ヶ岡より湯島に移転となり、先聖殿が湯島聖堂を、家塾が昌平と改められて、林家は歴代が弘文学士・昌平□主(国子祭酒)を継承することになった。羅山もまた五の禅宗に関係していたのである
素堂の漢詩文
 山口素堂は漢学者であるが国文にも通じ、俳諧にも並々ならぬ素養を持ち、その見識は当時の先駆者的立場であった。しかし、俳瀦の面では松尾芭蕉の後援者となり、後世、単なる好き者(別格の意もある)扱いをされ、多くはその評価も芳しいものではないむ確かに漢詩文や鑑の作品の多くは興に乗っての即興即吟であるが、中に推敲を重ねての作品も多数ある。この傾向が現れるのは延宝末年の頃だが、これも俳諧集などの序跋文が多くなって来たこと根ざしていると考えられる。
 素堂は寛文年末頃から俳階の幽古体からの脱却を目差したのと機を一にしており、漢詩文でも古典体に囚われない自由詩体を模索して、好事者の評価を得ていた。和歌にしても原安適や「用語の自由を主張して和歌の革新をとなえた」戸田茂睡とも親交がある通り、今に残る作は少ないが機を一にしている。
素堂と芭蕉
 松尾芭蕉は古体の俳諧を革新し、芸術文芸にまで引き上げたとして、後世「俳聖」として崇められた。連歌より派生した俳諧が、松永貞徳により体系化され、北村季吟・西山宗因が堅苦しいマンネリ化した遊戯的俳諧俳糟を、独自の「さび.わび.しおり.ほそみ・かろみ」などを極致とする俳風を開き、芸術的俳潜に高めた事による。
 芭蕉も最初からこの域に達していたのではない、初めは貞門俳諧の手解きを受け、同じ門葉の季吟に師事し、後に宗因の談林調に投じ、そして素堂の後援を受けて、独自の俳鳳に至ったのである。
  素堂と芭蕉の結び付は一般には唐突である、しかし、寛文年の末頃の素堂と季吟の接触にあると推察される。勿論、春陽軒加友や内藤風虎の仲介の有ってのことであろう。延宝二年に素堂が信章として季吟に会った時には、一通りの俳諧者として遇していた。この時期は風虎と季吟の間で書状の遣り取りが頻繁であり、宗因の江戸招致も宗因の都合で中々進まずにいたのである。風虎のサロン入りをしていた素堂は、信章として仕えていた主家(未詳)の用で上溶するおり、風虎の依頼で季吟に会い、次いで難波の宗因に会ったのである。<季吟廿会集・信章難波津興行(鉢敲序)>
季吟は宗房(芭蕉)に奥書「埋木」を与えたものの腰の定まらない宗房の、江戸での引き立て方を信章に依頼したのであろう。宗房は信章(素堂)の友人である京都の儒医・桐山正哲(知幾)に依頼して「桃青」号を付けて貰い、江戸に向かったらしい。しかし、江戸に向かう前に素堂に誘われて大阪に行ったとも考えられる。(素堂の名は見えないが芭蕉語録に芝居見物の話がある)此処で宗因化紹介されたのか、只だ見ただけなのかは判らないが、この後蓑笠庵梨一の「芭蕉伝」にあるように、季吟の門人ト尺(孤吟)に誘われ江戸に向かったのである。
素堂も宗因に会って風虎の依頼を伝えたものらしく、翌年初夏に宗因は江戸に到り、「宗因歓迎百韻興行」には、宗房改め桃青(桃青号の初め)は素堂こと信章と一座し、これと共に風虎サロンにも紹介されたと考えられる、以後素堂は致仕するまで、江戸に在る時はいっしょして俳諧に一座していた。
 素堂の退隠後は、芭蕉はしばしば素堂のもとを訪れ、いろいろと学んでいたようで、門弟達と漢詩等の勉強会を開き、死ぬ元禄七年まで書物を借り出している。
 明治期の内田不知庵氏が、当時引用出来得る限りの吉文献を駆使して、興味深い芭蕉論を「芭蕉後伝」(素堂鬼貫全集)として展開しているので、抜き出しながら紹介するが、不知庵氏の骨子は是々非々の立場を保とうとしているものの、概ね芭蕉門葉の伝書などを用い、元禄期の花見箪、化政期から幕末期の「芭蕉論」書を交えて綴っておられる。編年体論でないところから、芭蕉賛美論に終っているところが少々煩わしい。
「芭蕉後伝」の(二)芭蕉の学識修養の項の中で
黍『芭蕉は実に此門(季吟)に出づ。洛に住する数年、季吟に教を受けて古しへの俳匠の為るが如く、万葉.古今.源氏.狭衣等の諸典を研鑽しぬ。芭蕉が見地の時流より一等上りしは、一つには此学問あり為めなるべし。勿論学者とし見れば、盛名今に残れる同学者若しくは儒者よりも、造詣深からざりしなるべけれども、無学者も亦一躍して点者たるを得べき俳壇にありては、通常以上の学識ありしが如し』更に
『且つ当時の古今を崇拝し、源氏を随喜する中に、特に「山家集」と「金塊集」との気韻高きを推し、「土佐日記」を俳諧なりと喝破したる如き眼識の、決して尋常ならざりしを知るべし。殊に季吟が芭蕉の説を聞いて、万葉の一疑を釈きたりといふ逸事の如き、益々芭蕉が超風の読書眼を具せしを証するに足る』
 土佐日記で思い出したが、寛文元年の初冬頃、季吟が江戸の知らせで、林春斎が誰とかの注釈「土佐日記」が版本され、その序文を春斎が書いたと知り、季吟が春斎に何が訳るかと立腹した事が「季吟日記」にあった。また『季吟が芭蕉の説云々』の処は、「芭蕉一葉集」(湖中他共編文政十年刊)の「遺語之部」に
 季吟云、・・或時桃青・・として載せ、末尾に季吟物がたり素堂より伝ふ。とある。
 なおも不知庵氏は、芭蕉が儒学を伊藤担庵に学んだとし『山口素堂に益を享けたり、漢詩の文芸、殊に経学に精通したる事跡伝わらざる上に、林門の一書生にして不熟の悪詩を残せし素堂をすら、詩に精しと称したるほどなれば、造詣の度は患像すべしといへども、白氏を渉猟したるの痕跡は、明かに俳句の上に見えたり。且つ平生杜律を誦受して--中略--唐詩は恐らく精読せし処なるべく云々』
 続けて
 『然れども、芭蕉の俳骨を渾身せしは国典にあらず、儒学にあらずして禅の修養なり。芭蕉は仏頂と往来せし日短く---中略---仏頂との往来が正風開創の一導火となりしが如し。
門人浪化日く、仏頂禅師と茶話の詞あり、翁いはく、道心を求めんとするもの、着し市中の愴忙に飽けば幽谷に隠れん、其初めに飽くものは其終りは寂莫に飽かん。左れば、今日の是非に交りながら、其是非つかはれずして自在に道を得んこと、此俳諧に遊びて名利を圧はんには如かずどなり』---中略---「然れども芭蕉は生涯禅を説かず、常に門人に道義の重んずべきを諭したれども、参禅工風の甚深なる妙趣を説法する事とて勿りき。後人が濫りに「古池の句」に附会して「特別の禅機」を這句裡に示したりと云ひ---中略---終には禅を学ばざれば、芭蕉の句を解する能はずと云ふ如きは、妄語云々』
 この個所は、本小論の冒頭の命題と同じである。不知庵氏は支考ら説や錦江の説も読んでいた。只だ芭蕉が参禅したのは禅機を得るためでは無い、己の性癖修養のためである。
  「芭蕉の学識は大凡斯の如く、惣ての詩人が概ね爾る如く深奥掩博なるものにあらざりき。勿論、学才と眼識とは明かに時流に超えたれども、修養の深浅広狭を以て比ぶれば、季吟の篤学なる、素堂の博聞なる由的の精通なる、其他猶ほ芭蕉に勝る者多かりしなるべし一酉々」。
 前にも述べたが、不知庵氏はこの書で芭蕉の性癖及び行状の項に逸しているのだが、持って生まれた性格を分析していなかった点にある。多くの芭蕉論に.洩れているのと機を一にしているのである。
 芭蕉は天才肌であり、軽重浮薄なところがあって、見識が高く、物事に対する自己顕示欲が強く、しかも朝令暮改的要素を含み、我が儘な点が多い。しかし、物事に対する執心は強いのだが好き嫌いが激しく、学識は浅く広くと云った点で、為に上水道改修水吏を途中で投げ出して深川に隠遁し、己の修養に目覚めて参禅した訳で、諸伝が云うような参禅では無かったのである。確かに人品備わり人を別け隔てなく接し、情が濃やかで人当たりが柔らかくといった良い点は多くある。これが無けれぱ多くの門弟たちを厳しく指導しても従わなかったはずである。人柄の温かさがあったのである。(芭蕉の門人と称する人々も追善興行に参加しなかった俳人も多く見える。芭蕉の心でなく名声だけ利用していた者も多かった))
 芭蕉の才能を愛した素堂は、出会いからその性格を見抜き、その欠点をそれとなく悟らせようとした。それが「蓑虫応答」(芭蕉と素堂の一連の遣り取り)である。結果は分からないが素堂の意に反していたようである。芭蕉は芭蕉で俳文を綴れば素堂に見せて意見を聞くと云った(幻住庵の記まで)事が続いている。
 不知庵氏は「蕉が平生愛謂して幻住庵に落柿舎に、或は行脚に折々に携へしとて、明かに知れたるは「白氏文集」「杜子美詩集」「世継物語」「源氏物語」「土佐日記」「百人一首」「吉今集」「吉今集序註」「山家集」「応安新式」等なり。其他の国朝諸典は季吟の門に在りしなれば、勿論ひとわたり渉猟せしならん。「徒黙草」「方丈記」宗舐・長嘯の家集及び謡曲・小唄の如きは、好んで沈読せしか止思はる。更に芭蕉の俳風で、
「芭蕉が俳諧の壇上に建し新旗識は不易流行の説なり。此不易論は、芭蕉が多年の修練工風より捉来りし見地にして、単り俳諧の上のみにあらず、自家の安心立命も亦此中に宿せしなるべし。之を俳諧の上に於てせば、不易とは時代の変化に移らず、千古に通じたる風情を咏びしをいふ。曰く「万台不易あり、一時の変化あり、この二つに究まる。其一といふは風雅の誠なり、不易を知らざれば実に知るにあらず。不易といふは、新古によらず変化流行にもかかはらず、まことによく立ちたる姿なり。代々の歌人の歌を見るに、代々其変化あり。又新古にもわたらず今見るところ、昔し見しにかはらずあはれる歌多し。是れ本と不易心得べし。又千変万化するものは自然の理なり。云々(赤草子)
 この説を芭蕉が唱えるのは元禄二年(1689)の奥州北陸吟行の時であるが、(呂丸の「聞書七日草」)ここでは「天地固有の俳諧説」ではあったが、素堂は貞享四年(1687)十一月に、其角の「続虚栗集」に序文を与え、『不易流行説』とは銘打っていないが
「風月の吟たえずして、しかももとの趣向にあらず、たれかいふ、風とるべく影ひろふべくば道に入べしと、此詞いたり週て心わきがたし。ある人来て今ようの狂句をかたり出しに、風雲の物のかたちあるがごとく、水月の又のかげをなすに似たり。あるは上代めきてやすくすなほなるもあれど、ただけしきをのみいひなして、情なきをや。古人いへることあり、景のうちにて情をふくむと、から歌にていはば「穿花挟蝶深深見 点水蜻蛉款々飛」これこてふとかげろふは処を得たれども、老杜は他の国にありてやすからぬ心とや、まことに景の中に情をふくむものかな。やまとうたかくぞあるベき云々」
 続虚栗の序文は後項の「素堂と芭蕉の俳諧論」で、芭蕉の「虚栗の序」(天和三年)と併せて紹介するが、素堂の俳論で重要なのは次の点で、
「はなに時の花有り、ついの花あり。時の花は二度妻にたはぶるゝに同じ。終の花は我宿の妻となさむの心ならし。人みな時の花にうつりやすく、終の花にはなほざりになりやすし。人の師たるもの此心わきまへながら、他のこのむ所にしたがひて色をよくし、ことをよくするならん。来る人のいへるは、われも又さる翁のかたりける事あり。鳩の浮巣の時にうき、時にしずみて風波にもまれざるごとく、内にこゝろざしをたつべしとなり。余わらひて之をうけがふ。いひつゞくればものさだめに似たれど、屈源楚国をわすれずとかや。これ若かりし頃狂旬をこのみて、いまなほ祈にふれてわすれぬものゆゑ、そゞろに弁をついやす。君みずや漆園の書いふものはしらずと。我しらざるによりいふならく。」
 清水茂夫氏(故)は論文「素堂の俳潜・天和貞享時代」の中で
 「時の花とは一時に興を求めるものであり、その時だけの目新しさ新奇さをもった旬である。終の花とは永遠にその生命の変わらないもの、つまり芭蕉の言う鳳雅の誠を責めて作られた句である。後年蕉門において盛んに論ぜられた不易流行論は、既に素堂を通じてこういう形で、最初に提出されたのである。」
 いま少し追加すれば、素堂・芭蕉蔓焦とも貞門俳諧に出て談林調に浸り、天和調(漢詩文調)流行の中に在っては漢学者の素堂にとり、得意の分野ではあるがのめり込むことは なく、ただ遊んだだけの事で、続虚栗序にある通りである。これとは反対に芭蕉は談林漢詩文調にどっぷりと浸ってしまった為め、その行き詰まりを感じて脱出に苦心していた。天和の初めの頃芭蕉は新式興隆をうたったものの、なお模索をしていた処へ江戸大火事に会い類焼し、誘われて甲斐谷村に流寓して江戸に戻った。しかし門弟の其角の虚栗集の序文を書いた時は、まだ方向が定まっていなかったのである。
 今日定説の如く云はれる「旅を家とす」と云う気持ちを持つのは、もっと後のことであろう.芭蕉は現状を脱するには、座して考るより旅に出てとしたのである。
 素堂の「続虚栗序」は其角に対して物であるが芭蕉に向けた文が主で、其角には「お前さんの師匠は芭蕉であるから、序を私に求めるのは筋違いであろう」と諭している。其角は初め素堂のもとにいたが、芭蕉に付かされたのであろう、その後も其角は素堂に序文をねだっている。
 素堂と芭蕉の句作の傾向は前述の通りで、年代順に追えば判ることだが、初句を発表してから推敲し直し成句にしている数は芭蕉が圧倒的に多い。共に自ら刊行することをせず、色紙等でも作年が記入して有るものも少ない、芭蕉は門入等による選集が多く、これに載集されているから良いが、素堂の場合は門弟は取らなかった事もあるが、興に乗った時の作や頼まれての物が圧倒的に多く、残されている作も他の人の句集に取られたものが主であるから大変に少ない。死後に刊行された「とくとくの句合」「素堂家集」によって見ても少ない。従って芭蕉の研究が多く成されて、素堂は後年まで俳壇のバックボーンとして別格の位置に据えられ、研究の対象外に置かれてしまい、時々篤学の人によって掘り起される始末となったのである。
 例えば与謝蕪村・小林一茶・夏月随斎らがそれである。素堂の甥の山口黒露・親族と云う越智百庵(寺町氏)は近いのであるから、能弁で有っても良いはずであるが寡黙に近い。三世来雪庵素堂(佐々木氏)も同様、素堂の門流を称する馬場錦江は「白蓮集解の研究書を著しているが、何れも芭蕉の研究には熱心であった。それだけ素堂が隠士の名に隠れて、芭蕉を後援していたと云うことであろう。
 素堂を「林門の一書生」と痛罵した不知庵氏も『蕉門の元勲といふべきは「二十歌仙」(延宝八年)の作者、殊に杉風.ト尺.嵐蘭.螺舎(其角)・治助(嵐雪)の五人と素堂なり』と無視することは出来なかった。また芭蕉没後の蕉門について『嵐雪と其角は芭蕉の徳量を欠くを以て、同門諸子及び諸国の俳匠を馴伏するを得ず、蕉門は条忽ち統一失ひて、滅後数年ならずして崩壊し「二十五条」を説き「十七条」を論じ「茶話禅」唱え、「山中問答」を称し、「貞享式」を銅破し「旅寝論」を絶叫し、宇陀法師に諤々し、「続五論」饒舌す。--中略--衷--杉風は耄(おいぼれ)し、丈草は隠れ、其角は嘯(うそぶ)き嵐雪は黙し、惟然は狂し、去来は歎じ、素堂は知らざる倣して、伊賀の三十一人衆は聾の如く唖の如し」
 と手きびしい。今日の明かされた資料からすると、不知庵氏の記述は一方的であるが、それはそれとして、蕉門の軋轢は芭蕉の生前から有り、芭蕉もかなり持て余していた。それを素堂は一分始終を知っていたらしい。丁度芭蕉の死と機を一にするように、素堂の身辺にも不幸が襲い、蕉門間の取り纏めをする暇も無いほどで有った。
 選集の出来を巡って其角・嵐雪に攻められた杉風は、深川に退隠して表に出たがらずに、それならばと西の去来に「蕉門建て直し」の期待を託し、素堂はしばしば京都を訪れては口説いていた。去来抄の巻末には「人伝(づて)」の如く記してあるがそうでは無かろう。
 「今年素堂子、洛の人に伝へて曰く、蕉翁の遺風天下に満て、漸又変ずべき時。いたれり。吾子こころざしを同じうして、我と吟会して一ツの新風を興行せんとなり。去来云、先生の言かたじけなく悦び侍る匂予も兼て此思なきもあらず、幸に先生をうしろだてとし、一つの新風起さば、おそらくは一度天下の俳人驚ろかせん。しかれども、世波老の波日々にうちかさなり、今は風雅に遊ぷべきいとまもなければ、唯御残多おもひ侍のみと申。云々」
 去来抄は偽書との説もあるが、元禄十五年頃までには成稿されたものと考えられており、また十二・三年ころの著とする説もある。素堂は元禄十一年・十三年・十四年から十五年にかけて上洛している。素覧の「東武太平鑑」(荻野清紹介)には、
 「江戸風の鑑とて今世さまざまに品つくり、変りたる風をよろこびて、目にあまる事おびただしければとて、葛飾の素堂大人此由、丈草・去来がもと、そのほか伊貫の衆にはかり、俳諧正風のおもてを興さむとありけれども、去来は手届かず、又丈草は此ほど身すぐれずとて取わず、ただ伊賀の衆中には志をのべてこしたるもありけれど、カなくてやみき云々」(「俳諧俳讃二百年史」紹介)
 荻野氏は「隠逸にして、人を訪ぬるさへ煩しいとした人物である。かかる彼が、俗に趨いた其角一派の句風に飽き足らず思つてゐた事は背かれるとするも、それ以上、新風興行等の煩瑣なる企画をなさうとは思はれ無い。彼の俳諧観及び其角との関係より見ても此事は疑はしい。云々」(山口素堂の研究上)と記すが如何であろうか。
 元禄十五年は、不知庵氏が主に取り上げている、京の轍士の編集による「花見車」が刊行されている。素堂は宝永元年四月に上洛の旅に登ったが、前年の十二月の元禄大地震のあとの大火で類焼したのであろう、町奉行所に深川六問堀続きの地に家作願いを出し、七月に許可が出ている。その九月には去来は病死し、素堂は京都で越年して翌二年四月に江戸へ向い、尾張鳴海の知足亭に寄り、江戸に帰った。その九月の去来追善集「講身の秋」(元察編)に追悼句を寄せている。
  「随斎諧話」に去来の死後、支考が向井家を訪れ、秘蔵の「伝書」を買い取ったとの記事があるが、如何であろうか。「去来抄」は安永四年に暁台の編集で刊行されている。尚、去来の父元升は儒医として禁裏に仕えたが、元長崎において「聖堂祭酒」(儒学の校主)を務めていた。恐らく素堂と桐山知幾とを結び付けたのは元升であろう。素堂と芭蕉は親友で在りながら、ある点までは素堂は先輩として芭蕉をリードし、芭蕉は素堂を目標として指導を仰いだ。ある点から芭蕉は素堂をライバルと意識しはじめたが、旅行中にも門弟に手紙で「素堂文章此近き頃のは御座無く候哉、なつかしく候」(元禄三年九月、曾良宛書簡)と素堂の序文等を求め、句作の方向を探っている。
 兎に角、素堂の資料は数が少ない。これも素堂の生き方であるから致し方ないが、ただその資料は芭蕉の資料の中に埋没しており、つぶさに検証すればその掘り起こしも可能である。芭蕉が元禄四年の「嵯峨日記」中で「長痛隠士の日、客半日の閑を得れば、あるじ半日の閑をうしなふと、素堂畦言葉を常にあはれぶ。予も又「うき我をさびしだらせよかんこどり」とは、ある寺に独居して言いし句なり云々」と記す。隠士とは名ばかりの素堂にとっては、多忙の日々の閑日を持った時は大事にしたいから、芭蕉であっても事前に手紙で訪問の打ち合わせをしないと会えなかったのである。荻野氏の解くように「折にふれて所懐を述ぶる程度に云々」とするには無理がある。素堂は自由詩人であり即興詩人である。興が沸かないと作品は作らない。誘われないと俳席にも一座しない。色紙を依頼しても興がないと出来上がりが遅いなどがある。元々寡作で有ったろう素堂は、芭蕉の死後は余計瓢々と過ごすのはもっと後の事であったのである。
 大分紙数を費やしてしまったが、いま少し素堂の学芸歴にもふれておくと○石川丈山について貞享五年九月十三日(芭蕉庵十三夜)「蚊足日記」に 
 隣の素翁、丈山老人の「一輪いまだ見えず---といふ唐歌は、此夜折にふれたり とたづさへ来れるを、壁にかけて草の庵のもてなしとす云々
○無絃の琴(詞書)元禄六年十月九日(素堂菊園之遊)
 柴桑の隠士(素堂)、無絃の琴を翫しをおもふに(中略)人見竹洞老人素琴を送られしより、是を夕にし、あるは風にしらべあはせて、自らほこりぬ。
○元禄九年正月十四日人見竹洞没以後に纏められた竹洞語録「台英随記」(伯毅編)に「子普(素堂の事)の才は檎ふ可らず。蓋し林門三才の随一たるべし云々
○元禄十五年三月刊行「花見車」(轍士編)にわかき時より髪をおろし云々。
○享保二年八月素堂追善集「通天橋」(雁山編)悼文に
 唯に茶と仕舞と我を慰るの友なりと云々
○享県六年氷壮(八月)「素堂句集」子光編序(訳文)
 詩歌を好み、猿楽を姥み、和文俳旬及び茶道に長たるなり云々「天質疎通強記 往所作之詩歌和文等 威暗誦之於胸中 人具紙硯請之則書而与其筆書也--中略--非与人対話則黙而如泥塑 人其説話也固不多言
○明和二年「摩詞十五夜」素堂五十周忌黒露編
 学は林春斎の高弟、和歌は持明院殿の御門人なと--中略--花のもと月の前に扇とって一さしをかなでつ、舞曲は宝生良将監秘蔵せし弟子入木道の趣。茶子の気味は葛天氏の代のすき者也と拝し給ひし。あるは又、算術にあく迄長じ給ひけるも、隠者にはおかし、閑なる秋の夕には琵琶を弾じ、平家など懇におもむかれたるは寂しかりし
○安永八年「連俳睦百韻」三世素堂襲名記念 来雪庵素堂編 百庵序
 古素堂翁和漢の方士--中略--此詩歌を弄び、茶事を好み、乱翁其徐多芸。俳諧の妙手たるといへども、俳諧のみにはあらず云々。
○O天明七年「奥の細道解」後(三世)素堂著
 性詩歌を好み、又琴曲を学び、又謡舞に長ず云々
○寛政頃「素堂伝」蟹守著蟹守は林門の出であると云う。詳細不詳
 素堂の学才我門に絶すと、師の春斎も語られき云々
○文化十一年「甲斐国志」松平定能編集総裁
 自少小四方ノ志アリ、婁々江戸に往還シテ受章旬於春斎 亦遊歴京都学書於持明院家受和歌於清水谷家運歌ハ再昌院法印北村季吟ヲ師トス。茶ハ今日庵宗丹門人ナリ。俳譜ヲ好ミ--中略--人見友元ヲ学友トシ、諸藩ニ講シテ詩歌ヲ事トス、傍ラ茶香聯俳演劇平家等ニ及ベリ云々
○文化十三年「俳諧奇人伝」玄々一著
 常に和漢の書を嘱んで詩文を善くす。--中略--弱冠より季吟の門に遊んで俳道の達者と呼ばる。--中略--後にある主家を辞してより深川の別荘に蓮池を掘り、交友を集めて、普の恵遠が蓮池に擬せし云々。
○嘉永三年 「葛飾飾正当系図」馬場錦江著
 其いとけなき時より四方に志ありて、しばく江府に往還し、林春斎の門に入りて経学をうけ、溶陽に遊歴して書を持明院家に学び、和歌を清水谷家にうけ、連歌は北村季吟を師とし--中略--俳諧を好ミ来雪と云信章斎と号す、又今日庵宗丹が門人となり喫茶をよくし、終に今目庵三世の主となる。--中酪--人見竹洞を友とし、諸藩に議じ儒を以て専門とし、詩歌を事とし、茶香聯俳を楽しみ、又は琵琶を弾じ、琴をすがき、或ハ宝生流の謡曲をも好む。此時既に素仙堂の号あり云々。
○嘉永年間「葛飾蕉門分脈系図」馬場錦江著
 前略-蓬沢の水利に功有後、東都東叡山下に寓居し、儒を専門とし、詩歌を事とし、茶香連俳を楽しみ云々
 以上が関連記事であるが、明らかに「甲斐国志」以前と後では異なる部分が多い…。一応「国志」以後の記事をおいて整理すると、年若いころから林家の家塾に入り、春斎に師事したことは判るが、春斎門弟の連名には今のところ信章(素堂)名は無い。(後日の調査で「升堂記」元禄六年の項に素堂の名がることがわかった。)しかし林門の人見竹洞や蟹守は「林家三才人の随一、或は我門に絶す」とするところから、在名していたことは確かであろう。
 春斎は詩文を那波活所に、和歌を松永貞徳に学び、漢詩を得意として、和文にも長けていた。又寛文頃は林門では漢詩聯俳が盛んで、従って素堂も得意としている。和歌を貞徳に学んだ春斎は、古今伝授を得た北村季吟と同門であるから、俳諧も貞門の彰響を受けていたと考えられ、素堂も多分に影響されていたであろう。後に貞門俳諧の高島玄札や春陽軒加友等と交わったのも自然である。素堂の書は持明院流である。持明院家(羽林家)は書流の家柄であるが、歌学の家でもなる。
 素堂が書を学んだとすれば、元禄十二年に大納言にのぼり、宝永元年に没した権大納言基時であろう。黒露は「摩詞十五夜」で『和歌は持明院殿の御門人』としているが、あながち記憶達いとか、間違いとも言えない。清水谷家(羽林家)は三条西実教の弟が別家して興した歌学の家で、素堂が学んだであろう当主は、寛文四年没の権大納言実任、あるいは後水尾院より手爾波伝を受けた、宝永六年没の権大納言実業(号鳴瀧)であろう。百庵は甘薯「華葉集」(未見)で清水谷家とする。彼自身が冷泉家為久の門下であった。実業の門下には季吟と後の桂園景樹の祖の香川宣阿がいた。聯歌については何れであるか不詳と云うしかない。その外、謡舞・仕舞・猿楽などと記されるものは宝生流の能で、廷言も演じたようである。茶道は千宗旦門でないことは確かで、甥の黒露が石州流としているから、素堂も石州流(片桐貞昌.延宝元年没六十九才)であろう。後に宗旦流の山田宗偏と親しくしていたから、今日庵の掛物を贈られたことから、後に間違えられたと考えられるからである。素堂は其日庵を号したかは未詳である。
素堂の儒学と漢詩文
 素堂が林門で経学を修めたと云う記述は、今のところ見えない、ただ林家の私塾は儒学だけではなく、前述の如く四書五経から和文に及び、師の春斎も認めていた俊才子晋(字名)は、先輩の英才人見竹洞も一目おくほどで、生涯親友の交わりをしていた。しかし子晋は二十前後で林門を去ったが、完全には関係は切れて無かったのであろう。後に弟と言う訥言や水間沾徳を林門に入れ、儒学をもって諸藩講義したとされる。
 私人としての素堂の生業は不明の事が多く、号名を素仙堂と云うから書家であるか、医師の家であったのか不明だが、この号の仙の字を省いて素堂とした訳で、芭蕉も延宝時代素宣を号しているから、医に関係が有りそうである。林門時代で子晋と記したが、実名を信章とするには着干疑問が残り、子晋と↓たのであるが、素堂自身「山口信章来雪」と署名しているし、黒露の「睦百韻」小叙に「人見竹洞子素堂を謂ていはく、素堂と講ぞ山口信章来雪なりと」とあり、百庵の「連俳睦百韻」序に「山口素仙堂太良兵衛信章」と有るから、そうで有ろう。がまだ雅号のような気がするからである。
 さて、まくらが長くなったが、素堂は漢学・和文に造詣が深く、漢詩を得意として、石川丈山を尊敬していた。漢学者丈山は、朝鮮通信使の権式之が日東の李杜と称美された詩人で、殊に素堂はその生き方に深い感銘を受けて、退隠後は斯く有りたいと思ったようである。竹洞は万治元年京都に丈山を訪ね、いろ/いろと尋ねているから、竹洞から素堂は啓発され、敬慕に導かれたかも知れない。万治元年は竹洞二十三才、素堂は十七才である。或いは竹洞に誘われて対面したか不明だが、丈山の存命中に対面しているらしい。素堂は丈山に魅力を感じて敬愛して止まなかったのである。





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最終更新日  2021年04月21日 17時33分13秒
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