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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月12日
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白須若宮八幡並び弁天社略記(「白州町誌」)白州町白須と富士吉田市白須市左衛門の関係 附、白須甲斐守
 はくしゅうまち・白州町 白州町白須と白洲次郎氏の家系調査
甲州巨摩郡白須村(現在白州町白須上)
 この神社は現在道の駅はくしゅうの北に位置する若宮八幡神社のこと。
 石田備前は神主として白州町内や小渕沢町の神社も数多く所管していた。現在の白須上公会堂周辺の広大な土地を所有していた。神社の東方に石田家の墓所があり、歴代自ら美濃守を名乗っていたことが刻されている。また当時白須家が白州町白須から吉田に移っていたことが理解できる。
 
 若官八幡宮井弁天社略記 白州町白須と白洲次郎氏の家系調査
 白須若宮八幡神社領鎮座末社七拾余社
右御股宇佐八幡宮 中御殿若宮八幡宮 左御殿正八幡宮
右両社勧請鎮座之儀往古ニ御座候得共、武田家御代々様御尊敬不浅、永禄四年(1561)武田晴信公御武運御長久之御祈願被仰付、其節教来石民部少輔源信房公格別成御尊敬ニ付(後馬場美濃守是也)
其御子孫白須形部少輔源政義公是又御尊敬ニ付、字宮原与申所より神主石田管蔵某ニ被仰付、當社地江被為遷朝暮、御武運御長久、御子孫御繁栄、御社参無御怠慢御祈願被為成、御寄附御奉納等度々被成下、殊更白須家以御威光天正十歳(1585・武田滅亡時)乍恐東照宮様(徳川家康)御入国御座被為遊候節、神主石田管蔵、乍恐(おそれながら)御目見仕関ヶ原大坂両所之御陣中江も御供仕候義、信房公(馬場)政義公(白須)御威光と先祖代次申傳候、且又慶長八年(1603)卯三月朔日御乍恐従御當家様御朱印徳證文被成下置、猶又御四奉行様者被仰付、乍恐御當家様御武運御長久之御祈願奉抽丹心、富神主ニ至候而茂正月六日於松之御間御年礼乍恐御目見仕候茂、偏ニ白須家御威光与難有奉存候、猶又「金ヶ池弁天杜御敬ニ既ニ鶴(都留)郡吉田町郷江為遷候事茂御座候、信房公御手植之梨子井此手柏に今神木如敬ひ小枝一本折取候ものも無之、枝葉繁茂仕侯義も、白須家御武連御長久御祥瑞と奉仰候、神宝御奉納之儀を追々可申上候、以上
甲州巨摩郡白須村 若官八幡官神主 石田備前印居判
 案内者 原弥五左衛門
同国都留郡 吉田村 白須市左衛門
右者若宮八幡井弁天略記被差出侯之虚、甲斐守被遂一覧、則本書を此方江被留置書面之写渡置申候、以上
白須甲斐守内 九三左衛門孝俊書判(白須下・原忠雄所蔵)

《解説》
若宮八幡官神主石田備前より都留郡吉田村白須市左衛門宛の若宮八幡官井弁天社略記。(略記中に)
○武田家代々尊敬浅からざりしこと。
○教来石民部少輔源信房公(後馬場美濃守是也公 子孫の白須刑部少輔源政義公御尊敬 神主石田管蔵に仰付当社地に還させしこと。
○天正十年東照宮様御入国の節神主石田管蔵御目見仕り関ヶ原・大阪両陣へ御供仕りしこと。
○其の他白須家御威光と有難く存じ奉る数々記戴。

白州町白須と白洲次郎氏の家系調査その3 白須(「角川日本姓氏大辞典19山梨県」)

『武田系図』による白州町白須と白洲次郎氏の家系調査
  はくしゅうまち・白州町  白須しらす白洲・白数とも書く。
巨摩郡郡白須之郷(北杜市白州町)発祥の族は清和源氏義光流武田氏族という.『武田系図』に「甲斐守信長―信綱―時信-貞信(白須次郎)」とみえる。

『太平記』による白州町白須と白洲次郎氏の家系調査
  観応3年(1352)3月足利尊氏が武蔵府中で新田義貞と戦ったときに、武田信武以下甲斐の諸将が信武に従って尊氏方として参陣したが、そのうちの一人に白洲上野守がみえる。

『一蓮寺過去帳』による白州町白須と白洲次郎氏の家系調査
 
白洲蔵人がみえ、長禄元年(1457)12月武田一門と跡部氏が戦った小河原合戦で討死したとある。
『甲斐国志』による白州町白須と白洲次郎氏の家系調査
 岩殿の円通寺(大月市)棟札に白洲信重、巨摩郡宮原村(甲府市)の鎌田八幡宮の天文五年(1532)の棟札に柁那中島(河東中島、昭和町)の住人白須神左衛門の名がみえる。
 また、天正3年の長篠の戦では、武田信豊の配下に白須又市がおり、子供の平次は武田信勝の小姓であった。


 白須平次に見る、白州町白須と白洲次郎氏の家系調査
は『甲斐国志』所収の『武家盛衰記』によれば、武田氏滅亡後徳川家康の小姓として仕えたが、ほかの小姓衆と口論して家康のもとを離れて稲葉道通に仕えた。白須又兵衛となのり、のち豊後臼杵(うすき)藩稲葉家の家臣として続いた。
 『寛政譜系譜』には幕臣として白須十兵衛道政を祖とする、二家があり、白須貞信の後喬という。道政系は1050石取りの旗本であった。天正起請文には廿人衆のうちに白須伝兵衛がみえる。

「下吉田村落史」に見る白州町白須と白洲次郎氏の家系調査
 甲斐にはもう一つ別系の白須氏がある。「下吉田村落史」所収の、「白須家系図」によれば清和源氏満仲流を称し、武田信玄の重臣馬場信房の子政信が都留郡下吉田村(富士吉田市)の新屋敷に居住して白須平太郎となのり大正一七年に死去、子には政豊(小太郎)・政春(小治郎)がおり、母は小林和泉守の娘であった。政春の子弥左衛門は下吉田村の名主を勤め、弟の白須小兵衛の子は渡辺家の祖となった。


『峡中家歴鑑』に見る、白州町白須と白洲次郎氏の家系調査
 南都留郡瑞穂村吉田(冨士合田市)の白須孝一家の先祖は白須刑部少輔政義であるが、遠祖については、多田満仲五代の子孫という兵庫頭仲政が馬場を称し、孫の中宮少左衛門尉兼綱が白須郷に来住したのがはじめで、政義はその孫で白須に在住した馬場信房の次男で、分家しで、瑞穂村吉田に移り白須をなのったといい、武田晴信・勝頼に仕えたのち、徳川氏に従い小田原合戦で戦死したと伝える。県内、160戸、富十吉田市に多い。
【割菱・丸に違い鷹の羽・亀甲の内輪遠い】

『甲斐国志』白須蔵人の項 白州町白須と白洲次郎氏の家系調査
 因みに云う、ある説にその頃武川に白須某という者有り、身貧にして刀も今は売り代かへ常に府に出で、此処彼処に寄食せり。ある時、その方の人々三四人、自須氏を誘い京師(京都)に遊ぶ。相人あり、白須氏を視て驚きて云う、足下登く本国に帰るべし。三十日を過ぎ必ず大きな幸いあらんと。近頃斯如し富責の相を視ず。若し違うことあらば、僕又人を相せすと人々敢て信ぜず。笑いて止みぬ。既にして国に帰る程なく江戸より召す人ありて使い来りて催しければ人々旅装を繕い江戸へ赴かしめき今年を歴ればその事慥(たしか)ならんとなん。





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最終更新日  2021年04月18日 14時29分30秒
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